怪もの祓い

黒石迩守

キノエと少女

 人が木よりも高い建物を持たなくなって久しい。


 苔生して灰色と黄緑色とで斑状になっている橋が、この辺りでは最も古く一番大きな人工物で、比較的ありふれた遺物だ。脚を持ち、その上に道が載せられた構造は『橋』としか呼べないが、おそらく橋だろう、と呼ばれているだけで、誰も本来の用途は知らない。なにせ、大の男の背丈の五倍をゆうに超える高さで、荷馬車が三台は余裕で通れる道幅を持っているのだ。そんな巨大な橋をなにが通るというのか。


 この橋の不思議なところは、一、二時間ほど歩く距離の長さのものが点在しており、どうもそれらは一つの道として繋がっているらしい点だ。橋台に向かうにつれて、ゆっくりとなだらかになり、気がつけば地面と水平になっている。橋桁が大きく緩やかな弧を描いているため、知らぬうちに渡りきってしまうのだ。


 一〇〇〇年以上前から存在するらしい橋の建材は〈浪漫石〉と呼ばれている。その名の由来が悠久の時を指すのか、別のものを指すのかは定かではない。いつの間にか〈浪漫石〉と名がついていたので、正しい呼びかたはあったのだろう。土を混ぜてこごらせたもの、と伝わっているが、しかし永い時の間で略され訛り、本来の名称はその原形を留めていない。丈夫で奇妙な石の道は、ただ昔から当たり前のようにあるので、人々は道として使っているにすぎない。


 だが、その巨大な遺物ですらも周囲の樹木から見下ろされている。


 この世のどこを見渡しても、緑のない場所はない。人が見上げた先には、青い空よりも先に必ず緑の葉と、青く煌めく〈結晶キノコ〉を生やした茶色の幹があり、あらゆる人の営みは木々の傘の下で行われている。


 この世で息づくすべての樹木は〈あおまし〉に感染して巨木にまで成長している。先史文明で創られたという、目には見えないほど小さな、生命いのちを持たないが増える、の恩恵を受けた木は、その証を示すようにサルノコシカケに似た〈あおまし〉の子実体――半月状の青い非晶質の鉱物である〈結晶キノコ〉――を幹から生やす。


 かつての人は、木々と同等かそれ以上の高さを持つ、摩天楼と呼ばれるような建物を造ったと言われている。


 しかし、遺物を見たことのない人間でないと、それを信じるのは難しい。なにせ、先史文明に作られた巨大な構造物のほとんどは、森の中に埋まってしまっているからだ。樹木よりも大きな建造物は確かにあったのだろうが、どれも固い地盤を突き破る植物の力強さに負け、崩れさった痕跡しか残っていない。だから、見つかる遺物はどれも、ひしゃげた金属の塊か、『橋』のように単純で密度の高い巨大な構造のものだけだ。


 もっとも、その橋もどこかは必ず壊れており、完全な形はしていない。


 橋の道には砂利が敷きつめられており、大きく長く続く道は森に覆われてしまい、先が見えなくなっている。ところどころ崩れている塀も人より大きく、ヒトではないなにかが通っていたことが、はっきりと解る。その証拠が〈巨人の枕木〉だ。道に沿うように等間隔に埋設された角材に似た棒は、見た目や重さは木のようだが、腐らずに大昔から残っているので、なにで作られているのかは皆目見当もつかない。棒は一本ずつ横向きに置かれており、ちょうど道のようになっているが、歩幅よりも少し広い間隔があるので、どうしても、ヒトよりも一回り大きななにかが通っていたことを想像させられる。


 普通ならば遺物に残っているものは、資材を求める人間たちに持ちだされてしまう。だが、〈巨人の枕木〉は苦労して砂利の中から掘りだしても、素材としてはかさばる割に、いくらでも採れる木と大差ないので放置されている。なので、巨人が通るためのような道の風景ができあがる。


 謎の角材の道が続く先はすべて森だ。軽々と橋を超える樹高を持つ木々は両脇から重なりあい、葉叢の迫持をつくり、自然の隧道と化している。そのおかげで昼間でも薄暗く、枝葉が風に揺られて、木漏れ日が影の中で万華鏡のように姿を変える。森の覆いの中で光を反射する青い結晶は、夜より身近な星空だ。


 梅雨が明けて夏に向かいはじめた今の時期、木陰の道は少し肌寒く、上衣を着るぐらいが、ちょうどいい気温だ。雨でたっぷりと水を蓄えた森は、これから生気に満ちていく。暑い季節の到来を知らせるように、緑臭さと甘い匂いが充満している。もう少しもすれば果実がなりはじめ、香りに誘われた動物たちも活発になるだろう。


 ただし、それは橋の下の話だ。橋の上では植物は育たない。熟れた実や枯葉は少なからず落ちてくるが、〈浪漫石〉の上では腐植にならず、乾燥して風に洗い流されてしまい土にならない。そのため、いつまで経っても橋の上は灰色だ。


 橋には排水機構もあるので、水も溜まらずただ流れていく。梅雨に排水されなかった雨水が残ることもあるが、生命を育むほどではなく、苔程度にしかならない。その苔すらも、崩落した橋の瓦礫をどこからか登ってきた鹿が、あっという間に食べつくしてしまうので〈浪漫石〉の道には常に砂利しか残らない。


 ある側面で橋は死の道で、ヒトだけの道で、そういう意味でも正しく人工物だった。


 その道を、一人の旅人が歩いている。


 白茶色の髪を一本結びにした色白の旅人だ。鞣した獣の皮で作られた大きめの背嚢を背負っており、丈の長い羊毛の外套を羽織っている。その下に木綿の肌着とずぼんを身につけ、足元は編みあげの半長靴だ。背嚢も外套も半長靴も、細かい傷や汚れはあるが、よく手入れされており、年季を感じさせる。持ち主の癖がついて柔らかくなり、なめらかに光を照り返す艶のある鞣革の旅装は、数多くの旅の歴史だった。


 途中で足を止めて、旅人は枝葉の屋根を見上げ、青葉の透きから細く降る日差しに榛色の瞳を細める。そして唇から、ほぅ、と吐息を漏らした。


「迷ったわこれ」


 旅人――キノエは迷っていた。


 キノエは懐から地図を取りだし、腰に提げていた方位計と突きあわせる。腰を落ちつけている集落ムラで、ある噂を聞いて足を延ばしてみたが、目的地である《シカロ》という集落ムラが一向に現れない。


 集落ムラは樹上に作られることがほとんどだ。〈あおまし〉により、大きく生長する草木を伐って開拓する体力は人間にはないので、森と共生しているのだ。昔から伝わる紙と木と土を使った家屋を樹上に築くが、橋のような遺物を利用しない手はないので、この辺りでは自然と橋沿いに集落ムラが作られる。


 森の木々は巨大な分、間は開けているが、家屋を建てるほどの広さはなく、せいぜいが生き物の通り道だ。うねる極太い木の根や、それらが掘りおこした大小の岩も邪魔をして、水平を保った建築物を造る隙間はないに等しい。そんな場所を無理して切り拓いても、獣に襲われる危険も残ったままなので、人間は生活圏を樹上に構えている。巨木の育つ余地のない水辺や湿地を見つけ、その上できちんと治水できない限り、とても樹下には暮らせない。


 そのため、〈浪漫石〉の橋沿いに歩いていれば、目的地を見つけられるとキノエは踏んでいたのだが、その当ては外れていた。簡単な旅程と思っていたが、一本道でも流石に三日間歩きづめなのは辛くなってくる。なにせ風景はずっと森と橋で、聞こえるのは鳥のさえずりと風が草木を撫ぜる音だけだ。行楽気分の味わいもへったくれもなく、精神的にも疲れてくる。


 各地を歩き回る隊商から仕入れた話だったので、真実味があると信じたうえに、そのまま旅用の保存食料も買いこんだので、せめて《シカロ》の実在を確かめるぐらいの成果は欲しかった。


 教えてもらった場所には、地図上ではもう着いているはずだが、キノエは今一つ自信が持てていなかった。地図の縮尺が大きいのに加えて、目印になるものは『大瘤のケヤキ』やら『がらんどうの大スギ』やらしかないからだ。しかし、隊商の人間も《シカロ》には行ったことがなく、伝え聞いたことを(ものを買ってから)話してくれただけなので、これ以上の情報も望めないだろう。


 手持ちの水や食料の残りから帰路を考えると、この辺りで決断をしなければならない。しかし、噂が事実ならば、確実に〈もの〉が起こっている。それを見すごすことだけはしたくなかった。


 曰く、『《シカロ》の住人は体から甘い香りを放つ』という噂だ。


 それが嘘だとしても、それならそれで良かった。ただ、は自分の目で確かめるまでは信用できない。普通人には判断できない閾があるからだ。なので、《シカロ》を訪れることは、今回の旅の大前提だった。


 だのに、その大前提を達成できそうにない。


「まったく、なんで道が崩れてるかな……」


 キノエが足を止めた先は、道が断崖となっていた。


 目の前には、天を衝くような巨木が聳えている。伐りだせば、小さい集落ムラなら一ヶ月は余裕で賄える薪になりそうな太い幹だ。自然とは貪欲なもので、日光を得られる隙間が空けば我先にと芽を出す。しかし不思議なことに、互いに分相応な大きさにまで育つと、生長を止めて、階層構造を作りだす。おそらく、橋の隣にあった木が倒れ、橋を崩したのだろう。倒木が腐って土になるころには、新しい世代が元気に生長しているというわけだ。


 そうして橋を渡ってきたキノエを、若い世代――といっても、そこらの人間よりずいぶんと年上だろう――が出迎えたのだ。


 キノエは崩れた橋の縁から樹下を覗く。幹の下のほうは、角の取れた矢じりのような形の葉を持つツル草が、頑張って巻きつき覆っている。しかし、さすがに全高がありすぎるのか、中程までは辿りついていない。根本のほうになると、羽根のような細長い鋸状の葉を広げるシダが支配している。密生するシダは長い毛足の絨毯のようだが、緑の敷物の下には、しっかりと力強い根が見て取れる。もしかすると、決して貧相ではない自分の太ももより大きい根があるかもしれない。


 今回は完全に橋を歩くだけだと思っていたので、これほどの巨木を登攀するような装備は持ってきていない。縄はあるので橋のどこかに結べば昇り降りすることはできるだろう。だが、物資が残り少ない今から未踏破の樹下を調査するのは危険が多い。今の季節は発情期ではない鹿程度ならば問題ないが、危険な〈もの〉と遭遇でもしたら、目も当てられない。ヒトが定着して、住める程度まで森が切り開かれた集落ムラなら、生活圏の中では限られる。しかし、緑の濃い森は、植物を異常生長させる〈あおまし〉が濃密だ――正しくは〈あおまし〉が多いから森が育つのだが、どちらが先かを正すのは不毛だ。そういった場所で〈怪もの〉は起こりやすく、まさに魑魅魍魎の様相を呈する。


 諦めるか――と、道を塞ぐ見事な木を仰ぐ。届く限りの場所に梢まで枝を張った樹冠は、天然の巨大な笠を作り、青々と葉を茂らせている。近隣の自然の恵みの胴元といった佇まいだ。これだけ立派なものを見せられたら、引き返すのもやぶさかではない――そう思っていたときだった。


 キノエは視線を一箇所に止める。


 斜め上にある太い枝の一つに、座りこんでいる人影があったのだ。


 黒い瞳が印象的な少女だった。


 こちらをじっと見つめた目は、その線がぶれず、瞬きをする気配がない。獲物を狙う猛禽類か肉食獣のような具合だが、小柄な身体がまとう雰囲気は、獣と呼ぶには理性の光が瞳の奥底に潜んでおり、卑しさが微塵もなく気高さを感じさせた。


 背の中程にまである黒髪は切り揃えられているが、身嗜みと機能の優先の中間にあるような手入れだ。整えたというよりは繕った風にも見えるので、殊更に少女からという、自然美にも似たものを感じる。


 少女は染めも刺繍もない質素な服を着ていた。獣の皮を鞣して縫っただけの簡単な構造の服だ。年の頃は子供から女性へと変化している途中だろうか。あのぐらいの娘ならば、ねだるか親が着せるかして、飾り気のある服を身につけるものだが、彼女の恰好は狩人の仕事着に似ていた。新しい皮革の固さを感じさせず、白い布地は色焼けして黄ばんでいる。長いこと同じ服を着ているのだろう。どこかの集落ムラから、少女が一人でここまで来たとは考えにくい。


 つまり、この辺りに住んでいる証拠だ。


 彼女は腰回りになにかの道具を巻いている。木製の丸い部品と、大きめの十字架のようなものを横にして腰の後ろに提げているが、遠くてよく見えない。あれを使って木の上に登ったのだろうか。


「ねぇ、この辺にある集落ムラ知らない?」


 キノエは声を張って訊く。少女は顔色を変えずに、わずかに首を傾げ、己のことを指差した。言葉は通じているようだ。安心する。少なくとも、文化の重なりはあるだろう。自分の物珍しい瞳や肌を理由に、襲われることはなさそうだ。


 キノエは相手の疑問に首肯して答えた。


 少女はこちらの言葉に答えず、腰に着けていた十字架を手に取る。縦棒に細い溝があり、横棒に弦が張られている。十字弓だ。


 それを見て、腰の道具の正体に思い至る。


〈蜘蛛矢〉だ。森を大きく移動する狩人が使う、縄つきの矢。鏃の刺さった場所を基点に、振り子のように移動する代物だ。珍しいものではないが、金属製の矢は、火を仕事にすることを許された、数少ない職人の手によるのある貴重品だ。子供が持つような代物ではない。


 少女は十字弓に〈蜘蛛矢〉を番えて、自分の斜向かいにある枝に向かって撃った。腰につけていた丸い部品が、からからと音を立てて回る。縄の巻取器のようだ。矢が枝に刺さると、彼女は縄の終端にある握りを片手に取り、テコのような部品を奥に押しこんだ。縄が生き物のように、びくりと波打つ。


〈蜘蛛矢〉の構造は複雑なものではない。縄の中は空洞で、豚の腸を撚った弦が通されている。弦は鏃から握りまで一周するように輪になっており、それを通じて鏃の中の仕掛けが動くようになっている。鏃の内部では弦と繋がった金具が上下し、その動きに連動して、矢からのように棘が抜き差しされる。


 移動するときは木から矢が抜けないようにし、着地するときに引き抜く。これを繰りかえして木から木へと飛び移っていく様が、風に乗り糸で飛ぶ蜘蛛に似ているのが〈蜘蛛矢〉と呼ばれる所以だ。


 少女は刺さった矢の縄を空いた手で引っぱり、しっかりと固定されていることを確認すると、枝から跳躍した。縄に揺られて最高位に達すると手元のテコを手前に押しこむ。矢が抜けて小柄な体が宙に浮く。そのまま、しなやかな筋肉を持つ猫のように、ふわりと重さを感じさせずキノエの横に着地する。なびいた少女の黒髪から、甘い匂いが香った。


 熟練した〈蜘蛛矢〉の扱いに感心して思わず「おぉ」と声を出してキノエは拍手する。


「凄いね」


 こちらの称賛に目もくれず、少女は無言で巻取器を回して縄を回収しはじめていた。褒められるほどのことだと思っていないのか、それともただ無口なだけなのか、表情一つ変えない。


 相手からなんの反応も返ってこず、調子が狂うな、とキノエは手持ち無沙汰に頭を掻く。


「えっと……で、もう一度で悪いんだけど、この辺にある集落ムラを」


 ――知らない? と問う前にキノエの言葉は途切れた。


 少女に体を蹴り倒されていた。


 不意をつかれたキノエは、たたらを踏み、橋の縁から足を踏み外す。ずるりと断崖を足の裏がこすったと自覚したときには、体は樹下に向かって真っ逆さまに落ちていた。


「は?」


 疑問の声を上げるが応えてくれるものはいない。無意識になにかをつかもうと手を伸ばすが、当然なにもつかめるものなどなく、指の隙間から覗く少女の姿が段々と小さくなるのを見るしかなかった。


 落下で外套の裾がはためく。風を切る音が耳朶を流れる。その音が聞こえなくなった瞬間、体は地面に強かに打ちつけられていた。衝撃で肺の中の空気がすべて出ていく。生い茂ったシダの葉に頬がくすぐられているのを感じながら、酷い痛みが全身を襲ってくる。朦朧とする意識の中、鼻腔に残った匂いの残り香に意識が向かう。自分を蹴り落した少女の匂いだ。


「なんだろアレ、初めて見た……」


 橋の上でそう呟いた少女の言葉が聞こえるわけもなく、やたらと甘い、いい香りのする少女だな、とキノエは気を失った。

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