第一の殺人
ボサ男と寝癖マンと絞殺死体(一)
2022年、2月10日の木曜日。
賃貸型マンションのエントランスホール、集合ポストの前でポスティング歴三年目に突入した私は唸っていた。
「この入れ方、勘弁してよ……」
丸めた状態で狭いポスト口に乱暴に突っ込まれたチラシ。私より早く来た別業者の手によるものだろう。丸められたせいで弾力性を得たチラシが、後続の投函を意地悪く阻んでいた。
しかもこのチラシ、リフォーム業者から委託されたものに見える。賃貸物件ではリフォームは大家が一括して行う。それ故にリフォーム系のチラシは、一戸建て以外のポストへ投函してはいけない暗黙のルールが有るというのに。
「せめて真っ直ぐに入れるか、二つ折りにするかしてよね」
ルール無視の上、投函スタイルも雑となると救いようが無い。
私は壁に設置された十六軒分のポストに、いつもの倍の時間をかけてトランクルームとピザ屋のチラシを入れていった。
「お腹が空いたな」
腕時計を確認すると正午過ぎ。バッグの中のチラシは残り七十セットほどなので、私の配布ペースならば三十分も有れば配り終えられる。子供が学校から帰ってくる前に、今日は遅めの昼食を取ることができそうだ。昨日は忙しくて昼ご飯抜きだった。
私の名前は
下の子が小学校へ入学したことを機に、久し振りに働きに出ようと思い立った。しかし募集広告が掲示する勤務時間が自分の希望に合わず、二の足を踏んでいた。
そこで目を付けたのがポスティングの仕事だ。チラシを指定地域に配布するこの仕事、時給に換算すると五百~八百円程度なので稼ぎは少ないが、自分にとって都合の良い、私の場合は子供が学校に行っている間に働けるので応募してみた。
面接と説明会を同時に受けた私は、個人事業主としてポスティング会社と契約することになった。従業員ではないので雇用保険が適用されない頼り無い身分だが、その分自由度はかなり高い。
会社は律儀にも毎週末、稼働範囲と配布枚数を明記したメールで、来週の仕事を受けてもらえるかどうかを私に尋ねてくる。このシステムは非常にありがたい。仕事をしたくない週は堂々と断ることができるのだ。仕事量を減らしてもらうといった調節も可能だ。自宅までチラシの束を届けてくれるのも助かる。
しかしこれは、あくまでも私が契約した会社での話だ。会社によっては融通が利かない所も有るそうなので、応募の前によく相手を調べた方がいい。
「ん?」
マンションを出た私は、戸建て住宅の側で困った顔をして佇む若い男性の姿を見つけた。
ショルダーバッグを斜め掛けしている彼は腰の辺りで両手を組み、胸元には私とタイプの違うネームプレートを付けていた。彼もまた、別の会社と契約したポスティングスタッフのようだ。
「お疲れ様です」
私は同業者に挨拶をした。
「……お、お疲れ様、です」
真っ黒なボサボサ頭で身だしなみが苦手そうな彼は、たどたどしくだが挨拶を返してくれた。そして視線を自分の両手に戻した。
「?」
よく見ると、ボサ
質の高い紙で作られたチラシは頑丈なのだが、その代わりに扱う人間の皮膚をスパスパ斬る。切る、ではなく斬る。蓋が有るタイプのポスト口も、配達人を狙ったトラップの如く皮膚をゴリゴリと削ってくれる。
以上の点から、ポスティングスタッフに消毒液と絆創膏は必須の携帯品であると言えよう。しかしながらボサ男は、絆創膏はおろかティッシュペーパーすら持っていなかったようで、指を圧迫することで止血を試みていた。この仕事に就いてまだ日が浅いのだろうか?
放っておくと後味が悪いことになりそうなので、私は手持ちの絆創膏を一枚、財布から取り出してボサ男に手渡した。
「良かったらどうぞ」
「え、あ……?」
「あなたもポスティングしているんでしょう? チラシに血を付けたらクレームが来ますよ?」
「……………………」
ボサ男は数秒間私の顔を見つめた後に、おずおずと手を伸ばして絆創膏を受け取った。
「あ、ありがとうございます……」
語尾が消え入りそうな弱々しい声だった。
「じゃあ、失礼します」
私はボサ男の横をすり抜けて、さっさと仕事に戻ることにした。
ポスティングはその週の仕事量と報酬が決まっているので、早く終わらせれば終わらせるほど、時給換算率が高くなるのだ。なのでスタッフは基本的に全員、タイムアタックに挑戦していると思って頂いて構わない。
スタッ、ガコッ、スタッ。
軽やかな足取りで私は、連立する戸建て住宅のポストに次々とチラシを入れていった。
徒歩配布は早い。チラシが三種類以上有る週は重いので自転車を使うが、邪魔にならないスペースにいちいち駐輪しなければならないので、手間と時間がかかってしまうのだ。スタンド部分が壊れやすいという点も自転車配布の大きなマイナスだ。
そうこうしている間にチラシも残り僅か。良い具合に二階建ての単身者向けアパートが目の前だ。今週分のチラシはあそこで配り終えられそうだ。
先程のボサ男が私に続いて、アパートの敷地内へ入ってきた。配達ルートが被ることはよく有るので気にしなかった。
このアパートの集合ポストは、一階と二階を合わせた十軒分が揃っていた。私とボサ男はポストの前に横並びになって、それぞれのチラシの投函作業に勤しんだ。
「もうっ!」
私が最後の一セットを入れ終えた正にその時、こちらから数えて三つ目の部屋のドアが、大声と共に乱暴に開け放たれた。
目をやると、部屋から住人らしい三十歳前後の男性が出てきて、ボサ男にも負けない寝癖だらけの頭を搔き毟った。
「困るんだよ、もうっ、何してんの? 常識無いワケ!?」
寝癖マンは何かに対して悪態を吐いた後、大げさに頭を振りつつ視線を泳がせ、ポカンと立ち尽くしていた私とボサ男に気づいてしまった。
「あっ、キミ達良いところに!」
目を輝かせながら寝癖マンはこちらに歩を進めた。え、何アイツ、関わりたくないんだけど。横目でボサ男の方を見たら、奴は私の背中にそっと隠れた。おい。
「僕さー、超困ってるんだけどー。一緒に来てくんない?」
まるで友人にするそれのように、寝癖マンは私の手を取った。
「ちょっ……、困ります!」
私は当然拒否したのだが、寝癖マンはお構いなしに私の腕を引き、アパート共有通路の中程へ連れて行かれてしまった。
「ここ、僕の隣りの部屋ね。耳を澄ましてみて」
人の話を聞かない寝癖マンの目的地は一階に在る……、おそらく105号室前だった。部屋番号を示すプレートがドア上部に貼り付けられているのだが、経年劣化で文字が削れて読み取りが難しい。
しかしこの部屋が何だと言うのだろう? 耳を澄ませろとは?
「か、微かにピピピピって音がしますね。目覚まし、かな?」
寝癖マンに応えたのは、意外にもボサ男だった。てっきり一人で逃げたかと思ったが、一応は私を気遣って付いてきてくれたのか。私の背中の陰からは出ようとしないが。
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