噤呪の巫女(きんじゅ の みこ)

津多 時ロウ

第一章 御言女様

第一話 夏成

 いつからだろう。

 想いを口にしなくなったのは。



 *  *  *



「とりゃあ!」


 白い雲が泳ぐ青い空。

 田畑の続くのどかな景色。

 尼削あまそぎの黒髪を振り乱して、蹴りかかる少女。

 蹴られてもピクリとしかしない茶筅髪の少年。


「カヤ。十四になったんだから、はしたないまねはせ」

「十四になったアタシの蹴りに動じないとは、さすがはゲンタだ。アタシの未来の旦那様だけはあるぜ」


 カヤとゲンタは大きな湖に面したこの草浜くさはま村で、貧しくも健やかに育った幼馴染おさななじみだった。

 白南風しらはえが吹き、そろそろ夏成なつなりを納めなければならない時期。

 庄屋は忙しく様子を聞きまわり、家々は畑の収穫で忙しかったのだが、カヤは自分の仕事が終わると風のように走り、ゲンタにちょっかいをかけることを諦めなかった。もはや生きがいと言っても良い。カヤはそれほどまでに懸想けそうしていてもなお、自分の感情をうまく表せないでいたのかも知れない。


「いつ、俺がお前と結婚することが決まったんだ?」

「アタシがさっき決めた! つべこべ言わずに結婚するのだ!」


 カヤの顔は輝いていて、そこには迷いもない。

 そんな彼女をゲンタはその切れ長の目で、溜め息の一つも吐かずにじっと見つめ、囁くように声を出し、左頬に触れる。その声は低く、どこか甘い。


「お前、痣が前よりも濃くなっているな」

「うん。この頬の舟みたいなの、いったい何なんだろうね。本当に気味が悪い」


 ゲンタの親指が、頬に黒く浮かび上がった紋様を二回、なぞる。口のような、縁の立った平皿の断面のような、古代の葦船のような、両端に反りのあるその不気味な痣を。


「痛みはないのか?」

「全然痛くないよ」

「……いずれみやこ薬師くすし卜部うらべか、或いは野祓のはらい屋にでもてもらわなければいけないな」

「そのときはゲンタも一緒にいてくれる?」

「どうしてだ?」


 なぜそこに疑問を持つのか。か弱い乙女の心を理解しない唐変木に、カヤの顔はみるみる朱に染まった。


「ふーんだ! ゲンタなんてアタシがいない寂しさをたっぷり味わうといいのよ!」


 思わず口をついて出た言葉も、言われた本人は聞いているのかいないのか。

 背を向け、走るカヤにはわからなかった。

 けれど。

 けれど、ゲンタはその背中をじっと眺め、視界から消えるのを待たず、ゆっくりと足を出した。そうではない未来も二人にはあったのかも知れないが、ゲンタは当たり前のようにカヤの小さな背中を追った。

 追うといっても小さな村のこと。少し歩けば、田んぼの一枚向こうに屋根を板でいた、小屋のように小さな家が見えてくる。

 ゲンタにとってはいつもの見慣れた景色ではあるが、今日はいつもとどこか違う。

 その理由は、考えなくともすぐに分かるようなもので、カヤの家の前には張烏帽子はりえぼしに麻の白丁はくちょうを纏い、上括しょうくくりに袴を履いてすねを出した集団がいたのだ。

 夏成の視察にでも来たのかと思う者もあるだろうが、代官の遣いであれば全員が全員、口覆いをすることなどないと言い切れる。

 それではあの集団は何かと考えたところで、ゲンタには知る由もない。ただ近づくにつれてその姿ははっきりと見えてきて、得体の知れない口覆いの集団に不安は募るばかりであった。

 やがて、先頭に一人、立烏帽子たてえぼしを被った上役と思われる人物がいることに気が付いた。口覆いは変わらないが、草色の水干すいかんを裾を出して纏い、脛は袴で隠れている。それが何かを懐にしまったかと思えば、誰かに話しかけているようである。

 誰かは果たして誰なのか。ゲンタが目を凝らしたところで、彼の位置からは白丁はくちょうが邪魔になり、見えない。そうであるから、不安はいっそう募るばかりで、本人が意識せずとも自然、その歩みは速まっていた。

 狭まる視界の先で、草色の男は腕を動かし、周囲の者に指示を出したようで、白丁はくちょうの幾人かが、慌ただしく男の前方に動き始めた。


 そこに、カヤがいた。彼女の両親も、少し離れたところにいた。

 白丁はくちょうの男たちは棒や刺又さすまたをカヤに突き付けている。

 ゲンタは駆け出した。

 カヤがたまらず逃げ出そうとするのが見えた。

 だが、彼女の細い体は棒で囲まれ、そのまま両腕を掴まれた。

 ゲンタの耳に声が聞こえてくる。


「やめて、やめてよ! この、離してよ!」


 身をよじり、全身を使って男たちを振りほどこうとするが、その体では手足をバタバタとさせるだけで精一杯だった。


 ――叫べ。


「お父さん、お母さん助けて! 助けてよゲンタ! ゲンタ!」


 ――叫べ。想いがあるのなら。


「カヤ!」


 ゲンタはこれ以上ないくらいに声を張り上げ、カヤの腕を掴んでいる男に、駆けた勢いのままに体をぶつけた。

 肉と肉がぶつかる鈍い音がして、相手諸共そのまま転げる。


「カヤ!」


 立ち上がり、その名を呼んだ。

 しかし、そこまでだった。次の瞬間には、彼は三人がかりで地面に押しつけられ、或いは殴られ、棒で散々に打ち据えられ始めた。


「いやあ……。やめて、やめてよ……」


 ゲンタは体のあちらこちらが変色し、肌が割け、血が流れる。


「……分かった、分かったから、もうこれ以上は止めてよ、お願いだから」

「ようやくお分かり頂けて何よりです。それにしても……」


 草色の男の高い声が陰鬱に響き、粘り気のある視線をカヤと、そして気を失ったゲンタに向ける。


「そこの少年は、カヤ様の想い人か何かですかな?」

「……違うわ」

「ふむ。……まあ、いいでしょう。お前たち、その少年も都まで運びなさい。我々、巫覡部きねべに楯突いた罪人です」


 こうしてカヤとゲンタは都へと旅立った。

 カヤの両親は無力に泣き崩れ、けれど、空はどこまでも青かった。

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