第74話 八月十六日、午前四時

 幽霊少年を見送った後、ララたちは真夜中の地上に戻ってきた。

 倉庫捜索の目的は達成した。今後は押収した証拠を元に捜査を進めることになる。


(カルマン卿から事情を聞きたいところだけど……)


 彼は会話ができる状態ではなかった。回復を待つため、一時的に王都の施設に収容されるらしい。

 連行されるカルマンたちを見届け、この日の任務は終了した。







 捜査局に着いた頃には、夜とは言い難い時間になっていた。

 八月十六日、午前三時。

 あと一時間で安眠の間が解ける。テオドールがグラント公爵家に入れるのだ。

 ララは湯浴みをしながら、これからの予定を考えた。


(寝る直前までお喋りをして、私が眠っている間にテオはグラント公爵家に帰る。お昼過ぎにみなさんと別れの挨拶をして、夕方になったらジャスパーにお化粧をしてもらう。夜はお父様たちが用意してくださったドレスを着て、夜会で踊る。それで、最後は……大丈夫。絶対笑顔で見送る。大丈夫)

 

 テオドールが神の元に帰るまで、二十四時間を切った。

 両手でお湯をすくい、目元を流す。左右の口角に人差し指をあて、ぐいっと持ち上げてみた。さあ、浴槽から出ても、この形をキープだ。


 湯浴みを済ませ、テオドールの私室に入る。

 どんな話をしよう。夜会に着ていくドレスの色を当ててもらおうか。ダンスの練習をするのもありかもしれない。


「お待たせしました。今夜は私が寝るまでお喋りに……」


 部屋の明かりをつけたララは、愕然がくぜんとした。生まれて初めて神を恨んだ。


「悪い、ララ」

 

 そう言いながら振り向いて、うんと優しく微笑んだ彼が――、


「帰る時間が、近いみたいだ」


 テオドールが、消えかけていた。


「なん、で」


 途端に息ができなくなった。空気がなくなってしまったみたいに。

 神の元に帰る日は、本人の意思で決められるものではなかったのか。

 へたり込んだところをテオドールに支えられ、二人でベッドに腰掛けた。存在を確かめるように、彼の体にしがみつく。


「まだご家族のそばで、過ごせていないのに」

「良いんだ。君が母に、俺の気持ちを伝えてくれたから」

「……ダンスを踊ってから帰るって、おっしゃっていたではありませんか」

「……ああ」

「死の真相が明らかになったから、この世への未練がなくなってしまったのですか」

「それは違う」


 テオドールに両肩を掴まれた。


「未練ならある。ここに、大きすぎるのが」

 

(ならどうして、帰ってしまうの)


 行かないで。ずっと隣にいて。嫌だ。離れたくない。

 喉まで上がってきた言葉を、奥歯を噛みしめて必死に堪える。消えてしまう。大好きな彼が、いなくなってしまう。

 最後にできることはないかと考えて、我に返った。


「み、みなさんに、連絡しないと」


 捜査官たちは、まだテオドールに会えると思っている。別れの挨拶もできないなんてあんまりだ。

 急いでサイドテーブルに置いていたイヤーカフを取り、震える手で起動した。


「ララです。テオに、時間が残されていなくて。なぜだか分からないのですが、帰ってしまいそうなんです。今テオの私室にいますので、どうか早く――」

「来なくて良い」


 会いに来てください、と言う前に、体に入ったテオドールによって遮られた。


「まだ仕事が残ってるやつもいるだろ。さっさと終わらせろ。終わったらゆっくり休め」

「ちょ、そんな」

「お前ら、あとは任せた」


 それだけ言って、テオドールは通信を切った。ララの体から出て、改めて隣に座る。先ほどより透明に近付いた彼の姿に、別れがすぐそこなのだと思い知らされた。


「……最後になるのですよ?」

「最後だからだ。帰る直前くらい、二人きりで過ごしたい」


 テオドールは向かい合うように体勢を変えると、こちらをじっと見つめてきた。


「なあ、ララ。……俺は今から最低なことを言うが、許してくれよ」


 伸びてきた腕に抱きすくめられ、テオドールの顔が見えなくなる。


「君と、もっと一緒にいたかった」

「――っ」


 隣で笑ってほしかった。

 修理している姿を眺めていたかった。

 手を繋いで出掛けたかった。

 朝から晩まで抱きしめていたかった。

 ララ・オルティスは俺のものだと、この世の全てに自慢したかった。


 耳元で吐露とろされる、テオドールの願い。

 懸命にき止めていた感情が、一瞬で溢れ出した。


「……っ、ひどい」

「俺もそう思う」

 

 笑って見送りたかったのに、全然上手くいかない。震えているのが自分なのか彼なのかすら、分からない。


「俺が言わないと、君は我慢するから。まだ俺に言えてないこと、あるんじゃないのか?」


 テオドールの言葉に驚き、涙で濡れた顔を上げた。

 ララは彼に、話していないことがある。


 自分がテオドール以外の人と添い遂げる未来はない。この先何年経っても、彼の変わりは現れない。ララにとってテオドールは、最初で最後だ。

 だから勝手に覚悟を決めた。再び彼と出逢える日まで、何年でも何十年でも、来世まででも、一人で生きようと。


(直接伝えるのは、流石に迷惑だと思って……)


 密かに誓ったつもりだったのだ。

 こんな想いを伝えても良いのだろうか、と身を固くすると、テオドールがすねた声を出した。盛大なため息まで聞こえる。


「心外だな。俺の気持ちを甘く見積もりすぎだ」

「どういう意味ですか?」

「……君が好きな花の花言葉くらい、俺は知ってる」


 耳を疑った。テオドールが花言葉を?


「君、言ったよな? ツェルソア植物園で。『この素敵なラベンダー畑に、あなたへの想いを誓います』って」


 ぐいっと顔を近付けてきたテオドールに、何度も頷き返す。言った、言った、言いましたとも。

 だって伝わるわけがないと思っていたから。


「俺が口説き文句に気付かないような男だと思ってたなら、大間違いだ」


 ラベンダーの花言葉は――、


「『あなたを待っています』だろ?」


 それまでの表情とは打って変わって、テオドールはいじわるな笑みを浮かべた。それでいて幸せそうだった。

 彼は自分の誓いを、受け止めてくれていた。


 堪らなく、好きだと思った。


「ララ」


 見惚れていたら、額にふわりと何かが触れた。彼の唇だと理解した時には、目を閉じて受け入れていた。

 瞼、こめかみ、目尻、頬と、少しずつ位置を変えて唇が降ってくる。


 抱きしめてくれるたくましい腕。何度も名前を呼んでくれる低い声。柔らかい感触と時折聞こえるリップ音で、腰が砕けてしまいそうだ。

 頭を撫でられ、髪をすかれ、吐息が耳をかすめると、その甘さに身をよじった。

 耳の輪郭をなぞって頬に戻ってきた唇が、ララの唇の横をついばむようにして、離れた。


「続きは、次会った時にとっておく」


 楽しみがあった方が早く生まれ変わりそうだしな、と揶揄うように言うテオドールの頬を、ララは両手で包み込んだ。熱に浮かされて、止められなかった。

 彼の真似をして顔を寄せ、唇の横を控えめについばむ。


「もっと早く戻ってくる気に、なりましたか……?」


 至近距離で尋ねると、「……なった」とだけ返ってきた。

 どちらともなく、こつんと額を合わせる。

 沈黙の後、力強く彼は言った。


「約束する。どれだけ時間がかかっても、君と生きるために、必ず戻ってくる」


 ――ララ、愛してる。



 八月十六日、午前四時。

 たったひとつの約束を残して、ララの愛しい人は、神の元に帰った。









 目を開けると、体が鉛のように重かった。テオドールに体を貸していたからなのか、精神的なものなのか。

 彼を見送った後の記憶がない。おそらく気を失ったのだろう。

 なんとか起き上がって時計を確認すると、午前七時だった。

 当たり前だが、部屋を見回してもテオドールはいない。彼の「おはよう」が聞こえない。

 それだけでこんなに、寂しいなんて。


 自動運転の魔道具のように、顔を洗って髪をとかし、服を着替える。

 色褪せた世界に、ひとりぼっちになった気分だった。


 部屋の空気を入れ替えよう。そう思って窓を見る。閉じられたカーテンの隙間から、日の光が差し込んでいた。

 カーテンをつまみ左右に開けると、想像よりも眩しい。一度顔を背け、光に耐えながらしょぼしょぼと瞼を持ち上げる。


「あ――」


 窓の外を見て、目が覚めた。

 今日の空は、どこまでも澄んだ青だった。

 

『忘れるな。君の鼓動が止まる、その時まで。俺に愛されていることを』


 彼の声が、聞こえた気がした。


(こんな顔をしていたら、怒られてしまいますね)


 しばらく空を眺めていると、扉の方から物音がした。

 不思議に思い、扉から顔を出す。しかし誰もいない。かわりにドアノブに紙袋がかかっていた。


 部屋に入り、中の物を一つずつ取り出す。箱詰めのクッキー、リラックス効果がある紅茶の茶葉、刺繍入りのハンカチなどに加え、大量のメッセージカードが入っていた。捜査官たちが書いてくれたようだ。

 自分たちだって、辛いはずなのに。


「……ひとりぼっちじゃ、ない」


 テオドールが残してくれたものが、両手に収まりきらないほどある。

 ララはもう一度窓の外を見た。空に向かって微笑み、支度を再開する。部屋を出た頃には、少し体が軽くなっていた。

 

「おはようございます!」


 ジャスパーの執務室を訪れると、彼は寝不足気味な顔で書類を睨んでいた。


「ララ、あなた」

「お手伝いできること、ありますか?」

「そりゃあもう燃やしたいくらいあるけど、あなた今日は元々休みの予定だったし。それに……」


 色々な意味で大丈夫なのか、と眉尻を下げて心配される。

 

「正直とっても落ち込んでいます。が、あなたにお願いがあるので、先払いで仕事をお手伝いします」

「お願い?」

「今日の夜会で、テオに笑っているところを見せたいんです」


 ジャスパーには、これだけ言えば充分だった。


「任せなさい。世界一、可愛くしてあげる」


 ララとジャスパーはガシッと握手を交わす。契約完了だ。

 目で頷き合うと、早速仕事にとりかかった。

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