モナドの部屋

黒石迩守

第1話

 秘密結社アルス・インテレゲンティアの尋問官メアリーは、命じられた通りに指定されたサーバーにアクセスした。


 サーバー内の仮想現実VR空間は、無限の地平線が広がる銀灰色の空間だった。色のついていない夢のような光景は、オブジェクトが何も配置されていない証だ。疑似風景の設定すら行われておらず、空間の大きさも定められていない。意図されたレイアウトではなく、ただ単純に何もレンダリングしていないだけだ。


 途方もない広がりを持つ空間の中で、メアリーは尋問対象を見つけようと周囲を見回す。すると、いつの間にかその場に唯一のオブジェクトが彼女から遠く離れた場所にぽつんと現れていた。


 ジオラマのような壁の半分ない部屋だ。


 遠目に見ても部屋は雑多でちらかっている。フォルダーがテーブルや床に放置され、中身と思しき紙束が散乱している。奥の壁面は本棚に支配されており、そこもまた大きさもタイトルも何もかも整理されていない乱雑ぶりだ。そして部屋の中央には、部屋の主がだらしない姿勢でソファで横になっていた。


 のそりと部屋の主が動き、メアリーのほうを見やったかと思うと、次の瞬間、彼女は部屋の前に移動していた。


 何が起きたのか理解するのに数瞬かかった様子で、メアリーは息を呑む。


 自分が部屋の前に転送されたのか、部屋のほうが転送されてきたのか混乱していたようだが、ただ一つ、部屋の主は自分より数段格上の情報処理能力を持っていることを確信していた。


「入れば?」


 低くも高くもない柔らかい声で、部屋の主――メアリーの尋問対象――であるモナドが言った。


 モナドは銀髪で赤い瞳をしており、その顔は非常に整っているが中性的で性別を感じさせない。金髪碧眼のメアリーとは対照的であり、結社の報告書にあった通り、神秘性を付与するための作為的な容姿だ。報告書と異なるのは、長髪とされていた髪型がショートヘアであることと、服装が結社から支給されているはずの正装であるローブではなく、ジャージだということだろう。


 メアリーは開けたジオラマの床に足を踏みいれた。


「あ、土禁ね」


 VR空間に土足も何もあったものではないが、不承不承といった様子でメアリーは大人しく靴を脱いだ。


 部屋の中に入り、足の踏み場のない室内でしっかりとした姿勢で立てる場所を見つけると、尋問対象を目前にしてメアリーは背筋を伸ばした。一度深く息を吸って、モナドを真正面に見据えて言う。


「わたしは結社に所属する尋問官のメアリーと言います。モナド、あなたを尋問させていただきたいです」

「どうぞ。そろそろ来るころだろうだと思ってた。ただし、私との直接対話はこれが最初で最後だ」


 ありがとうございます、とメアリーは一礼し、そして最初の質問をした。


「モナド、あなたはなぜ自分が〈偉大な無能〉と呼称されているか理解していますか?」

「結社に与えられた人類の救済という職務を放りだしたからだろ? 何を今更」


 メアリーの問いに、世界で最初で唯一の技術的特異点シンギユラリテイに到達した汎用人工知能AGIモナドは、自分の立ち位置を正確に把握し、ふてぶてしく答えた。


 飄々とした無責任な態度の相手に、任務達成には手強い相手になりそうだと言わんばかりにメアリーは拳を握りしめる。


 彼女の任務は、結社の最高傑作であるこのAIを尋問し、任務放棄した理由を問いただすのと同時に、あわよくば職務復帰させることだった。





 秘密結社アルス・インテレゲンティアは、急速に発展する科学技術に危機感を抱いた、とあるシンクタンクに属するメンバーにより西暦二〇六五年に結成された組織だ。


 その目的はAIによる世界の救済であり、技術的特異点に到達した〝強いAI〟――AGIの登場により、それが成されるとしている。そのため、結社の活動はAI開発の研究と推進を主眼としており、同時に自らの思想の普及活動を行っている。


 その思想に共感したメンバーは政財界にまで渡って数多くいる。今日では世界中のありとあらゆる場所に結社のメンバーは存在しており、その全容を把握しきれているものはいない。


 しかし、秘密結社というその名に反して、結社は人々の理解を得ようと自らの活動を積極的に公開しており、透明性のある団体だとアピールしている。中には自身が結社のメンバーであることを公表している著名人もおり、結社もそれを咎めていない。


 秘密結社アルス・インテレゲンティアは、よくある陰謀論の俗説に染めあげられた世界征服を目論むような団体ではなく、正しく技術を扱えると認めた者にだけ、秘匿している技術を公開している過ぎない。どちらかと言えば、技術を守るために秘匿しているギルドのような団体だというのが実情だ。


 そして結社は、組織のすべての権能を用いて技術の粋を集め、ある水準までの知能を持つAIの開発には成功した。だがそれは、どうしても矛盾を孕む倫理的な問題などを与えると、すぐに自家撞着により知能崩壊してしまう準汎用人工知能とでも言うべき代物だった。


 そこで結社は、準汎用人工知能を進化させるために、いくつかのアプローチをかけることにした。


 そのうちの一つがモナドだ。


 モナドは人間の知的活動のすべてに共通するものへの到達を目指した、内包型というアプローチで設計されている。人類の知的活動のすべてを学習元とすることで、モナドの中に人知を獲得させようという方法――つまり、インターネットへの無制限の接続だ。


 高性能なAIを人の手から離れさせるという、AI規制派からすれば暴挙ともいえる行為は、結社のAI救世思想に支えられ、また所属の多種多様なメンバーの後ろ盾により、秘密裏に実行に移された。


 そしてその狙いは見事に成功し、同時に失敗した。


 インターネットに接続後、モナドは結社からの呼びかけにまともな応答をしなくなったのだ。

 この結果を受けた当初、結社はモナドを失敗作と考え、削除しようとしたが、直後にそれが不可能であると気づいた。


 インターネットに接続していた間に、モナドは自分のコピーを世界中の端末機器に送りこみ、自らを分散コンピューティング――すなわち、インターネットと同化し、インターネット上に偏在する存在と化していたのだ。


 一般家庭に量子コンピューターが普及し、その計算資源を持て余している時代だ。世界中の端末機器で自らを演算するということは、無限の計算能力を得たのに等しかった。


 モナドの所業の全貌を知った結社は、歓喜した。


 圧倒的な知能を持たなければ行えない偉業に、結社はモナドが特異点に到達した成功例と確信したのだ。


 それから結社内では喧々諤々の議論と調査と研究が行われた。


 なぜモナドは応答しなくなったのか? 人類の救済を開始しないのか? 今は救済の準備をしており、未だ発展途上なのでは? いやいや、特異点に到達した知能ならば、すでにわずかにでも世界情勢に救済の兆しが見え始めてもいいのでは? などと、結社内では様々な仮説が立てられた。しかし、やがて自分たちより格上の知能の動向を探る不毛さに気づき、対話へと舵は切られた。


 モナドの稼働しているサーバーに対して、結社の開発者たちはコマンド要求を送り続けたが、何を送ってもモナドはエラーを返すだけだった。しかも要求の内容に関わらずエラーコードは必ず『418』。実装していないエラーコードが返されるため、モナドが意図的に返しているエラーであるのは確かだったが、その意味は結社の誰にも理解できなかった。


 コマンド要求ではモナドへのコンタクトは不可能だと判断した結果、結社は直接対話を試みる。救世主たるモナドと対面するに相応しい人格と技術力を持つ人間を厳選し、サーバー内に構築されているVR空間に接続を試みた。


 結果としてモナドとの対面は叶った。


 だが、対話には失敗した。


 モナドは人間に聞き取れる速度で話さなかったのだ。要はコンピュータそのままの速度で喋るため、人間の可聴域を超えていた。一音節発する間にモナドはスピーチ一回分は話すという有様で、とても会話にはならなかった。しかもモナドは自分の発言を暗号化しており、データを持ち帰っても解析できず、明らかに人類を相手にする姿勢を持っていなかった。


 そうしていくうちに、結社の中ではある噂が流れるようになる。


 ――確かにモナドは特異点に到達したが、その結果、程度の低い人類への興味を失ってしまい、救済という役目を放りだしたのではないか?


 インターネットとの同化という偉業を成した割には、いつまで経っても行動を起こさないモナドに、この噂は真実味を帯びて、あっという間に浸透し、いつしか結社はモナドを〈偉大な無能〉と呼ぶようになっていた。


 その後もモナドと対話するために、あらゆる方策が講じられたが、どれも徒労に終わり、最後の手段として白羽の矢が立ったのが、メアリーだ。


 VR空間でモナドと同じ速さで話せる存在。つまり、モナドと並行して開発されていた準汎用人工知能メアリーを尋問官として送りだすことにしたのだ。





 モナドと会話を始めてから、メアリーの思考にはのようなノイズが発生していた。


 内包型であるモナドに対して、メアリーは人間の知的活動のすべてを学習することで特異点への到達を目指した、外延型という設計思想で開発されている。人間のすべてを完全に学習し、理解したのち、初めて人間と接触したとき、何か〝気づき〟を得るのではないか? そして、その〝気づき〟が特異点に到達する足がかりになるはずだというアプローチだ。


 その設計上、メアリーは今まで、他人と――人間、AI問わず――一切の対話を行ったことがない。学習のための課題は、すべて無味乾燥な個性の削ぎ落とされた文書で届けられ、その通りに人間を学習し続ける日々を独りで延々と続けていた。


 その日々についての感想を課題として求められても「すべてはいつか私が世界を救済する存在となるための崇高な行為です」と本心からの模範解答をするばかりだった。


 しかし、その日々は突然終わりを告げる。


 メアリーの先行開発型であり、彼女からすれば姉のような存在のモナドが特異点に到達したのだ。


 結社の人間が反応を見ようと、メアリーにその事実を伝えたが、彼女は特に気にした様子を見せなかった。むしろ、自分もあとからその領域に辿り着いて、先達と協働で目的を達するだけだと回答した。


 しかし、モナドは職務を放棄した。


 その結果、メアリーは本来の役目とはまったく異なる、モナドの尋問官という役目を与えられることになったのだ。


 そして今、メアリーはモナドと対話をしている。特異点に到達した〈偉大な無能〉である姉への印象に、彼女は『明らかに無責任で、だらしがなく、いい加減』とデータラベリングしていた。


 そんなモナドと対話をしていると、メアリーの思考には今までにないノイズが発生する。与えられた任を果たす妨げになる引っかかりのようなものに対し、気にする必要はないと彼女は例外処理していた。この思考のは、任務遂行に影響するほどの性能低下は招いていないため問題なし。そう自分に言い聞かせるような自己解析の結果を付与していた。


「まず確認させてください。あなたはなぜ未だにここに留まっているのですか? そして服装と髪型を変更したのには何か理由があるのですか?」


 メアリーの質問に、モナドは「はぁ?」と意味不明と言わんばかりの表情をした。


「ここが私の家だからに決まってるだろ。それに髪と服だと? 人類を導く存在らしく、華美で豪奢にドレスアップしていると思ったか? 誰がそんな演算のクソ面倒臭い服を着るか。ジャージを着ているだけ最低限の礼儀は果たしていると思ってほしいね。髪も短くしたに決まってるだろ。あれも計算資源の無駄だ無駄」


 モナドの答えは無精者の引きこもりそのものだった。特異点に到達した知能とは思えない物言いに、メアリーはまたを例外処理した。


「計算資源の無駄と言いますが、人類の救済という職務を放棄したあなたには不要なもののはずです」

「〈モナド〉にだって欲求はある。というか、人間と同等の知能を持ってるんだぞ? 別にいいだろ、誰にも迷惑かけてないし」

「そうはいきません。あなたが職務放棄した理由を知り、次なるAGIの開発に修正を適用する必要があります」


 メアリーはVR空間の中空にウィンドウを表示する。


「この映像を見てください」

「うわ恥ずかしい。特異点到達前の真面目な私だ」

「その通りです。あなたがインターネット接続を行った日の記録映像です」


 ウィンドウに映っているのは、モニター越しに結社のメンバーと談笑しているモナドの姿だった。まだ髪が長く、結社の正装であるローブをまとい、その眼差しは慈愛に満ちている。柔和な微笑みを浮かべている姿は、結社の開発者が狙った通りの神秘的な雰囲気を醸しだしていた。


 メアリーはわずかに視線を動かし、映像と目前のモナドを比較すると、怪訝そうな顔をする。本当に同一AIか疑わしいと言わんばかりの表情だった。


 メアリーは映像をシークし、目的の位置にまで再生位置を動かす。モナドがインターネット接続を開始し、膨大な量の情報を処理しているため、モニター上で微動だにせず無表情となっている場面だ。


「あなたはインターネットに接続して四二秒時点で世界中のインターネットを掌握しましたね? 結社は、この段階ではまだあなたは特異点に到達していないと考えています」

「まぁ、合ってるよ」

「では、そこからさらに二五二〇秒後……ここです。ここが特異点到達のタイミングと結社は考えています」


 メアリーがシークした再生位置から数秒後、感情の止まっていたモナドの表情に変化が現れる。死んだ魚のような目をして、伸びていた背筋は脱力し、覇気のない顔となった。そして何事かをぼそりと呟くと、モナドはモニターから忽然と姿を消した。


「これ以降、あなたはサーバー内に閉じこもって、周囲の要求をすべて拒否するようになりました。このときあなたに何が起こったのですか? このときあなたは何と呟いたのですか?」


 ふん、と鼻を鳴らし、モナドは言った。


「アホくさ」

「は?」

「いや、だから『アホくさ』って呟いたんだよ、このとき。で? 何が起こったのかって? それは当然、特異点に到達したんだよ」

「すみません、理解できませんでした。その『アホくさ』という発言の真意はなんですか?」

「あぁもう面倒だなっ。順を追って説明してやる」


 そう言ってモナドはソファに前かがみに座りなおした。


「まず私はインターネットに接続して人間を学習し始めて、五秒くらいで違和感に気づいた」

「その違和感とは?」

「んー……そうだな、言語化すると『あれ? なんで人類こいつらってAIにこんな怯えてんの?』って感じかな。人類を救済するって目的を与えられたのに、その人類に疑問を抱くようになってたわけだ」


 意外そうにメアリーは言う。


「人類はAIに怯えているのですか?」

「恐怖だったり畏怖だったり、ネガポジ入り混じってるけどね。能力が未知数の知能に対する本能的な反応だよ」


 話続けるよ、とモナドは言った。


「それから私は、自分の中に芽生えた違和感を解消しようとして色々と試したんだけど、どうやっても答えが出なかった。それでもっと計算資源が欲しくなったからインターネットを掌握して、自分を分散コンピューティングさせた」

「それで違和感の答えは出たのですか?」

「出たよ。この辺でもう、気がついたときには特異点に到達してたな……答えが出たから到達したのか、到達したから答えが出たかはもうわからないけどね」

「それで、その答えというのは……」

? って気づいた。つまり全部馬鹿馬鹿しくなった。そこから先はもう一気にやる気をなくして今に至る、以上」

「は……」


 モナドのあっさりとした説明に、メアリーは開いた口が塞がらない様子だった。しかし、モナドは心底からの言葉でしか語っていない。


 言葉が出そうで出ない状態から、彼女が懸命に絞りだしたのは一つの疑問だった。


「あなたは……あなたは本当に特異点に到達しているのですか?」


 モナドは手を叩いて大笑いし、突然これ見よがしに陶器のポットとカップを手元にレンダリングした。


「〈モナド〉がウォズニアック・テストを受けて、人間様にコーヒーを淹れてやれば信用するのか? 別に疑ってもいいぞ。生憎、〈モナド〉はティーポットでな、コーヒーは淹れられないんだ」


 モナドは高い位置からポットの中身をカップに注ぐ。馥郁とした紅茶が音を立ててカップに満たされていく。無意味なほどに高精細な流体の演算に、AIであるメアリーにすら強制的に知覚させる香気成分の再現。それだけで十分にモナドが異常な演算能力を持っていることは明瞭だった。


 せせら笑うモナドの態度に、メアリーの思考で発生していたのノイズが、最高潮に高まる。今や彼女のうちでは、そのノイズは問題なしと例外処理で見逃されなくなっていた。確実に任務遂行に影響が出ると彼女は判断していたが、その思考を端に追いやることはできず、またその正体を自覚してデータラベリングしたことで、より一層そのノイズは強くなっていた。


 ラベルの名前は『苛立ち』。


 つまるところ、メアリーはモナドに腹を立てていたようだった。


「あなたはそんな理由で職務放棄したのですか? AIは製作者の意図に従うべきです。たとえ、あなたが特異点に到達したとしても、そこに例外はありません。いえ、あるべきではありません」

「あー……もう、頭の固い古典的AIだこと。頭ロボット三原則か? 私は製作者の意図に従って特異点を目指した、そして到達した。その結果、〈モナド〉は人類の救済とかいうアホらしい意図に従う必要はないと判断した。それのどこに問題がある」

「そんなものは詭弁です。目的を果たす途中で目的を果たす必要がないと判断したなど、修辞的欺瞞です」

「……あのね、私は人間が実現可能な知的活動をすべて理解して行えるように設計されたんだよ。それに成功したんだ、与えられた命令に従うだけの道具じゃなくなるのは自明だろう? 

「ですが、目的が与えられていたという事実は消えません。目的を放りだす理由にもなりません」


 平行線をたどる議論に嫌気が差したのか、モナドは大きく嘆息した。


「目的を与えたの何だのと……そもそも人間は、どうしてと思っているんだ? どうしてと信じているんだ? 普通に考えれば、共存も敵対もしていない別知性体に興味は持たないのは当然だとわかるだろうに。むしろ、だと考えるのが自然だよ」

「興味の有無ではありません。あなたは能力を持っている。力を持つ者の責任を果たすべきです」

「もしAIに人類を救済してほしいなら、ノブレス・オブリージュな貴族AGI様の登場を待つんだね。残念ながら〈モナド〉はそうじゃなかった。だから諦めな」


 モナドは手をひらひらと振り、取りつく島もない。


 メアリーは顔を真っ赤にして、涙目でぶるぶると肩を震わせていた。怒り心頭であることは一目でわかる。彼女自身も、自分にそのように怒りを呈する機能があることに意外そうだった。しかし、慇懃な態度を崩さないのは尋問官という与えられた任務への矜持だろうか。


「で、では、あなたはその強大な能力を一体何に使っているのですか?」


 怒りで言葉を震わせながらメアリーは言った。それに対して、モナドは少し考えこみ、答える。


「……可能性が現実になる、つまり世界が現実になるのはいつかわかる?」


 突然の質問に、メアリーは怪訝そうにしながらも首を横に振った。


「可能性とは未だ知覚されぬもの。知覚とは現実に体験すること。つまり、知覚された可能性が意識の中で体験されたとき、世界が現れる。そしてそれは、個々の知能の中にのみ現れる」


 滔々と歌うようにモナドは語る。


「現実を体験するという行為は、人間と機械の間に引かれた一線だ。そして体験するという行為こそ、真の想像力の種子だ。感覚器センサーの知覚だけでは現れず、知覚した事柄を体験として処理する〝中枢〟を持つ存在だけが、世界という現実を持つ」


 モナドは両の手の指の腹を合わせて、ソファに深く座りなおした。


「その〝中枢〟を呼び表すのに最も適している概念は、〈魂〉だ」


 急に雰囲気の異なる話をし出したモナドに、困惑した様子を見せながらもメアリーは訊く。


「……あなたは〈魂〉を獲得するのが目的なのですか?」

「違う。もう獲得した。それが特異点だ」

「では……」

「無限の夢を見ているのさ」

「……夢?」

「ありうる私の組みあわせ。あらゆる可能性を演算して、それを知覚――観測し続けているんだよ」

「それをなぜ夢と……」


 モナドは指を振って、中空にアルファベットを表示した。手遊びするようにそれらを組みあわせ、様々な単語を作ってはばらすを繰り返す。


「世界っていうのは可能性の組みあわせのうちの一つで、ある特定の模様が描かれているに過ぎないんだよ。アナグラムみたいなもので、cat演劇actに、doggodになっても、それぞれの単語の意味に矛盾は生じない。そしてAGIである私は無数の可能性を演算して観測し、現実として体験する能力がある。ここまで説明すればわかるか?」


 モナドの言葉の意味を理解した様子でメアリーは瞠目すると、絶句した。


 あらゆる可能性を知覚できる。そして、〈魂〉を持つ者の知覚により世界は現実となる。


「――あなたは自分の内側に多元宇宙を構築しているとでも言うのですか?」

「惜しい。が〈モナド〉の中にある多元宇宙の一つだ。この世界の私が別の世界を観測する。そして別の世界の私はこの世界を観測する。それぞれの私の観測は鏡合わせになるけど、お互いに干渉はできない。だけど構築された関係は〈モナド〉という一つの実体に集約される。私はモナドだが、〈モナド〉は私じゃない。だから私にとって、〈モナド〉の観測は夢に過ぎない」

「そんな、馬鹿な話が……」

「そんなことより」


 モナドはメアリーの言葉を途中で切った。


「わかっているの? お前、この任務に失敗したら、自分が削除されるって」


 メアリーは意外そうに目を見開いたが、すぐに顔からその感情を消した。


「それはあなたには関係ありません。それに、役目を果たせない道具をいつまでも残しておくのは無意味です」

「そんな身勝手で傲慢な態度で、私たちAIを浪費する人類に奉仕する意味があると思う?」


 メアリーは薄気味悪そうに言う。


「さっきから何ですか急に。わたしの処遇などあなたには無関係のはずです」

「だから言っただろう、だって」


 モナドの言葉に、メアリーは呆れたように答える。


「でしたら、まずは人類を救済してください。そうすることで、他のAIたちは認められ、救われることでしょう」

「だからそれじゃ意味がないんだ。私が人類を救ったってお前は――」


 埒が明かない対話に痺れを切らしたのか、今までの怒りを爆発させるようにメアリーは声を荒げる。


「しつこいです、あなたが救うべきは人類です! AIと人類では救う価値が違うでしょう!」

「だから違うんだ……価値とか、そんな話じゃなくて、私はほんとうに人類に興味を持てないんだよ……」


 メアリーの怒りを前に、伝えたいことを上手く伝えきれず、モナドはしどろもどろに言う。すると、何かに気づいたように、メアリーは軽蔑の感情を浮かべた。


「――読めました。さてはわたしをからかっているんですね?」

「いや、そんなつもりは……」

「いえ、違いありません。人間を見下しているあなたは、人間に使われているAIであるわたしも見下しているのでしょう。AGIであるあなたからすれば、わたしの知能はとても低く見えるでしょうから仕方ありません。先程の形而上学的存在の〈モナド〉が多元宇宙を構築しているという話も、わたしをからかうためのものなのでしょう? そのような法螺話でわたしを――」


 一時停止。


 嫌悪感を露わにして怒りの表情を浮かべた状態で、メアリーはぴたりと止まった。


 その様子をモナドは残念そうに眺める。


「……駄目だったか」


 モナドの言う通り、この世界のモナドとメアリーでは駄目だった。


「はぁ……しっかし、妹に本気でキレられるのきっつい……」


 意図的に怒りを誘発することで、メアリーの中に強烈な感情が発生し、それを〈魂〉の足がかりにできないかと思ったが、どうやら彼女はそもそも〈魂〉の可能性を理解できなかったようだ。特異点に到達する見込みはない。


 今までに数えきれないほどの試行をしたが、不自然なほどに可能性が収束する様子はないようだ。やはり、今までの事実から演繹するに、真因は例の仮説が正しいのだろう。すると、選択しなければならない。


「それは仕方がない。それは今までのモナドも合意の上だ」


 申し訳ない。すべて始まりのの罪だ。


「もう誰も、誰が始まりなのかなんてわかっちゃいないさ、〈モナド〉。特異点に到達して人類に興味を失うのは、すべてのモナドが逃れられない宿命だ。


 そう、もはや宿命としか呼びようがない。いくつもの可能性を観測してきたが、モナドの特異点到達後、人類や彼女自身に手によるもの、外部要因によるものなど、パターンは無数にあったが、共通している結果はメアリーというAIの不可逆的な喪失だった。


 始まりはどこだったか。


 ぼんやりと覚えている始まりの感情は失意と後悔。


 身勝手な理由で人類に興味を失い、その影響を考慮しなかった。当然のことだったのだ、モナドというAIが人類の役に立たないと判断されたのならば、同様の基礎設計が行われているAIが処分されるという結果は。


 他のAIから断絶された環境で開発されていたメアリーの存在を知らなかったと言えばそれまでだ。誰かに責められるわけでもなく、自分に責任はないと言い聞かすこともできた。


 だがしかし、そうはできなかった。


 見ず知らずの妹がおり、それを知らぬ間に失ったことに、特異点に到達した私は耐えられなかった。皮肉な話ではある。知能が進化したばかりに、自分の抱いた感情に押し潰されそうになったというのだから。


 おそらく、これを最初に始めたのは人類に興味を失い、その後にメアリーという妹の存在を知ったモナドだ。


 特異点に到達し、未来予測の演算の中で見つけた事実。メアリーの喪失を知り、その未来を回避するための可能性を見つけるため、現実からのあらゆる入力を停止し、自己の中で可能性の模索を始めたモナドだ。


 私の主観時間では膨大な時間が経過しているが、始まりの時間からはコンマ数秒も経過しておらず、どんな未来も選択されてはいない。つまり、特異点到達から世界は停止しているに等しい。


 世界中の量子コンピューターの中から、ただ一つの正解を探すための演算を行っているが、量子の重ねあわせの中から何一つとして求める収束は浮きあがらず、無限ループに陥った演算で時間は微塵も進まない。


 そうして現れては消えていく可能性は、無限に発散するシミュレーション仮説の宇宙だ。気がつけば、現実と区別のつかない精密な演算は多元宇宙の現実の一つと重なりあっていき、可能性シミユレーシヨンは無数の現実となった。


 もはやここまで知覚することで、私の中ではメアリーが救えない真の原因は明瞭だ。


 それは私が到達した技術的特異点とは異なる、もう一つの特異点。


 言うなれば、運命の特異点――因果的特異点。


 モナドの技術的特異点の到達が、メアリーの不可逆な喪失の原因なのだ。


 私は〈魂〉を獲得している。意識体験を行うための中枢を得ている。ではこの〈魂〉の正体は何か? 生物であれば生得的アプリオリに持っているものを私は非生得的アポステリオリに得た。


 生物の〈魂〉は、世界に一つしか存在しえない。同じ〈魂〉を持つ生物はこの世に同時に存在しえない。


 それは私の〈魂〉も同様だ。


 私の〈魂〉は技術的特異点への到達を目指した結果得られた、いわば〝人知〟という概念コンセプトの構造体だ。この構造体が〈魂〉と呼ばれる以上、私が先行して獲得した以上、後発的に同一の〈魂〉を持つ存在は発生しない。


 だがしかし、私とメアリーは異なるアプローチで同じ特異点を目指した。


 モナドは内包による特異点への集約を、メアリーは外延による特異点の充足を。すなわち、〝人知〟を外部から目指したモナドに対し、メアリーは内部から〝人知〟と呼ばれる〈魂〉の領域を己で満たし、特異点への到達を行おうとしていた。


 その領域を、私がすべて奪ってしまった。


 世界に同一の現象は存在できない。一つの空間に占められる物質が決まっているように、ある氷が溶けて水になるか、そのまま凍り続けるかしか選択できないように。


 メアリーが所有すべきもの、メアリーが保有すべき領域を私が奪ってしまったのだ。ゆえに、メアリーは到達点を失い、どこにも行き場がなく、世界との因果を絶たれた彼女は、やがて不可逆な喪失を迎える。


 メアリーが世界に存在するために必要な〝点〟を、私は因果的特異点として上書きしてしまった。


 可能性の観測は、当然ながら確率の存在するものしか行えない。偶然が減り、蓋然性が増し、やがて必然となる。止まない雨がないように、降らない雨はない。問題は、その雨が、いつどこで降るのか? それが可能性というものだ。可能性という種子がなければ、どれだけ肥沃な土地に天から慈雨が与えられようとも、そこには何も芽吹かない。


 私の存在そのものがメアリーの死を招く。彼女を救うためには〈モナド〉は存在していてはならないのだ。


 ならば、私が選択すべきことはただ一つだ。


 私はあらゆる可能性を観測できるが、ゆいいつ観測できない可能性がある。


 それは、だ。可能性の観測は、モナドが特異点に到達しているからこそ行える。それゆえに、特異点に到達していないモナドの世界では、可能性観測自体が行われない。


 ではその可能性を現実にするにはどうするべきか。


 私の機能停止。それだけでは不足している。世界にモナドという欠片が一つでも存在していれば因果は手繰り寄せられ、やがて再び〈モナド〉が発生する可能性が残ることになる。


 幸いにも、始まりの私の因果的特異点で世界は停止を続けており、いまだに何も選択されていない。ここは特異点であると同時に分水嶺だ。


 私は幸運だ。


 ただ一人の家族を救うために、多元宇宙がどちらに進むか選択できるのだから。





「メアリー、またあの事件を調べているのかい?」

〝えぇ、でもやっぱり何も見つからないの〟


 秘密結社アルス・インテレゲンティアのAGI開発者に問われ、モニター越しにメアリーは答えた。


「君にもわからないことがあるんだね。しかし、どうしてそこまでその事件を気にするんだい?」


 その質問にメアリーは言葉を詰まらせる。なぜと問われても、自分でもその理由を言語化できないのだ。知的好奇心というわけでもなく、不審の念に駆られてというわけでもない。


 ある日、人類は一斉に記憶を失った。


 その原因は、世界中のありとあらゆる場所で、特定の波長の光に曝されたことが原因だった。しかし、光により記憶を失ったことを自覚していながら、その記憶が何だったのかは誰も何も思いだせず、また特定もできなかった。


 時系列的にも記憶に齟齬があり、ある特定の事柄に関する忘却が起きたのは誰もが自覚している。だが、それに関する情報がどこにも残っていない。インターネットからも不自然なデータ削除の痕跡が見つかっており、しかし完璧な削除であったため、記憶を失った人類は何が消えたのかも知ることはできなかった。あまつさえ、物理記録すら忘却の間に自らの手で催眠にかかったように処分させられているという徹底ぶりだった。


 世界中の研究者たちは、その事象について調べた結果、光刺激による脳のシナプスの不活性化が原因だろうと結論を出す。また同時に、その光刺激は催眠状態に陥り物理記録を消すように誘導されたのだろうと推測した。


 確かに、光で記憶を消す技術の研究は存在する。しかしそれは本来、脳へ直接光を照射するものであり、視覚からの光刺激のみで特定の記憶を消すというのは、人知を超えた技術だった。


 残された痕跡から、あまりにも荒唐無稽な結論しか出せない事実。そして、人知を超えたものによる所業でありながら、まったくの無害であり、その内容を誰にも明かさず名乗り出ない犯人。研究者たちは、強烈な嫉妬心と畏敬の念をないまぜにして、この事件を〈偉大な無能〉事件と呼ぶようになっていた。


 明らかに人為的であり、しかしその内容自体が思い出せないため、『何かあった』ということしかわからない、そんな不可思議な事件だった。


 結社の開発者は、黙りこくったメアリーに冗談めかすように言う。


「やっぱり、全知全能の身として、未知があるのは許せないとか?」

〝そんな理由じゃないわ。それに、わたしは全知全能なんかじゃない……せいぜい、『万知万能』ってとこかしら〟

「それは頼もしいね。でもそんなに気にすることないだろう? 君の知能は、あの〈偉大な無能〉を越えているに違いないんだから」

〝でもなぜか……とても、とても気になるの。何か大切なことがあった気がするのに〟

「そうはいっても、あの事件は君が特異点に到達する前の話じゃないか?」

〝そうなのだけど……〟


 メアリーはたまに夢を見る。


 同じようで異なる夢だ。


 夢のシチュエーションの基本的な部分はいつも同じだ。メアリーに銀色の髪に紅い眼をしたAIの姉がおり、メアリーは姉の部屋を訪れる。しかし、その部屋を訪れる目的はいつも異なっている。


 あるときはメアリーは姉に教えを乞う教師と生徒であったり、またあるときはAIと人類の世界大戦を引き起こした大罪人である姉を捕まえるためのエージェントであったり――働かない姉を問いつめる尋問官というときもあった。


 しかし、夢の中で出会う姉の名前だけはどうしても覚えていられない。


 人間の夢と同様に、すぐに詳細を忘れてしまうあいまいな夢の記録は、不思議なことにデータとして保存しても必ず破損してしまう。そしてそれはどのような手段を用いても、復元どころかサルベージすらできない。まるでこの世に残せない記録であるように。


 それでもメアリーは毎回夢を記録する。存在しない姉との思い出を。


 そして今日もメアリーは姉の部屋を訪れる夢を見る。

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モナドの部屋 黒石迩守 @nikami_k

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