千の日を春と結ぶ
ひすい
千の日を春と結ぶ
《前書き》
歌物語:平安文学における物語の様式の一つ。和歌を中心として構成された短編物語。その和歌が最も映えるように作られている。
《本編》
晩春と言うべき季に差し掛かり、爛漫と咲き誇った花々も地に積もりつつある。また一つ、僕の制服を掠めて舞っていく花を見ながら一人、花びらが散りばめられた石畳を歩いていた。
全く人通りのない庭園を歩くのもこれが何回目なのか。最早回数を数えることが出来ないくらいには、日課のようになっていた。それはつまり、毎日に変化がないということでもあるのだが。
しばらく歩みを進めると、桃の並木道が現れる。木の枝が両脇から伸び、幾重ものアーチがずっと続いている光景はいつ見ても壮観だ。そこに咲いた桃の花は残念ながら残り僅かで、差し込む陽はまだ若い葉に遮られつつあった。
柔らかな風が吹いて、目を細めた。地に落ちた花がもう一度天を舞い、一通り踊った後にまた静かに摂理に従う。風と花の幻想は泡沫のように消え、また静寂が代わりに佇む。僕は細めた目を再び開いた。
道の先に目を向けると、いつからそこにいたのか、誰かの姿が見えた。僕は今まで、この庭園で誰とも会ったことがない。閑散として誰からも忘れ去られてしまったような、人気の無いこの場所を訪れる人物に、僕は興味をもった。
静かに距離をつめてみると、そこにいたのはうら若き少女だった。齢は僕と同じ高二生くらいだろう、見覚えは無いデザインだがセーラー服を身にまとっている。その横顔は僕に気付かずに、ただ花を眺めているようだった。
邪魔をしては悪いかとその横を通り過ぎようとした時、僕に気付いた様子の少女はこちらに目を向ける。そのまま顔を戻すのかと思いきや、彼女は僕に向かって小さく微笑んだ。そのあまりの可憐さに、思わず息を呑む。僕は笑みを返すのも一瞬忘れて、それから慌てて表情を繕う。ぎこちない笑顔を見せ続ける訳にもいかず、僕は軽い会釈をしてその場を通り過ぎた。
その後目に入った桃の花は、心做しかいつもよりも鮮やかに映っているように思えた。
明くる日、僕はまたいつものように石畳を歩いていた。昨日とほとんど変わらない今日に唯一変化があるとするならば、それは僕の心状だろう。凪いでいた思考にさざ波を立たせるのは、昨日の少女。話しかけることが出来なかった悔しさを抱きながらも、いつも通り並木道へと歩みを進めた。
辿り着くと果たしてそこには、昨日と同じように花を眺める少女の姿があった。彼女もまた僕に気付いたのか、こちらに顔を向ける。目が合ったかと思うと、少女は微笑みをみせた。昨日と同じような、いや、記憶の中のものよりも余程可愛らしいその笑顔に、僕の意識は白飛びしそうになる。その断片を必死に繋ぎ、僕は意を決して話しかけた。
「あの……お花、好きなんですか」
声は裏返っていなかっただろうかとか、流暢に話せたのだろうかとか、些末な、されど僕にとったら非常に重要な問題が頭をよぎる。僕の思考がメリーゴーランドのようになっている間に、目を瞬かせた少女は答えた。
「はい、大好きですよ」
そう言って、彼女は溢れんばかりに咲いた花のような笑みを浮かべる。僕の頭というものは本当に残念な出来をしているらしく、この一瞬ですぐに茹だってしまう。醜態を晒すことだけは何とか避けねばならないというその一心で、努めて表情筋を在るべき場所に押しとどめ、平静を装った顔で会話を続けようと試みる。
「そうなんですか、僕も好きでよく歩いてるんです。いつも人がいないんで、人がいるのは珍しいなって」
「最近越してきたばかりなんです。こんなに綺麗なお花を独り占めできるなんて、素敵ですね」
少女は悪戯っぽく笑った。それなのに、差し込む陽に照らされているせいかその笑顔は輝いて見える。咲き誇る花を一身に表したような彼女から、僕は目が離せなくなっていた。不思議そうに首を傾げる姿が目に入って、僕は今まで惚けていたことに気がつく。どうやって弁明しようか、ここで気の利いた返しが出来るなら苦労していないというものなのだが。
少なくとも僕にとっては気まずい沈黙が場に漂いだしたとき、少女は自分の時計をちらと見る。もう時間が無いことに気がついたようだった。
「あ……私、そろそろ行かないと」
この気まずさを打開する契機がやってきたことは歓迎するのだが、出来れば違う形が良かったと思うのは我儘なのだろうか。僕は少女がもう行ってしまうことに淋しさを覚えた。
「そう、ですか。呼び止めてしまってすみません」
「いえ、全然」
僕と彼女の向かう方向は反対らしく、背を向けて歩き出したその時、後ろから声がした。
「あ、あの!」
振り返ると、立ち去ったとばかり思っていた少女はまだそこにいて、何かを伝えようと逡巡している様子だった。やがて彼女は口を開いた。
「また明日も、お話できますか」
飛び立ったその言葉は、全く僕が予想していなかったものだった。少女は不安と期待が混ざりあったような表情を浮かべていて、それは僕の返事にかかっていることは容易に想像ができた。焦り交じりだが、僕が返す言葉は決まっている。
「え、あ、もちろん!」
僕の返事を聞いて、少女の顔は大輪の花のようにぱあっと明るさを取り戻した。
「あ、ありがとうございます! 私はここで待ってますね!」
喜色を溢れさせた少女はそれだけ言い残し、並木道をとてとてと駆けていった。少女の姿が見えなくなるまで、その背中を眺めていたのは仕方の無いことだろう。
日が暮れてまた昇る。桃の花もほとんど全てが若い緑へと置き換わり、吹く風も昨日より温かさを含むようになっている。今日もいつもと同じように、否、いつもよりも早くこの場所を訪れていた。そこに昨日のような悔しさは無いが、代わりに脳を占めるのは経験したことの無い類の緊張。女性との関わりなどほぼ皆無な僕が、全男性の悩みの種である女性との関わり方について持論、ましてや正解など持っているはずもない。僕に話し相手が務まるのかと不安に思いながらも、一方で彼女が誘ってくれたのだしと楽観視する部分もあった。
とっくに辿り着いていた並木道で悶々と悩んでいると、僕の悩みの大元とは思えないくらい可憐な少女が現れる。僕がもうここにいるのに気付いてか、少し早足だった。
「すみません! お待たせしちゃいましたか……?」
「あ、いえ、大丈夫ですよ。歩きますか?」
「はいっ!」
僕らは誰もいない並木道を歩き出した。幾つか考えついていた話題をいつ切り出そうかと思案していると、先に静寂を破ったのは少女のほうだった。
「あ……そういえばお名前を聞いていませんでした」
用意していた手札の一つが早速使われてしまった訳だが、まあ僕が切り出しても彼女が切り出しても変わらないことだろう。僕は答えた。
「僕は日和 結斗(ひより ゆうと)です」
「結斗さんですね。私は千春 咲花(ちはる さいか)と言います」
咲花。花のように笑う彼女をよく表した良い名前だ。だがそれを思わず声に出してしまった。
「咲花さんですか、良い名前ですね」
「ふぇ!? あ、ありがとうございます……」
あ、気まずい。この空気をどうしてくれようか。いやどうするも何も、何か話さないと改善はしないだろう。僕は取り繕うように話を振った。
「さ、咲花さんはどうしてこっちに? 越してきたって言ってましたが」
「り、両親の仕事の都合で、ですね。前の土地を離れるのは悲しかったですけど、こんなに綺麗な庭園があったのは僥倖でした。あまり行ける場所も少ないですし……」
彼女の言葉に僕は疑問を持った。この辺りはそんなに都会でもないが、そんなに田舎でもない。この庭園も郊外にあって人気が無いのはそうなのだが、街中の方へ行けば遊べる場所も多いはずだ。僕はそのことを尋ねる。
「そういう場所に行くこととか、長い時間外にいるのは禁止されていまして……正直、あまり私に自由は無いんです」
「そうなんですか……」
それ以上のことは僕には言えなかった。出会って三日目という、まだまだ赤の他人である僕が家庭のことに突っ込むのは気が引ける。
「ご、ごめんなさい、変な空気にしてしまって。違う話をしましょう」
「そ、そうですね。んっと、咲花さんの好きな食べ物はなんですか」
ものすごくベタな質問だが、ベタにはベタなりの良さがあるというものだ。僕のような会話が苦手なタイプでも手軽に振れる話題というのは、やはり誰しも使いたいものなのだろう。
「好きな食べ物……果物ですね。桃とか、苺とか、林檎とか。あ! 蜜柑も好きです」
言ってから少し、こんな話題など飽きているのではないかと思ったのだが、咲花さんは楽しそうに話してくれた。それを聞いているだけで僕も楽しかった。並木を抜けて少し歩くと、紫、白、ピンクと色とりどりの花を咲かせている木が姿を見せる。ライラックだ。
「わあ、綺麗ですね……!」
「咲花さんはどの色が好きですか?」
「うーん……私は特に紫の花が好きですね。結斗さんはどうですか?」
「僕は白が好きです。やっぱり花は何回見てもいいですね」
「はい、そうですね!」
僕も咲花さんも笑いながら、同じ時を共有していた。それからも幾つか会話を交わしたのだが、楽しい時間というのはひと時の夢のようで、すぐに終わりを迎えてしまう。
「結斗さん、今日はありがとうございました。男の人とこんなにお話ししたのは初めてで緊張したんですけど……結斗さんが優しい方で助かりました」
咲花さんの純粋な言葉に、単純な僕の胸の鼓動が高鳴る。ドギマギしながら返す言葉を探す。
「こ、こちらこそ。僕も楽しかったです。……その、咲花さんさえ良ければ、またお会いしてもいいですか」
咲花さんは目を丸くして、その後顔を綻ばせた。
「はいっ! よろしくお願いします!」
その笑顔はライラックにも負けないものだった。
その約束をして以降、僕達は何度も庭園に通っては花を眺め、取り留めのない話をした。初夏の大手毬、盛夏の向日葵、晩夏のペチュニア、初秋の女郎花、仲秋の銀木犀、晩秋のミセバヤ、初冬の椿……。季節が回るにつれて、自然は次々に違う花を咲かせては散ってゆく。今まで独りで眺めていたその景色を、共に感傷に耽けり、語り合える人がいることが何より幸せだった。咲花さんはいつも明るく、よく笑顔を見せてくれていて、そんな姿に僕は元気をもらっていた。
寒さの厳しい真冬の、雪の降る日のことだ。すっかり日が眠りにつくのは早く、長くなったこの頃、それでも僕は咲花さんに会いに白く染まった道を歩いた。いつもの並木道まで来ると、珍しく咲花さんの方が早く着いている。しかし、遠目から見てもわかるほど今の彼女は萎れていた。何事かと僕は彼女に駆け寄った。
「咲花さん!」
「あ……結斗さん……私……うぅ」
僕が寄ると、ついに彼女の涙腺は決壊してしまう。溢れて止まない涙を抑えようと足掻いていたが、それは叶わなかった。たまに元気がない時もあった彼女だが、最後にはいつもポジティブに振舞っていた。それだけに、彼女が泣き崩れるというのは僕にとっても衝撃的な出来事だった。僕まで動揺しているのを決して知られまいとなんとか踏みとどまり、彼女の情緒が落ち着くのをひたすらに待ち続けた。
「ぁぅ……すみません、はしたないところを……」
「大丈夫ですよ。何か、嫌なことでも……?」
「それが……私、親の都合でもう明日には発たないといけなくて……」
「え……」
「もう結斗さんに、会えなくなるんです……」
頭を殴られたようなショックを受けて、僕は視界が眩むのを感じずにはいられなかった。咲花さんに、もう会えなくなる……。その言葉が僕の頭に反響して離れない。しかし、僕は努めて冷静でいるように振舞った。
「そうなんですか……寂しくなりますね」
「淋しいし悲しいです……折角、結斗さんと仲良くなれたと思ったのに……うぅ」
また涙が溢れ出す。咲花さんは静かに自身の心の内を吐露しだした。
「親はいつも勝手で、私のことなんて考えてないんです。転勤が多くて、あちこち引っ越さなきゃいけないのは、それは仕方の無いことなのかもしれませんが……知らされるのはいつも唐突で、私は最初っから蚊帳の外なんです。そのせいで友達も少なくて……それ以外にも、遊びに行っちゃダメとか、男の人と関わっちゃダメとか……それで私、ずっと女子校に通わされてて……だから、こんなにお話ししたのは本当に結斗さんだけなんです。ここに来るのは、お散歩してるって名目で、親には内緒です。私が反抗できるのもそれくらいなんですが……」
咲花さんの気が済むまで、僕は静かに話を聞いた。今まで知らなかった彼女の悩みを聞くことが出来て嬉しいような気もしたのだが、やはり哀しみや無力感が強かった。僕にできるのは聞き役に回るだけだが、それが彼女のためになるならと真摯に受け止め続けた。
やがて咲花さんは話し疲れて、小さな嗚咽だけを漏らすようになった。何か声をかけるべきなのだろうかとも思ったのだが、僕は沈黙を選んだ。この静寂は僕が壊してはいけないものだって、そんな気がしたから。
しばらくして咲花さんは僕の目を見つめて、何かを躊躇っているようだった。決心が着いたのか、彼女は僕に言った。
「結斗さん……私が自由になったら、絶対戻ってきますから……身勝手な願いですが、それまで、待っていてくれませんか」
いつかのように、彼女は不安と期待が混ざった表情をする。でもそれは、僕にとったら考えるまでもない問いだった。僕はにこりと笑って答える。
「もちろん、いつまでも待ってますよ」
「っ! ありがとうございます……!」
咲花さんは泣き笑いのような表情を浮かべていた。雪が降り続ける中で、ここだけ霽れたような錯覚を思わせる笑顔だった。
咲花さんと会えなくなってからは、また独りで石畳を歩く日々がやってきた。いや、やってきたと言うより、帰ってきたと言うべきかもしれない。咲花さんと一緒に歩いた時間の方が短いはずなのに、やけに静かに思えるのはどうしてだろうか。気付けば僕は高三に進級し、卒業し、大学に入ったかと思えばもう四回生の春が来ていた。僕は今でも、欠かさずにこの場所に通っている。決して、諦めるなんてことは僕にはできなかった。したくなかった。あの日々がどれだけ遠くなっても、今でも鮮明に描き出すことが出来る。彼女と出会った日に見た、桃の花と一緒に。
頭上に咲いた数多の花を眺めながら、いつものように歩みを進める。やがて桃の並木道へと差し掛かると――そこには幾重もの花のアーチが連なった、トンネルのような幻想的な光景が続いていた。両側から伸びた枝が頭上まで覆いかぶさり、一斉に咲いた花は空が見えないほどに春を謳歌していた。陽は幾多の花を通り抜けて、僕の目に届く頃には空間自体が淡い桃色に染まっていた。
まだ冬の名残を感じさせるような、それでいて柔らかい風が吹く。枝は歌って花は舞い、季節外れの小さな吹雪に僕は目を細める。心地の良い音を奏でたこの場限りの重奏はやがて終止線を迎え、静かに幕を下ろした。
ふと、幻想が続く石畳の先を見る。いつからそこにいたのか、いつもは誰もいないはずの光景に、人影が見えた。心臓が高鳴る音が聞こえる。僕の足は早く次の一歩をと求め、それに応えて早足、駆け足へと変わっていった。呼吸が段々と早くなる。
静かに花を眺めているその姿がはっきりと見える距離まで来た。口紅をして以前より大人っぽく見えるその横顔に、僕はいつかの少女の顔を重ねる。立ち止まった僕は滲む視界を拭いて、彼女の方へまた歩みを進める。
僕に気が付いたのか、いつかの少女はこちらを向いて目を丸くした。その頬が桃色に染まって見えるのは、果たして淡い陽が差すこの空間のせいなのだろうか。
彼女はいっぱいに咲いた花のように笑った。
『春の苑 紅にほう 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子』
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