着信

 満天の星たちにから視線をずらし地上へと戻ってきた、ちょうどその時だった。

 ズボンのポケットでスマートフォンが低い音とともに震え出す。

 芝川さんが何か言い忘れたことでもあり電話を寄越したのだろうか?

 そう思いながら、急ぎ取り出したスマホの画面に目を落とす。

「ッ」

 夜空の闇よりもわずかに劣る有機ELの黒の中に浮かび上がった『水守唯』という真っ白な文字を目にした瞬間、喉の奥から声にならない声をあげるはめになってしまった。

 スマホを握りしめたまま、そのあり得ない名が表示されるディスプレイを凝視して固まっていると、五回ほどのコールを経てバイブレーションは止まった。

 やがて暗転し鏡のようになった画面には、驚愕の表情を浮かべた自分の顔が映っていた。


 死者から電話が掛かってくるなどという、そんな馬鹿げたことがあるはずもない。

 だとすれば彼女の家族だろうか?

 それが誰だったにせよ、私に何らかの用事があったのは間違いない。

 急いで着信履歴を開き、その一番上にあった番号をタップする。

 二回三回と呼び出し音が続く。

 七回目のそれが鳴ったと同時に留守番電話サービスへの接続を知らせるアナウンスが流れ、私は慌てて通話終了のボタンを押下した。

 折り返し掛け直した旨を録音すべきなのに、私はなぜだか躊躇ってしまった。

 ただこれで先方の着信履歴には残ったはずだ。

 もし本当に大事な用件であれば、また向こうから掛かってくるだろう。


 駅のロータリーには客待ちのタクシーが一台だけ止まっていた。

 運転席の窓枠に片腕を乗せたドライバーが、その奥に見える駅舎を出入りする僅かな人々を眠たそうな目で追っている。

 本日の総走行距離だけでいえば彼の数倍は走っているであろう私をして、先ほどの出来事の刺激が強すぎたのか、ほんの数分前に感じていた肉体の疲労や眠気はどこかに吹き飛んでしまっていた。

 それでいて、今すぐにでもベッドに倒れ込みたいと感じているのは、きっと脳が疲れ切っていたからだろう。

 時間に余裕がシートを倒して仮眠を取りたかったが、今から向かう実家では父と母が待っている手前、そうのんびりしてもいられない。

 あと二〇キロ、もう三十分だけ運転をすればゆっくりと休むことができる。

 自分にそう言い聞かせ、来たときよりも少しだけスピードを出し、再び山の向う側へと車を走らせた。


 私の家は一帯を田畑に囲まれた耕作地帯のど真ん中に、文字通りぽつんと一軒だけでさみしげに建っている。

 築四十余年の古い日本住宅で、平屋の母屋には四つも五つも部屋があったが、そのすべてが和室だった。

 お隣さんの家まで歩いて五分も掛かるので、回覧板を回すのは少し億劫ではあったが、その分近隣に気兼ねせずに済む。

 バンドのまねごとをしていた高校時代には、母屋とは離れた場所に建つ離れ兼私の部屋がその練習場所だった。


 もう夜も遅い時間だというのに、施錠どころか開け放たれたままになっていた引き戸の玄関をくぐる。

 ほどなくして、廊下の奥からとたとたと軽快な足音を立てながらやってきた母は、「おかえりなさい。ご飯は食べてきたの?」と、まるで学校から帰ってきた息子に言うかのように訊ねてくる。

「まだ食べてない。お父さんは?」

「居間で野球みてるよ」

 居間でビールを手に野球のナイトゲームを観ていた父は、私の顔を見ると同時に「おかえり叶多。お前も飲むか?」と、母と同様に不自然なほど自然に振る舞ってくる。

 もっとも両親がマイペースなのは、何も今に始まったことではなかった。

 かつて私が十代も半ばだった頃、少しだけ親に迷惑を掛けていた時期があった。

 その時ですら父と母は、私を大きな声で叱るようなことは一度もせず、ただ『あまり人様に迷惑を掛けるようなことはするな』と、手首のスナップも禄に利かせず軽く釘を刺す程度だったほどだ。


 父と一緒に野球中継を観ながら母が用意してくれた食事を済ませると、ほんの数言だけの簡単な近況報告をする。

「仕事はどうだ?」

「楽しくやってるよ。お父さんとお母さんは?」

「仲良くやってるよ」

「それはなにより」

 これで互いに調子が狂うようなこともなかったし、親子仲も間違いなく良好であった。

 もし私が父と母に注文をつけるところがあるとすれば――。

「お! 叶多ほら! これ入っただろ! お! ほら入った! ホームラン!」

 心底嬉しそうに頭の上で腕をグルグルと振っている父を見ていたら、私が彼らに抱いている些細な不満など、壁のクロスのちょっとした汚れ以下の問題に思えてしまった。

 まあ、実際そんな程度のものなのだが。


 父の贔屓球団の勝利を見届けてから風呂へと向かった。

 マンションの狭いユニットバスに慣れた身としては、タイル貼りの広い浴室はちょっとした銭湯にでも来たような非日常感があった。

 肩まで湯に浸かり目を閉じると、今朝からの目まぐるしい出来事の数々が思い出される。

 若くして不幸な亡くなり方をした同級生は、思いの外に安らかな顔で常世の眠りについていた。

 彼女の母親は、娘の遺書に書かれていた『死んだ恋人』が誰だったのかを知りたがっていたようだが、少なくとも通夜に参列したメンバーの中にそれを知る人間はいなかった。

 高畑には『詮索するのは野暮だ』と叱責を受けてしまったが、仮に『死んだ恋人に会いにいく』が文字通りの意味だとすれば、そう遠くない時の中で彼女の想い人もまた亡くなっているはずなのだが、少なくともこの地元でそういった話はなかったという。


 風呂からあがり居間に行くと、テレビのバラエティー番組を退屈そうに観ている母と目が合う。

「叶多、結婚は?」

 それはまるで夏休みの宿題の進捗状況を訊くようなカジュアルさだった。

「あのさお母さん。結婚って相手がいなければできないって知ってた?」

 我ながらウィットに乏しい返答をしてしまったと、口にしたあとになってすぐに後悔する。

「あんたの友達のあの金髪の子、なんていったっけ?」

藤田ふじた?」

「そうそう、藤田君。あの子なんて二十歳で結婚して今度もう、ふたり目が生まれるそうよ」

 そんな極端な例を前面に出されても残念ながら何も響かないし、そもそも私はまだ結婚を焦るような年齢としではないはずだ。

 自分たちが若い身空で結婚をして幸せだったという成功体験を、息子の私にも押し付けようとしていることには何となく勘付いてはいたのだが、それは正直にいって迷惑な上に、時代錯誤なことこの上なかった。

「とにかく僕はまだ結婚なんて考えてないから。それじゃおやすみ」

 そう言い切ると同時に立ち上がる。

 背後で母がなにかを言っているのが聞こえたが、その内容を理解してしまう前に離れの自室へ避難することにした。


 玄関を出て徒歩十歩の場所にあるこの離れは、もともとは家業で使っていた作業場だったそうだ。

 祖父が亡くなり廃業してから簡単なリノベーションを経て、私が大学進学でこの家を出るまでの間は自室として再利用させてもらっていた。

 この町を去る時に大方の片付けは済ませていたので、今ではただ広いだけの空虚な空間に成り果てている。

 ベッドとテーブル、それにソファーだけがカラオケ店のパーティールームほどもある大部屋の隅っこに配置されており、窓と窓の間を吹き抜ける夜風を遮るものは何もない。

 すでにベッドには見覚えのない綺麗なシーツが展開済みであった。

 きっと母が昼間のうちに用意してくれたのだろう。

 部屋の入口に荷物を放り投げ、ベッドに真正面から倒れ込む。

「疲れた……」

 先ほどまでは脳みそだけだった疲労が、今は頭の天辺から足の爪先にまで広がっていた。

 せめてスマホの充電をしてから寝よう。

 そう思った時にはもう、意識は夢の世界へと足を踏み入――

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