新たな出会いとマングローブ(六)
「下の子供が3時頃に学校から帰ってくるから、それまでには終わらせてね」
「はいはい」
才は私が食べている料理のトレーを端に寄せて、テーブル中央を空けた。おいぃ、まだ食事中ぅ! そうして彼はショルダーバッグから、紙やノートを取り出してテーブルに並べた。
「それは?」
「判りませんか?」
判らんて。向きがそっち向きじゃないか。見せたかったら相手に見易いように表示しなさいな。私は紙を指で回して上下を変えた。
そこには事務用アプリケーションの基本フォントで打たれた、文字の羅列が印刷されていた。私は内容にざっと目を通した。
(なんじゃこりゃ)
それは下手な詩文だった。辛うじて韻は踏んでいるものの、恋人への意味の解らない愚痴が書き連ねられ、情緒もへったくれも無かった。それなのに何故か不安になる既視感が有る。
「まさか、これって……」
才から誰かに宛てたラブレター? だとしたら絶対に出すな。こんな物を渡したら相手が怯える。
しかし才は意外な事実を告げた。
「マングローブは原生林、一番の歌詞です」
「へっ!?」
私は紙を手に取って改めて文を読んだ。
しつこいのよ キミに言われ僕の胸はチクリと傷んだ
終わったのよ 台詞を受けて僕の心は大いに病んだ
罵って見下して追い払って 残酷なキミは頑固なヴィーナス
帰されてもまた来て縋り付いて めげない僕はアポロンの子
過去にしたいキミ 未来に繋げたい僕
2年間ずっと抱え込んだ僕の想い
月の船で夜空に飛ぼう 仲直りの遊覧飛行
だけれどすぐに航行不能 引力? 強風?
いいやキミだね 困ったヴィーナス☆
まるでタービュランス タービュランス
キリモミキリモミ急降下 星の海から地上の海へ
砕けたアクアマリン 地上の海も星空のように
「そうだった、アレ、こんな歌詞だったよ! 私はCD持ってなかったから歌詞の細かい部分、覚えてなかったんだよね。サビのタービュランス、タービュランスは今思い出した! 懐かしい!」
詞は私の脳に三十二年前の記憶を呼び覚ました。
「才くん、昔の曲なのによく調べられたね?」
「ネットに上がってたので簡単でした」
「こんな古い歌詞まで検索できるんだ。便利な世の中だねぇ」
端によけられたフライドポテトを割り箸でつまみながら、私は感心した。
「それでカナエさん、この歌詞を見て何か気づきましたか?」
「失恋ソングっぽくて、マングローブが一切登場しないよね?」
「その通りです」
才は左手人差し指を立てた。このポーズは彼が得意げになる時の癖らしい。ウザイ。
「でも二番に入った途端に、これでもかってくらいマングローブを推してくるんですよね。植林の有効性を長々と説明したり」
「タイトルがマングローブだって思い出したんじゃない?」
「二番でですか。遅過ぎでしょ。そもそも、一番と二番の歌詞に関連性が無いことがおかしいんですよ」
「まぁねぇ。恋の歌なのか環境整備を訴えたいのか判らないよね。普通は歌詞の方向性を統一するよね」
「そうなんです。ところでヴィーナスとアポロンと言う固有名詞が歌詞に登場しますが、ギリシャ神話についてある程度は知っていますか?」
「うん」
「えっ」
何で驚いているんだろう?
「私は本が好きな子供だったから、児童文学でギリシャ神話や北欧神話は読んでいるよ」
「知ってたんだ……」
才は渋い顔をして大学ノートをバッグにしまい込んだ。その時に私は見てしまった。ノートに張られた沢山の付箋を。
さてはあんた、時間を掛けてギリシャ神話を纏め上げてきたんだね? 私に教えることを想定して。悪いことをしてしまった。
「この歌詞では、アポロンがヴィーナスにフラれたように受け取れますが……」
才は軽く咳払いをしてから話を戻した。
「実際の神話では、アポロンが恋をした相手は川の神の娘、ダフネですよね?」
「うん。その逸話から月桂樹の冠が生まれたんだし」
アポロンは弓遊びをしていたキューピッドに、危ないからやめるように注意した。へそを曲げた糞ガキであるキューピッドは腹いせに、アポロンへダフネに恋をする金の矢を打ち込んでしまう。
パンツを穿いていない糞ガキは更に、ダフネにアポロンを嫌う鉛の矢を撃ち込んだのだ。
ダフネに求愛するアポロン。拒絶するダフネ。それでも諦めないアポロン。
ついにダフネは父親に頼んで自分の姿を月桂樹に変えてしまった。アポロンから完全に逃れる為に。
嘆いたアポロンは月桂樹で冠を造り、ダフネを偲ぶのであった。
下半身丸出しの糞ガキによって引き起こされた悲恋物語である。
「ヴィーナスはキューピッドの母親とされていますが、アポロンとダフネのエピソードには登場しませんよね? どうしてマングローブの歌詞に採用されたんでしょう?」
「それを言うならアポロンだって変だよ。歌詞には月の船とか星の海とか、やたらと夜に関連するワードが出てくるけど、アポロンは太陽を司る神だからね」
「ああ、本当にそうですね」
才はこの点を見落としていたようだ。
「月はアポロンの双子の女神、アルテミスの管轄だね。あ、飲み物のコップを取ってくれる?」
才は私にジンジャーエールが入ったグラスを渡して首を捻った。
「作詞家は、どうしてこんな間違いをしたんだろう?」
「単にギリシャ神話に詳しくなかったんじゃない?」
「メジャーデビュー第一作目の曲ですよ? 知らない部分は流石に調べるでしょう?」
「さぁ……、いい加減な人ってけっこう居るから。ここのチーズバーガー美味しい」
才はうーんうーん唸りながら、マングローブの歌詞が印字された紙と睨めっこをした。
「作詞家の名前はゴッド☆
該当者が思いつかなかった。芸能界にはあまり詳しくない。私の周囲でもそんなたわけた名前を付ける阿保は居ない。私は左右に頭を振った。
「キリング・ノヴァのメンバーではないですよね?」
メンバーは総勢四名。ギターの渚慎也。ボーカルの深沢海児。ドラムの
「俊が付く名前の人は居ないね。詞は外注したんじゃないかな?」
「こんな変な詞にわざわざ金を払って?」
「キリング・ノヴァはずっと硬派路線だったらしいから。殻を破ろうにも、コミカルな詞は書けなかったんじゃない?」
「なるほど……」
才は納得する台詞を口にしたものの、頬杖をついた姿勢で歌詞から目を離さなかった。この隙にお
大切なご飯は食べたし時刻も14時過ぎ、頃合いだ。
「あらあらもうこんな時間。そろそろ家に帰って掃除機掛けないと、子供が帰ってくるまでに間に合わないわぁ」
わざとらしく独り言を呟きつつ、私はいそいそと帰り支度を始めた。
「才くん、これ私の分ね」
料金をテーブルに置いた私に、才が言った。
「俺も出ますから、一緒に会計しましょう」
「あらそう?」
「その前にスマホ出して下さい。連絡先交換しましょう」
「へ」
虚を突かれた。
「いちいち待ち伏せするの面倒なんで」
しなきゃいいじゃん。連絡先って、まだ私に付き纏う気かい?
「いや~、私スマホ持って……」
美波の時と同じ言い訳で断ろうとしたが、
「持ってますよね? たぶんバッグの外ポケット。事情聴取の時、そこからスマホ出して旦那さんに連絡してましたよね? 今日も入ってるんでしょう?」
くっそ、見透かされていたか。私は渋々携帯電話を取り出した。
「あの~、私ってばメールも電話も嫌いで……。だから本当に必要な時以外は、くれぐれも連絡を控えてね?」
「大丈夫ですよ。そのくらい
噓を吐け。弁えている奴が、二週間も張り込みなんてするもんか。
私は心の中で毒づきながら、大切な個人情報をストーカーに渡してしまったのだった。
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