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 この熊のぬいぐるみは、全長が十五センチ、座わらせた状態で九センチほどの大きさで、薄茶色の、毛足が五ミリほど伸びたフワフワとした毛布のような生地で作られている。

 真ん丸とした顔に真ん丸とした耳がふたつ。黒いビーズで目があしらわれ、綿を黒い布で包んだであろうボール状の鼻が顔の中央やや下に付いている。その鼻の下に、漢字の「人」のような形になった口が、黒い糸で描かれている。

 ハンドメイドらしい素朴さと暖かみに溢れたぬいぐるみだ。

 しかし良く見れば経年による劣化は隠しきれてもいない。所々、色褪せたように変色している。


 この熊のぬいぐるみは昭和五十年代後半に、埼玉県の北東部の街で作られた。

 作ったのは当時三十代の、農家に嫁いだ主婦の松村秀子という女性だという。

 秀子には娘がいた。子供はこの娘ひとりだけだった。手芸が趣味だった秀子が、その娘が遊ぶために作ったのがこの熊のぬいぐるみだった。娘が三歳の時だったそうだ。

 娘はぬいぐるみをとても気に入り可愛がっていた。肌身離さずどんな時も常に一緒にいたという。

 一人っ子で、近所に同じくらいの年齢の子供もおらず、まだ幼稚園や保育園にも通っていない時期だった。おそらくこの熊のぬいぐるみが彼女にとって初めて出来た友達だったのだろう。

 

 そんなある日、事件が起きる。

 娘は熊のぬいぐるみを持って庭で一人で遊んでいた。秀子は家の中で裁縫をしながら、その様子を見守っていた。

 平日の午前中、家には秀子と娘しかいなかった。

 秀子の夫も、同居していた義父と義母も農作業のため不在だった。

 そんな時、電話が掛かってきた。

 固定電話しかない時代だ。秀子は電話に出るために娘から一時目を離した。

 用件は不明だが、電話に出てから切るまで一分と掛からなかったそうだ。

 しかしその隙に娘が姿を消してしまった。


 家中、近所を探し回ったが一向に見つからない。三歳児の足で一分あまりの間に遠い所へと移動できるはずもない。家族、近所の住人総出で、側溝の中、農業用水路、茂み、ありとあらゆる場所を探したが見つからなかった。

 結局警察に通報する事となった。


 その翌日。娘は家から数キロ離れた、同じ市内にある建設会社の資材置場で、遺体で発見された。

 熊のぬいぐるみを抱いた状態だった。

 

 すぐに犯人は逮捕された。遺体が発見された建設会社で以前働いていた、三十代の無職の男だった。

 秀子と犯人の男は面識があった。同じ中学に通っていた同級生だった。

 ある日、男はたまたま秀子の家の近くを車で通り掛かった際に、秀子と娘の姿を見かけていた。

 それから頻繁に車で秀子の家の前を通り過ぎながら、声を掛けるタイミングを伺っていたという。

 男は秀子に中学の頃、想いを寄せていたそうだ。

 その想いをどうにかして果たしたいと考えていた。

 しかしそれは秀子ではなく、娘に向かうという歪んだ形で表現される事となってしまった。

 事件が起こった日、男が車で秀子の家の前にたどり着いたちょうどその時が、不運にも秀子が電話に出るために目を離したタイミングだった。

 男は車を降りると娘を抱きかかえ車に押し込み立ち去った。衝動的な犯行だった。

 そして暴行の末殺害し、資材置場に遺棄した。


 ぬいぐるみは証拠品として警察に押収された。

 裁判が終わり刑が確定すると、秀子の元に戻された。


 仕方がない事だが、遺体と対面してから秀子は精神に異常をきたした。

 日がな虚空を見つめては、何かをブツブツと呟き続ける日々だったそうだ。

 しかし何故だか分からないが、ぬいぐるみが手元に戻ると、嘘のようにそれは快方に向かったそうだ。以前のように明るくなった。

「目標が出来たの」そうしきりに言っていたそうだ。

 

 なんとか辛い事件を乗り越えて、平穏な日々が戻ったかと思われたある日、また事件が起こる。

 秀子が義父を包丁で刺したのだ。その時傍らに、あの熊のぬいぐるみを抱えていたそうだ。幸い傷は浅く義父の命に別状はなかった。

 しかし秀子は亡くなった。義父を刺した後、自分の腹や胸や首に、包丁を何度も何度も自ら突き刺し続け、大量に失血して亡くなったのだ。

 床に置かれた熊のぬいぐるみは秀子の血にまみれていたそうだ。

 

 またもや、ぬいぐるみは警察に押収される事となった。

 秀子の夫は警察にぬいぐるみを処分するように頼んだ。

 しかし、何故かぬいぐるみは処分されずに今現在、俺の手元にある。

 

 俺にこの熊のぬいぐるみを預け、いわくを語ってくれたのは七十代の女性だった。

 俺がテレビに出演したのを見たその女性が、SNSのダイレクトメールから連絡をしてきたのが二週間前だった。

 すぐに約束を取り付け、東京まで行き、上野の喫茶店でその女性と会いぬいぐるみを受け取った。

 その女性は自分の身の上について多くは語らなかった。ただ以前、埼玉の警察署で働いていたとだけ教えてくれた。

 この女性が証拠品であるぬいぐるみを警察から持ち出したのだろうか。本来なら私的に持ち出すことは禁止されているはずなのだが。

 女性はぬいぐるみの呪いの力については、とにかく近くに置いておくと気がおかしくなってしまいそうになるとだけ語った。だから押し入れの中にずっと長い間閉まい続けたままにしていたという。

 この呪いの熊のぬいぐるみについての概要は以上だ。


 一通り俺が話し終えると白椿さんがまず口を開いた。

「所々変色しているのは、秀子さんの血を浴びた所なのかしらね」

 その言葉に、会場から悲鳴が上がった。

 生々しく忌まわしい惨劇の痕跡がリアルにそこにあった。その事に誰もが気づいて、恐怖が会場を支配した。



 

 

 

 


 

 

 

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