《シカロ》の母娘

 覚醒は意識を重力に曝した。


 身体が重さで輪郭を得て、過去にすら簡単に飛べていた自分を曖昧さから引っぱりだす。浮かぶような喪失感から墜ちるような獲得感に遷移し、いつも不思議な一瞬の感覚で、自然と目を開く。


 横になっているようだった。


 灯りはなく、周囲は暗い。もぞりと身じろぎをすると、人肌で温まった布地の感触がし、布団で寝ていたのだと判る。妙に気怠かったので、横着して寝転がったまま布団から手を伸ばし、周囲をまさぐってみた。敷布を撫でて、低い段差から掌が落ちる。


 ざらりとした、平たい冷たさ。


 板間だ。


 空気の流れは感じられず、閉じた部屋に特有の、軽く圧しかかってくるような空気感がある。急な温度差で指先から意識がはっきりとしてきた。


 蹴落とされたのだ。


 橋の上から少女に。


 キノエは勢いよく起きあがる。左足に鈍痛が走り、顔を歪めた。


 足元を覆っていた掛布をめくり、足を確認する。布で添え木が固定されていた。間違いなく折れている。直視した途端、蚊に刺されたことを知ると痒みがくるように、急に痛みが襲ってきた。心臓が鼓動して血が送られるたびに足が疼く。


 痛みに耐えようと全身を強張らせながら意味もなく天井を仰ぐ。うっすらと板張りの桟が見えて、天井を這うような光があるのに気づいた。仄暗い中で隙間から漏れる光が長方形を作っている。


 ようやっと気がついたが、話し声が聞こえる。外に誰かがいるようだった。くぐもっているが、片方はあの少女だろう。もう一人も若い女だが、幼くはない。


 キノエはずりずりと布団から這いでて、板戸に耳を当てる。行儀は悪いと思ったが、怪我をさせられた身なので、警戒のためだと自分に言い聞かせた。ぱちぱちと火が小さく爆ぜる音が聞こえる。集落ムラの中で火を使えるのは、樹下に設けられた共同炊事場ぐらいだが、この先は外だろうか。橋から落とされたあと休憩小屋にでも寝かされていたのか、この建物の構造が今一つ解らない。


 混乱しそうな状況だったが、今は会話を聞くことに努めた。


「……水緒みお、どうしてあんなことをしたの」

「なんで怒るの……お母さん。わたし、獲物を取ってきただけなのに……」

「あの人は獲物なんかじゃないのよ、私たちと同じ人間なの」

「でも、あれはお母さんともわたしとも違うよ?」

「人間はみんな違うの。あなたは見たことないかもしれないけど、色んな見た目の人がいるの……」


 どうやら、若い女は少女の母親のようで、娘を叱っているようだった。母親の声は静かで柔らかく、声に怒りを込めるのに慣れていない様子だ。それでも、少女の声は少し震え、泣きそうだ。娘も娘で、叱られ慣れていないらしい。よく母に怒られていた自分からすれば、あの程度では反省の色すら見せないものだが、とキノエは益体なく思う。


 どうやら、あの少女――水緒は、自分と母親以外の人間を知らないらしい。その結果として、キノエは警戒心が皆無の変な生き物と思われ、ようだ。しかし、相手が猿ではないのだし、言葉を喋るのだから……。。途中まで思い、考えなおす。初めて会った他人が自分だったら、仕方がないのかもしれない。


 段々と水緒の声が小さくなっていき、鼻をすする音に変わっていく。母親もその様子にうろたえているのか、言葉が少なくなっていった。やがて二人とも黙りこんでしまい、ぱちぱちと燃える炭の音だけになってしまった。


 いたたまれなくなり、そろりとキノエは戸を開ける。


 その先の光景に面食らった。


 十畳ほどの居間の中央に囲炉裏が据えられている。囲炉裏など見たのは何年振りか。二つの部屋が並行に並んでいる建物に至っては、故郷を出て以来初めてだ。奥のほうには土間が続いていて、炊事場らしきものが見えた。つまり、ここは樹下に建てられた家屋なのだ。


 巨大な森に支配されている中で、樹下に生活基盤を築ける人間は一握りしかいない。予想だにしなかった光景に虚を衝かれ、キノエは呆然としていたが、戸が開いたことに母娘はまだ気づいてない様子だった。


 囲炉裏の横にイグサを編んだ円座を敷き、二人は座っていた。母親は少し背を丸めて正座し、その正面で水緒が膝を抱えて俯いている。


 いつの間にか日が落ちていたようだ。炉の火だけが光を持ち、ぼんやりと膨らむような黄の光が蚊帳のように暗い室内を包んでいる。炎が静かに踊る薄い影の中で、熱で白い肌にほんのりと赤みの差した、水緒の母親の顔が照らしだされていた。


 彼女の顔は娘にそっくりだった。しかし、八の字に眉尻を下げている伏し目がちの表情は、娘とは似ても似つかない。目鼻立ちこそ成長した水緒を思わせるが、少女がまとっていた凛々しさとは対極的に、虚ろな、水墨のような雰囲気の女だった。


「えっと、あの……」


 声をかけると母親はキノエに気づき、跳ねるように立ちあがった。そのまま慌てた様子で、ぱたぱたと小足で駆けよってくる。


「起きたんですね、あぁ良かった」


 胸を撫でおろすように、優しい声で吐息混じりに言いながら膝を降り、音を立てずにキノエの正面に正座した。


 かと思えば流れるように、その場で床に額をつけた。


「この度は本当に申し訳ありません。娘がこんなことをしてしまい、どう謝ればいいか……」


 突然の平身低頭の謝罪に、キノエは怯む。娘の水緒が後ろで抱えた膝の隙間から、状況を把握しきれていない表情で、こちらを見ていた。あぁ、やってしまった。罪悪感が湧いてくる。親の情けない姿を見たい子などいないだろう。完全に顔を出す契機を見誤った。


「いや、その……頭を上げてよ。私は大丈夫だし、その子をあんまり怒んないであげて」


 できるだけ足の痛みを顔に出さないように、にこやかに顔を取り繕ってキノエは言う。相手は恐るおそると床から額を離してくれたが、納得いかない様子だ。


「しかし……」


 歯切れの悪い言葉にキノエは被せる。


「あー、ほらアレだよ、私、異国の血が濃いんだよ。外人ガイジンって知らない? その血が入っているから、目も髪も肌も、そこらの人より色が薄いし、顔立ちも違うでしょ? 旅していると、たまにあるんだよね、物珍しがった連中に捕まりそうになること。一つ所に腰を落ちつけたせいで、初対面だと驚かれるってこと、すっかり忘れてたよ」


 こちらを伺っていた水緒にキノエは訊く。


「ね? 珍しくて驚いたんだよね?」


 急に話を振られたのに水緒は瞠目し、少し逡巡してから、こくりと頷いた。


「……うん、変だったから」

「水緒!」

「いいからいいから、気にしてないから」


 水緒の母親が口を開きかけたが、これ以上話を拗らせたくなかったので、矢継ぎ早に訊く。


「ところで、ここってどこ? 私、《シカロ》って集落ムラを探してたんだよね。もしかしてここがそう? あぁ、そうだ。あと名乗ってなかった。私はキノエ。そっちは?」


 水緒の母親は、娘を叱るべきか客人に対応すべきか困惑すると、自分を落ちつかせるように、胸に手を置いて一息吐いた。居住まいを正し、こちらに向きあって背を伸ばす。作法を弁えた所作だった。


「わたしは、と言います。あちらは娘の水緒です。水緒、こっちに来てあなたも謝りなさい」


 しょうこに呼ばれ、水緒はしょげた様子で膝歩きをしながら、渋々とこちら来た。第一印象と違い、年相応の聞き分けの悪さに、キノエは思わず顔をほころばせる。水緒はしょうこにすり寄るように背を丸めて座ると、首だけ使って下手糞に頭を下げた。


「……ごめんなさい」

「いいよ、大丈夫。生きてるし。それで、ここって……」


 はい、としょうこが答える。


「おっしゃる通り、ここは《シカロ》と呼ばれて集落ムラです」



 せめてもの謝罪にとキノエは食事を振るまわれていた。怪我が治るまで家にいていいと言われたので、正直助かった。片足が折れた状態では、とてもじゃないが来た道を戻ることはできなかっただろう。


 しょうこは囲炉裏で焼いたニジマスの串焼きを振るまってくれた。干物以外の魚を見るのは久しぶりだった。近くに沼があり、そこで獲れるのだという。放っておくと大きくなりすぎて困るので、定期的に罠を張っているらしい。しかし、食べきれないので、沼から離すために簡単な生簀を作り、増えないように雌雄分けて半ば放し飼いにしているそうだ。


 生簀を作れるほどの安定した水源があるならば、《シカロ》は樹下にある集落ムラと見て間違いない。これで色々な疑問が氷解する。どうりで橋を歩いているだけでは《シカロ》が見つからないわけだ。どうやって家まで気を失っていた自分を、水緒の体躯で運んだのかも気になっていた。答えは簡単だ。単純に引きずったのだ。考えてみると少し背中が痛い。


 察するに、《シカロ》は沼を中心に成りたっていたのだろう。『沼』と呼ばれるほどの大きさで、あまつさえ魚が獲れる生活基盤を築ける水場は貴重だ。森の中では木々が水を吸いあげてしまうので、井戸を作れるほどの地下水はなく、少ない川に頼る。それが普通だ。よそ者には秘匿して自分たちで管理していただろう。それが理由で、《シカロ》は他の集落ムラとあまり交流を持たず、閉鎖的な体質で人知れず暮らしていた、といったところだろうか。


 しょうこはニジマスを五匹も焼いてくれた。二人とも手をつけるそぶりを見せなかったので、もう食事は済ませたようだった。自分の分だけにしては量が多すぎたが、謝意の現れだと思うと、残すのも忍びなかったので、なんとかすべて腹に詰めこんだ。


 骨になった五匹のニジマスを見て、水緒が感心したように言う。


「すごい食べるね。わたし、そんなに食べたことない。こんなになるんだ……」


 こちらの食べっぷりが面白かったのか、水緒は魚の骨の尾びれをつかんで、しげしげと眺めていた。


「私もこんなに満腹になったのは久しぶりだよ……あぁ、駄目だ。お腹苦しい。ごめん、ちょっと横にならせて……」


 キノエが居住まいを崩すと、しょうこが申し訳なさそうに言う。


「すみません、多すぎましたか……? お客さんは久しぶりで、加減が判らなくて……」

「や、大丈夫。これくらいならすぐ落ちつくから」


 寝転がると、足を楽にしてください、としょうこが切り株の足置きを用意してくれた。気を遣わせすぎて、自分がとても図々しい客のようで恥ずかしい。


「キノエさんは、どうして《シカロ》に?」


 火が爆ぜる音の中で、ふと、しょうこが訊いてきた。


「ん? あぁ、私ね、〈怪もの祓い〉をやってるんだ」

「けもの……狩人、ですか?」


 ぴんと来ない顔でしょうこは呟く。《一族》の人間は各地で〈怪もの祓い〉をしているので、それなりに認知されていると思っていたが、《シカロ》は相当閉鎖的な集落ムラだったようだ。


「いや、〈怪もの〉ってのはね、なんだ。そうだね……粘つく琥珀色の雨を降らせたり、突然周囲のものを凍らせたり、とか。そういう厄介で奇妙なものの根源を絶つことを〈祓い〉って呼んでる。まぁ、実践的な拝屋とでも思って。この世にはね、〈あおまし〉っていう目には見えないほど小さな、生命いのちを持たないけど増えるものが、そこら中にあって、それが原因で〈怪もの〉が起こるもんだから、色んなとこを旅してるってわけ」


 こちらの話しに興味を持ったのか、水緒が手にしていた骨を、囲炉裏の中に放りこんだ。熱で骨が歪み、ぱきり、と割れる音がする。


「……その、あおなんとかって、キノコの胞子ぐらいの大きさ?」


 近くに寄ってきた水緒の言葉に、キノエは首を横に振る。


「いや、もっと小さい。髪の毛を千回刻んだぐらいだよ。それだけ小さいと、大抵の場所に這入りこめるから、〈あおまし〉は今ここにも、そこら中にある」


 しょうこが小さく首を傾げる。


「命を持たない、というのは……増えるんですよね?」

「んー、化学、って言っても解らないだろうし……あれだ、木の幹にできる青い〈結晶キノコ〉。あれって〈あおまし〉が集まったものなんだけど、鉄の錆が自然に増えるような感じなんだよね。けど、結晶も錆は生きてはないでしょ。それと同じ」


 なるほど、と得心がいった様子で、しょうこは頷く。それから少しの間を置いて目線をこちらから外し、元に戻すと不思議そうに頬に手を当てた。


「……〈結晶キノコ〉は木にしか生えませんが、その〈あおまし〉というのは、どうして様々な現象を起こすのです?」

「その辺りは、ちょっと色々あって……長くなるけど、つまらなくない?」

「キノエの話、面白い」


 いつの間にか、水緒は膝を抱えて座りこみ、期待するような眼差しをこちらに向けていた。外の世界を知らない娘に、旅人の話を聞かせたいのか、しょうこも微笑みながら同意する。


「はい、わたしも是非聞きたいです」

「んっと、それじゃ……元々、〈あおまし〉は先史時代の人たちが作った道具だったらしい。〈あおまし〉は植物になら、なんにでもくっつくんだけど、特に木にくっついた場合は増殖して〈結晶キノコ〉を作って、そこから外に放出されるんだ。どうやら昔の人たちは、〈あおまし〉に植物から〈生体通貨〉というものを集めさせていたらしい。それは生物が食物から作りだす活力の源で、ほとんどの生物は体内でそのやりとりをして生きているから、そう呼ばれている。で、昔の人たちは集めた〈生体通貨〉で発電……えぇと、なんて言えばいいかな……その、恵みを得て、生活をしていたみたい」


 今ひとつ想像がつかないように水緒が呟く。


「恵み……」

「一番身近なのは雷かな。あと静電気……冬場にぱりってなるやつ」

「わたしあれ嫌い。矢を触るときに痛い。あれも〈怪もの〉?」

「違う違う。今度から、金属に触る前に、木を触っておくといい」


 水緒が不思議そうに床板を撫でる傍らで、しょうこが訊いてくる。


「雷とは……あの、雨の日に光と音を出す、あれですか?」

「そう。もっと規模は小さく、細かかったみたいだけど。で、昔の人たちは、給電所――って言っても解らないか――恵みを集める道具を使って、きちんと〈あおまし〉を操れていたんだけど、ある日、昔の文明は〈赤光しやつこうの布〉に包まれて滅んだんだ」


 水緒が自分の着ている服の裾をつまむ。


「布? 布で世界が滅びるの?」

「その辺りは私もよく知らない。ただ、空に赤く光る布が現れて、一度世界が滅んだらしいって話だ」

「それも〈怪もの〉だったのでしょうか」

「違うらしい。まぁ、先史文明は耳を疑う話が多いし、きちんと残った記録も少ないからね」


 話を続けるね、とキノエは言葉を継いだ。


「〈赤光の布〉で恵みを集める道具も失った結果、放置された〈あおまし〉は増えすぎて、植物から〈生体通貨〉を集められなくなった。飽和したんだね。で、それをどうしたか、解る?」


 しょうこは口元に手をやり、水緒は膝を抱えたまま身を竦める。二人とも視線が天井に向いていた。考えごとをするとき、気が散らないようにする仕草だ。しかし、答えに辿りつかないのか、二人とも黙りこんでしまう。


「意外と単純なことだよ。〈あおまし〉の名前の由来だ」


 キノエの言葉に、しょうこがはっとする。


「緑を――木を、大きくしたんですね」

「正解。それが〈あおまし〉の厄介なところだ。〈あおまし〉には見本になった病気の種みたいなのがいるんだけど、それは目的を達成するために、自分たちを変化させる機能があるんだ。それで、植物から集めた〈生体通貨〉を使って、木を大きくさせるように変化した。だから私たちは、『緑を増やすもの』って意味で〈あおまし〉と呼んでる。まぁ、本当は『小さな道具』みたいな意味の名前があったらしいんだけど、正確に伝わってないから、残った名前をそれっぽく呼んでるだけなんだけどね」


 水緒が手のひらを下に向ける。


「じゃあ、木って昔はもっと小さかったの?」

「らしいよ。見上げれば頂上が見えるくらいには」


 今よりも背の低い木を想像したのか、水緒は不満そうに口をへの字に結ぶ。


「そんなに小さかったら、〈蜘蛛矢〉で跳べない……昔の人はどうやって移動してたんだろ。不便そう」

「昔は素早く地面を移動する手段も色々あったらしいからね」


 さて――キノエは言う。


「ここからが本題。なんで〈怪もの〉なんかが起こるのか……木を限界まで大きくした〈あおまし〉は増えるだけ増えて、今度は植物から集めた〈生体通貨〉を持てあました。またまた飽和したってわけ。しかも今度は、〈生体通貨〉を十分に集めた状態で。さて、どうなったか?」


 キノエの問いに、先ほどと同じように二人は考えこむ。沈黙がしばらく続き、そのまま破られることはなかったので、キノエは助け船を出す。


「〈あおまし〉は〈生体通貨〉を集めるけど、それは自らのためじゃない。使われるのが本質として創られている、道具だからね。〈あおまし〉は消費されるためにあるものなんだ」


 難しそうに水緒が眉を顰める。


「死ぬために生きてるってこと?」

「違うよ。〈あおまし〉は――解らない? この世でもっともありふれた消費が」


 あぁ――と、吐息を漏らすように、しょうこが呟いた。


「自然……」

「そう。あまった〈生体通貨〉を、自然現象や生態系を使って消費できるようになった。そういう風に変化した〈あおまし〉は、寄り集まって〈生体通貨〉を使って小さく発熱するようになる」


 動物が温かいのと同じだね、とキノエは付け足した。


「そういう変化は先史文明でも予想されていたらしくて、それでも目に見えないぐらい小さいんだけど、昔の人はなぜか『灰色の粘つくもの』って意味合いで呼んでたから、私たちは〈どろ〉って呼んでる。この時点で〈怪もの〉が起こるのは時間の問題だった。〈あおまし〉の見本になった病気の種の中には、自分が感染した生物を侵さずに、共生して増えるものもいる……見た目は同じなのに、中身を変えるんだ。それと似たような働きで、なにかのきっかけで〈灰泥〉は自然と似て非なるなにかになる。だから、


 ぱちりと炎が爆ぜて、囲炉裏の炭が少し崩れた。


「まるで生命いのちのように振るまう、生命いのちでないもの――それが〈怪もの〉だ」


 キノエは体を起こし、手を伸ばして近くにあった火箸を手に取り、炭の位置を整えた。そして、「あぁ、それと」と、二人に向かって言った。


「私が《シカロ》に来た理由は、ある噂を聞いて、それを調べるため」


 こちらの言葉に、しょうこが一瞬瞠目する。顔に浮かんだ驚きの色を隠そうとしたのか、少し俯いた。彼女が膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめたのを、キノエは見逃さなかった。


 しょうこは顔を上げる。表情は繕ってあった。彼女は娘に向かって言う。


「……話しこんでしまいましたね。水緒、もう遅いから寝なさい」

「えー……もっとキノエの話聞きたい」

「キノエさんも疲れているんだから、休ませてあげなさい」


 むぅ、と水緒は小さく唸りながら、あからさまに後ろ髪を引かれている顔で、こちらをじっと見てくる。微笑いながら、キノエは言った。


「しばらく厄介になるから、話ぐらい、いくらでもしてあげるよ」


 不承不承といった様子で水緒は立ちあがり、キノエが寝ていたのとは別の部屋へ向かう。


「……おやすみさない」


 どこか捨て台詞のように言って、水緒は乱暴に戸を閉めた。


 二人だけになった居間で、しょうこは身じろぎせずに、そのまま座りこんでいた。俯きがちに囲炉裏に向かいあい、黙りこんでいる。思い詰めたような白い顔が炎に照らされ、炎が作り出す陰影が、彼女の感情の揺らぎのようだった。


 悩みを持つ相手は何度も見たことある。誰にも頼れずに、相手に迷惑をかけられないと考える人間の顔のそれを、しょうこはしていた。


 相手からの言葉を待ち、キノエは合わせて沈黙を続けたが、数分待ってもしょうこは口を開くことはなかった。やがて炭がまた崩れ、火が勢いを弱める。一段、薄暗くなった居間で、訊いた。


「……なにか、〈怪もの〉に心当たりが、ある?」


 しょうこは目を瞠り、こちらになにかを言おうと口を開く。しかし、彼女の赤い唇は言葉を紡がなかった。代わりにしばしの間、黙想すると、静かに、ゆっくりと、だが明確に頷いた。


 しょうこは立ちあがると、火起こし用の柴と持ち手のついた箱を持ってくる。箱は木枠で立方体に組まれており、各面に紙が張られている。彼女が正面の木枠を上向きに引き抜くと、中には油の入った小皿が置かれていた。行灯だ。


「《シカロ》という集落ムラは、今はもうありません」

「さっき、呼ばれてって……」


 しょうこは勢いが弱まった炉から、柴で火を取る。枝の梢に点いた小さな火を、火皿に移す。宵越しの火を点すと、「火を落としますね」と彼女は囲炉裏の炭に灰をかけた。灰の山に炭が埋もれ、熾が赤い蛍のように小さく明滅する。居間に行灯の小さな灯りだけが残り、彼女の手元がぼんやりと照らされていた。


「その理由は、キノエさんがお聞きした、噂の通りでしょう。ある日、集落ムラの住民が体から饐えた甘い香りを放つようになりました。そうなったものは、異常なまでに喉の渇きを訴え、痩せ細っていき、体調を崩していきました。集落ムラの外に出ていた人間は無事だったのですが、そういった人も、《シカロ》に戻ってくると、やがて同じように甘い香りを放つようになりました」


 過去を思いだしているのか、しょうこは小さく息を吐く。


「土地が原因だと、誰もが考えました」


 なので、としょうこは続ける。


「私たちは長く住んだ土地を捨て、別の場所へ移る決意をしました」


 キノエは黙って話を訊く。


 集落ムラを捨てる決意を固めるには、相当の覚悟が必要だったろう。ヒトの手を離れた文明は、あっという間に自然に呑みこまれて廃れる。人間は森を間借りしている貧弱な生き物にすぎない。あまつさえ、貴重な水源を持つ樹下の土地だ。愛着もあっただろうし、常に未知とは恐怖だ。《一族》ですら、〈怪もの〉を恐れている。


 この後の話の流れはなんとなく見えていた。理性ではなく、猜疑と不安に支配された集団の中では、よくある話だ。《シカロ》の住民たちは移住したのに、この母娘は共にここで暮らしている。それが意味するところは、邪推するまでもなく、容易に想像できる。


「新しい土地に移ってから、しばらくすると皆の体調はよくなっていきました。しかし、ひと月ほどで、また元に戻ってしまいました。そこで、土地が問題ではないと解り、集落ムラの人々は目を逸らしていた問題へ、目を向ける必要に迫られました」


 しょうこが少し顔を下げる。行灯の光に触れた表情は、伏し目がちに目線が水緒の寝る部屋に向いていた。ここが核心だろう。母親以外の人間を見たことのない少女。捨てられた集落ムラ。その原因だ。


 しょうこは行灯を手に取り、居間の障子――縁側へと向かう。


「移住を余儀なくされた理由は、病だけではなかったのです」


 行灯を足元に置き、彼女は両手で障子を開く。木の滑る音がして、白い紙の仕切りの向こうから、闇が現れる。


 仄暗い月夜の濃い緑に、キノエは息を呑んだ。


 縁側の廊下よりも高い草が生え、上から木の枝がしな垂れかかり、葉の幕を降ろしている。種類の異なる常緑の灌木が、編まれたように互いに枝を絡ませている。ツツジやウツギだろうか、ぽつぽつと萎みかけた赤や白の花があり、細い枝の隙間を縫うようにしてツタやカズラが巻きついている。混ざりあいすぎて名前の解らない草木が、色とりどりに実や花をつけ、濃緑の絵の具が厚く塗られた画布に幻覚的な極彩色を吹きつけていた。


 夜の闇を、小さな明かりがくり抜いたのは、円窓のような小さな森だった。


「《シカロ》は緑に呑みこまれて滅んだんです」


 しょうこの言葉を疑う余地はない。


 外の光景は植生が滅茶苦茶だった。


 森は、基本的に太陽の恵みを得られる量で階層化される。光合成だ。日光を浴びられる量が、生産される栄養の量に直結する。


 森の中で最も大きな木々が支配する高木層は、当然ながら互いの損を避けて、樹冠を広げる。円形に版図を広げる高木の間には隙間が空き、そこを狙う植物が次に繁栄する――亜高木層だ。高木の次といっても、橋のような遺物の高さはゆうに越えて――先史文明はどうだったかは知らないが――いるし、低木層になって、ようやく人の背丈になるかどうかだ。


 森の中で大きな木々の層は、実に全体の半分近くの日照量を独占している。層が低くなるにつれて、残り半分の日照量の分配は指数関数的に減っていく。だから、日光の届かない層ほど、光合成ができないので小さくなるし、高さも均等になっていく。


 つまり、隙間がないほど繁茂する木、というのはありえない。せいぜい、枝葉が重なって鬱閉するぐらいだ。枝葉が絡みあうことはありえない。日光を浴びるために植物は屈性する。互いに枝葉がかぶらないように育つ。先史文明に比して緑が増えたと言っても、植物の本質的な生態は変わっていない。あくまで、大きく育つようになったなのだ。


 だが、ここではそれが完全に無視されていた。木々は上ではなく横に枝を伸ばしている。。普通なら土壌の栄養がなくなり、枯れて土に戻ることで均衡を保つはずの自然が、別の栄養源があることで、無尽蔵に育っている。


 どこからか供給がなければ――そう、〈あおまし〉だ。


 しょうこが言う。


「緑が異様に増えはじめたのは、ある子供が生まれてからでした」


〈あおまし〉は空気中を漂っている分、明確な指向性を持たない。自然のある場所に集まり、そこで稼働する。だから、森は突出した生長をせず、均等に巨大化した極相になった。その平衡が破られているということは、外部の要素が持ちこまれているのだ。


 その原因は、一つしかないだろう。


 しょうこが苦しげに呻くようにこぼした。


「水緒は……あの子は、んです」


 キノエに驚きはなかった。むしろ腑に落ちた。


集落ムラ中の人が……夫ですらも、赤子だった水緒を……」

「それ以上はいいよ」


《シカロ》の住民の気持ちは理解できる。慣れ親しんだ土地を捨てさせた疫病の源が相手だ。やり場のない不定形な感情でも、対象が目に見える形になれば怒りをぶつけられる。一つの感情に支配された推論は、。思想に染まった論理体系は常に不健全だ。


「……あの子の体質は〈怪もの〉のせいではないでしょうか……あの子には、こんな人里離れた場所ではなく、育ってほしいんです。同い年の子と遊んだこともない娘に、普通の生活をさせたいんです」


 しょうこの声は震えていた。灯りが足元に置かれているせいで、仄明るく照らされた表情は半分も見えないが、おそらくあの虚ろで儚げな顔は泣きそうになっているのだろう。


 植物に求められる人間。おそらく〈怪もの〉だろう。心当たりはあった。しかし、水緒を人のいるところで育てたいという、しょうこの願いを叶えられるかどうかは判らない。キノエの想像通りなら、事実は残酷でしかない。


〈怪もの〉には〈祓い〉が必要だ。知識を持つ《諦めた一族》は、神秘を現実に堕とさなければ気が済まない。神に依存した智慧は、超越を理由にいともたやすく知性をねじまげるからだ。だが、〈祓い〉を行う本質は、ことを忘れてはならない。


「……一つ、変なことを訊くね。不快にさせたらごめん」


 だから《一族》の人間として、キノエは問うた。


「死産したはずの赤子が、翌日になったら蘇った、という話に心当たりは?」


 動揺を見せるように、しょうこは身じろいだ。見えない表情は、はっとしたように瞠目しているに違いない。息を呑む間が空き、薄い影の中で、彼女は頷いた。


「そっか」


 当たってしまった予想に目を瞑る。もう一度、そっか、と呟いた。なにも変わりはしないので、嘘を吐いても仕方がない。乾燥していないのに、いやに唇が張りつくようだった。口内で唇を舌の先で湿らせてから、口を開いた。


「それはきっと、〈泥人ひじと〉だ」

「ひじと……?」

「〈灰泥〉がヒトの形をしたもの……つまり、ヒトの〈怪もの〉だ」


 こちらの言葉を理解してはいるのだろう。しかし、その意味を呑みこめずに、しょうこは小さく口を開いていた。言葉が出てこないのだろう。


「〈泥人〉は〈怪もの〉だ。〈あおまし〉の集めた〈生体通貨〉で活動する。だから、当然〈あおまし〉を引きよせる――そのせいで〈泥人〉のいる場所は、緑が豊かになるんだ」


 つまり、などいない。がいるだけだ。《シカロ》の住民が、体から甘い香りを放つようになったのは、〈怪もの〉でもなんでもない。空気中の〈あおまし〉から知らないうちに、〈生体通貨〉を過剰摂取していたのが原因だろう。


 普通は食事から摂取した炭水化物を代謝して糖にし、その糖から〈生体通貨〉を生成する。しかし、体内に〈生体通貨〉が十分にあることで、その糖が使用されずにあまった。当然、血中の糖の濃度は高くなる。血糖値を下げるには膵臓の働きが必要だが、過剰な〈生体通貨〉で糖はあまり続け、やがて膵臓は疲弊して機能が低下したはずだ。糖の代謝が上手くいかなくなったことで、体は〈生体通貨〉が不足していると勘違いをし、今度は肝臓が脂肪を分解して〈生体通貨〉を作りはじめる。


《シカロ》の住民に起きた体の異変の機序は、こんなところだろう。


 異常な喉の渇きの正体は、高血糖状態が続き、体外に糖を排出しようと排尿するために水分を求めるからだろう。痩せ細っていくのは脂肪がどんどんと分解されていくからだ。そして、脂肪は分解されたときに甘い臭い成分を発する。


 痩せる。食べる。だが必要な〈生体通貨〉はあるので、食物は無意味に体外に排出され、脂肪は分解され、体には糖が蓄えられない。この悪循環が続く。


 その引き金が、〈あおまし〉を集める〈泥人〉だ。


「私が知っている限り、〈泥人〉は、どれも死んだ人間を模倣して起こっている。血や頭の中まで模倣するから、当人も自分が〈泥人〉であるとは気づかない」


 キノエは自分がなにを言っているのか解っている。「あなたの娘は死んでいる。アレは娘に似たモノだ」。要はそんなことを告げているのだ。自分が生まれ育った集落ムラから追いだされてまで、十数年育ててきた娘は、ヒトではなく、ただの現象であり、生命ですらない。


 


 虚構で糊塗したところで、干乾びた脆い現実ができあがるだけだ。〈怪もの〉という不自然なものを残すために、この世に正しくないものを増やすなど本末転倒だ。


 しょうこは天井を見て、意味もなく頭を振って目を泳がせた。障子の桟に背をつけると、その場に力なく膝から崩れ落ちる。へたりこんだ彼女の顔が、行灯で照らされた。視線は床に向いているが、なにも見えていないだろう。


 たった今、キノエがそこにいるのに気がついたような顔をすると、絞りだすように彼女は言った。


「キノエさんは……その、〈泥人〉を祓う――こ、のですか……」


 なにかが抜け落ちてしまったような目で、しょうこはこちらを見ていた。視線そのもので、細い希望の糸がどうにか繋がるのではないかと、瞳の奥でキノエの像を結ぼうとしている。


「私は〈怪もの祓い〉だ」


 どのような望みを懸けられているのか、それを知っていたとしても自分の立場をキノエは変えるつもりはない。自分は特殊なだけで特別ではないと心得ているからだ。救済や断罪をするほど傲慢にはなれないのは、知識で賢しく臆病になっているからだと知っている。


 だから、可能な事実をもっともらしく述べて整理して、望みに応えられない自分を安全圏に置いてしまう。


「〈怪もの〉は、現代に存在するはずのなかった害あるものだ。普通の人間として暮らす方法があるなら、私は〈祓い〉の必要性を感じない」

「――では」


 ただし、と言葉を遮る。


「もし、手立てがなかった場合は、ここで一生暮らしてもらう。そして、死ぬまで人里にこないようにさせるんだ。しょうこさんの責任で。もし、〈泥人〉が外に出るようなことがあったら、私は必ず〈祓い〉にくる。それが条件だ」


 いいね? という問いへの返答は、うなだれるような首肯だった。


「構いません……もし、どうしようもなかったときは、祓ってください」

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