人間のような少女
《シカロ》の跡地は、自然で象られた水流の遺跡といった様相だった。
明けがたの冷えた空気の中で、遥か高みにある樹冠の枝葉が、しとしとと朝露の雨を降らせている。森の匂いが水に溶けて広がり、生命を伝えてくる。濡れて光を含んだ緑の瑞々しさに覆われた廃墟は未来に埋もれた過去で、郷愁にも似た寂しさが退廃的な美を喚起していた。
草木が鬱蒼としている森林内に、重苦しい天蓋が崩れたように、青い空が見える隙間があった。森の中と違い、木々の間を飛ぶ鳥の姿が、はっきりと捉えられる。間引かれたように木が少ない。開けた空があるせいで、周囲の森が、そそり立つ壁のようだ。緑の雲間を抜けた陽が天使の梯子のように差し、その下には大きく張られた水鏡が何枚もあり、それらが朝日を反射し、白く輝いていた。ときおり、鏡面から大きな魚が飛びだし、波紋を作る。これがしょうこの言っていた生簀なのだろう。
水鏡の周りは、他よりも地面が一段低くなっており、柵のように育った雑木で取り囲まれている。どの水鏡の前にも、自然界にはありえない直線を持つ、緑色の輪郭がある。垂直と水平と斜め。打ち捨てられた家屋の群れだ。
水耕栽培、それも稲作の跡地だ。手入れされていない畦道は草木が繁茂し、ほぼ獣道のようになっているが、田の跡地には水が通されており、人工の痕跡を残している。一世帯に一枚の田。ここまで大規模の農耕地を見たのは、いつぶりだろう。人の手の入ったものだが、自然に溶けこんだ人の営みは美しいものだ、とキノエは思った。
しかし、惜しむらくは水田の質が高くないことだ。荒れてしまっているせいもあるだろうが、水面から土が露出している箇所がいくつかある。水平を取れていないのだ。特に
だがしかし――ふむ、とキノエは考えこむ。
逆に言えば、質の悪い畑でも十分な収穫を得られていたということだろうか。確かに、目測で一枚の田は一反ほどはある。森から採れるものを合わせれば不足はないだろう。元々、〈あおまし〉が多い土地なのだとすれば、多少は質が悪くても大きな実りが得られる。だがそれならば、母娘二人で暮らす助けになるだろうに、一枚も田を整備していないのは不思議なところだった。少しは手を抜いても大丈夫な稲作でも、割に合わなかったのだろうか。
「……まぁ、私、畑仕事したことないからな……」
気になるところではあったが、なにか言える立場でもないので、キノエは考察を切りあげた。
《シカロ》は明けがたという理由だけでなく、空気がひやりとしている。木々の隙間を縫うように水が流れており、
近くからする水の音に、ふと目を落としてみると、雑草に覆われ、さあさあと水が流れていた。用水路だ。家の裏手から水が引かれており、水鏡に向かって伸びている。家屋ごとにある畑の水は、どうやらそれぞれの家の裏から引かれているようだった。用水路と水田の間に家を置いている構造から察するに、
《シカロ》はぐるりと用水路が巡らされているようだ。水源はもちろん沼だろう。水の流れがあれば、木々は育つことはできない。つまり、自然と文明の間に境界が引かれる。
水の流れが結界のように働いているのだ。
今では緑の岩のような家屋群が、木々に内側から食い破られた様が、《シカロ》の現状だ。
家屋の外壁はツタで覆われており、一部の隙もなく密集した葉の陰影が作りだす凹凸が、ざらついた緑の巨岩のようになっている。障子や窓などの細木で枠組まれていた部分は朽ちているが、残った骨組みはツル性の植物が絡むことで守られている。崩れた屋根の大きく空いた隙間からは例外なく木が梢を張っており、太陽を求めて放射状に広がっている。芽生えた場所が悪く森の陰にいる彼らは、さほど大きくはなく不健康で、枝が節くれだっていた。
一番近くにあった廃屋の柱をキノエが調べてみると、虫が巣食い、半ば朽ちかけていた。腐敗の進みかたから見ても、十数年は放置されていたのは間違いない。ある木の幹には、上のほうから鍬が飛びだしていた。木の生長に巻きこまれたのだろう。玄関前と思しき場所に野ざらしにされていた荷車は、車輪が片方外れていたが、ニスでも塗られていたのか腐らず原形は留めていた。しかし、荷台の中央から幹に貫通されており、まるで荷車から木が生えたようだった。
キノエはそのまま廃屋の一つに足を踏みいれた。
玄関の土間には枯葉が敷きつめられており、雨あがりに似た匂いが充満している。歩くたび、さくり、という音がする。土間にしては踏み心地が柔らかく、松葉杖で枯葉をどかすと、下からふかふかとした土が出てきた。浅くだが腐葉土ができているようで、このまま時を経れば、上がり框で板間と仕切られた土間は、小さな庭になるだろう。
荒廃の度合いは時の流れを差し引いても、想像を超えて酷かった。《一族》が残している〈
〈ヌシ〉は動物の〈泥人〉のようなもので、弱った土地に現れる。〈泥人〉との最大の違いとしては、〈ヌシ〉は森の一部として振るまう、という点だろう。正確には、元が動物なので本能で行動するのだ。〈あおまし〉を
〈ヌシ〉は、天災などで荒れた土地に残った〈
そう、
キノエは、〈怪もの〉について、しょうこに黙っていたことがある。
現象である〈怪もの〉は目的を果たすと消える。文字通り、現象がある境界を越えると、灰色の土塊を残して消えるのだ。止まない雨も降らない雨もないように、物事は必ず始まって終わる。〈祓い〉には、その〈怪もの〉の性質を利用する。光がなければ影がないのと同じで、原因を断てば結果は失せる。〈ヌシ〉は弱った土地を豊かにすることが目的の現象であるから、森の生長の手伝いをすることが〈祓い〉になる。
それは〈泥人〉も同様だ。
だから、しょうこがどんなに娘のことを想っていても、水緒が〈泥人〉としての目的を果たせば、いずれ消える――死ぬ。少なくとも、普通の人間のように天命を全うすることは不可能だろう。いや、あるいは、その瞬間こそが〈怪もの〉としての寿命だ。
しかし、〈泥人〉の目的は解っていない。
人が元になったために、
そもそも、〈ヌシ〉は弱った土地に現れるのに対し、〈泥人〉は実りのある
しかし、〈ヌシ〉と同じく〈泥人〉が豊かさをもたらす存在であることには違いがないので、ヒトと交わって染まる色は二つある。
それは排斥か崇拝だ。
《シカロ》の場合では前者だったが、どちらかと言えばこれは珍しいほうだ。豊穣を司る〈泥人〉は、善性として受けいれられていた記録が多い。
《シカロ》の住民が〈生体通貨〉の過剰摂取の症状を起こすまでには、ひと月ほどという話だった。自分も長いことはここにいられないだろう――と、そこでキノエは気づく。十数年、水緒と暮らしているはずのしょうこは、なぜ無事なのか? 彼女からは不自然な甘い香りなどしなかった。
考えられる可能性としては、水緒と一緒に生活していることだろう。〈泥人〉は〈あおまし〉の〈生体通貨〉で稼働するのだから、水緒の周りはその影響が薄くなる道理だ。ならば、自分の体から甘い香りを放たれることはなさそうだが――そこまで考えて、希望的観測は油断と同義だ、とキノエは甘い考えを頭から締めだした。
なんにしろ、ことは早く済むほうがいい。まずは、《シカロ》の環境を調べ、〈泥人〉が発生した要因を突き止めることが先決だ。
キノエは廃屋を出る。すると、少し歩いたところで頭の上のほうから声をかけられた。
「キノエ、なにしてるの」
後ろ空を仰ぐと、廃屋の屋根に水緒がいた。
「調べものだよ。言ったでしょ? ここには〈怪もの〉を調べにきた、って」
ふぅん、と水緒は近くの木に〈蜘蛛矢〉を刺し、こちらに降りてくる。相変わらず感嘆するほど矢の扱いが上手い。
「〈怪もの〉って色々いるんでしょ? ここにはどんなのがいる?」
「さぁ、判らないから、それを調べるのさ」
「なにを……」
「色々だよ。土や葉っぱ、水や空気……あとは生き物の血とかね」
「じゃあ、わたしの血も、いる?」
「あぁ……そうだね、構わないなら」
解った、と水緒はいきなりなんの躊躇いもなく、〈蜘蛛矢〉で自分の腕を刺そうとしていた。ぎょっとしてキノエは慌てて止める。
「待て待て待て! そんな方法じゃなくて、ちゃんとした道具があるから」
「そうなの?」
「そうだよ、まったく……」
剃刀の刃を渡る足を踏み外しかけたような怖気がした。
水緒は〈怪もの〉だ。この少女は人間ではない。なのに、なにを心配したのか。ただの現象で、生命ではないというのに、なにを戸惑っているのか。〈泥人〉を見たのは初めてなのもある。ヒトの形をしているだけで、いとも容易く脳は錯覚を引き起こしてしまう。価値を共有するために、人間は共感能力を発達させてきただけだ。頭では理解していても、ヒトをヒト足らしめる本能には抗えない。こんな調子で、幼い少女に〈祓い〉をする段になったとき、自分は果たしてそれを実行できるのだろうか。
水緒はあまりにも個の自覚が薄い。自傷行為になんら躊躇いのないほどに。きっと、これが〈泥人〉なのだろう。だから、もしも〈祓い〉のときがきても、彼女は簡単に受けいれるに違いない。キノエが少女に抱いた自然美の正体は、きっとそういう類いのものだ。
『生命』とは所詮、人間が考えだした概念にすぎない。種と個を保存する増殖過程に勝手に名前をつけ、同様の機序を持つものへの分類だ。しかし、『生命』はどこにあるのだろう? もしも、植物が脳のような神経細胞の塊を獲得し、意識を持ったとき、彼らは動物を同じ『生命』と認識するだろうか? それ以前に、
そして、〈泥人〉はまさに
少なくとも、きっと水緒は、キノエを
『生命』に対する感覚が、世界の見えかたが、彼女の識る『人間』自体が、キノエと異なっているだろう。生まれてから母親以外の人間を見たことがなく、社会性を得る経験もなく、無垢に成長した〈泥人〉は、どんな世界を築いているか? とうてい想像できない。
今思えば得心が行く。自分が橋から蹴落とされたことは、異国の血を引いた容姿が原因ではない。あのときの水緒は、本気でキノエをただの獲物だと思っていたのだ。言葉を話そうと、意思疎通ができそうであっても、無関係だったのだ。それこそ、食物連鎖の環の中にいる獣のように。それはあまりにも恐ろしい乖離だ。こうして今、普通に会話ができていること自体、不思議なほどに。
魚は水を、鳥は磁場を、昆虫は紫外線を、蛇は赤外線を、蝙蝠は音を、鮫は電気を、それぞれの手段で知覚できる。人間と動物ですら、見ている世界がこれだけ違う。では〈泥人〉は? ヒトの形をしているだけで、中身は別物だ。どんな世界を見ているのか、解ったものではない。相手は『生命』ですらないのだ。幼い少女の形をしたものの瞳に、自分の姿がどう映っているか――瞳に映っているかすら――解らない。
〈あおまし〉という、ただの微小な道具の集まりが自己組織化し、意識の振るまいを見せていることを、キノエは――《一族》は――『生命』ではないと断じた。しかし今、自分が水緒に見出してしまったものはヒトの形に対する共感で、だとすると本当は『生命』なんてものは――キノエはそれ以上を言語化したくなかった。
眩暈のような感覚に耐えて、キノエは大きく息を吐いた。言葉にする代わりに、この思索がすべて口から出ていってくれることを願いながら。
「水緒、血を採りたいから、その辺に座ってもらえる?」
頷くと、水緒は地べたに座りこんだ。キノエも彼女の前に腰を落とし、背嚢から掌大の木箱を取りだす。中身は注射器と用途別の針一式だ。注射器は、注射筒が硝子製で、押子や針の装着部は銀で、一式の針はすべて鋼で作られている。箱の中で固定されていたからか、割れずに済んだ数少ない硝子製の道具だ。
キノエは注射器と一緒に、焚きつけ用に携帯している
針を注射器の先端に着けながらキノエは言う。
「血を採りやすくするために縛るから、腕出して」
黙って腕を出した水緒の二の腕の肘近くに、駆血帯代わりの紐を結ぶ。水緒の腕は細いが、骨ばっているわけではなく、ほどよい筋肉のついた健康的な腕だ。肌は思ったよりも熱っぽい。子供特有の体温の高さだ。その温かさに、さっきの眩暈が戻ってくるような気がした。〈泥人〉は冷たいものだと勝手に先入観を抱いていた自分を罵る――〈生体通貨〉を消費するのだから熱を持っているに決まっている。そんなことに惑わされるな、馬鹿め。
少しすると、水緒の腕の静脈が浮いて見えてきた。注射器を構えると水緒が訊いてくる。
「それ刺すの?」
「そうだよ。見てるほうが痛みがあるから、目は逸らしておいたほうがいい」
「面白いから見てる」
「あ、そう……好きにしな」
針を刺し、注射器の押子をゆっくりと引いていく。注射筒の中に隙間ができるのに合わせて、筒の中に血が流れこみはじめた。その血を見て、目を細める。
キノエはここで血を採取しても、直接なにかが判るとは思っていなかった。ぶんぶんゴマの要領で血漿と血球に遠心分離すれば、ある程度は保存が利くので、持ち帰って観察するつもりだったのだ。
だが、その必要はなかった。
水緒の血は桃色をしていた。
血の赤は赤血球だ。それが薄いということは、赤血球が少ないということになる。赤血球は酸素を運び、体内では酸素を使って〈生体通貨〉を生成する。つまり、酸素の供給度合いが低いということは、体内で〈生体通貨〉を生成する必要性も低いということだ。
単純な話だ。外から供給があるから、体内で作る必要がない。
〈怪もの〉ならば、それが可能だ。この薄い色をした血は、水緒が人間ではないことのなによりの証拠なのだ。目の前にいる少女の体は、見た目こそ人間だが、どこか根本的な部分が人間と異なっているのだろう。
キノエは採血した血を別の金属管に移し、栓をした。針を刺したあとの傷口に、膏薬を塗った布を貼ってあげながら、訊く。
「ところで、近くに沼があるって聞いたんだけど、どこにあるの?」
「いいよ、案内する」
人間のような少女は微笑んだ。
「代わりに、お話、聞かせて」
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