鴉男
@ninomaehajime
序章
休日の代々木公園は騒がしくも穏やかだった。季節は初春で、至るところに桜色がひしめき合っている。上空から
南側には先鋭的な造形の屋根を頂いただく建造物がある。一九六四年の東京オリンピックで使われた国立代々木競技場の第一体育館だ。かつてこの一帯は代々木練兵場と呼ばれ、旧日本陸軍の勇ましい
遠くに目を転じれば、濃緑の森に取り巻かれた明治神宮が見えるだろう。明治天皇皇后両陛下を祭神とする神社で、広大な敷地が代々木公園に隣接している。かつての大戦で焼夷弾による空襲を受け、本殿と拝殿が大きな被害を受けた。復興した今でも、参拝に訪れる人々が絶えない。
数多くの人が行き交うケヤキ並木からイベント広場を一気に飛び越し、渋谷門を抜ける。代々木公園の中央に、大きな広場が設けられていた。水を高く噴き出す噴水地の周辺にはソメイヨシノや山桜などの桜の名所で、家族連れや老人、恋人とおぼしき男女たちの憩いの場となっている。北側にはドッグランと呼ばれる空間があり、さまざまな種類の犬たちが嬉しそうに駆けずり回っていた。
四季によって表情を変える中央広場の北東には、暗褐色の天井を有する休憩舎があった。四方が吹き放ちになっており、複数の柱で支えられた内部にはいくつものベンチが用意されている。最上部には六角形の窓屋根が据えられ、うららかな陽光が差していた。
河津桜で彩られた景色を眺めながら、二人の少女がベンチに腰かけていた。同年代で、おそらくは高校生だろう。片方はノースリーブの淡い水色のワンピースで、よく手入れされた黒髪を伸ばしている。膝の上には麦藁帽子が置かれていた。もう一人は短い髪を染めており、
買い物を楽しんできたのだろう。パルコのロゴが入った紙袋がそれぞれ二個あって、中にはビニールに包まれた新品の衣服が覗いていた。
「疲れたあ」
ベンチの上で仰け反り、茶髪の少女が細い四肢を思い切り伸ばす。もみ上げが揺れ、ふっくらとした耳たぶが垣間見えた。健康的な色をしており、ピアスなどはつけていない。
「でもクレープ美味しかったねえ、
ワンピースの少女が言った。薫と呼ばれた、活発そうな友人に比べて少しおっとりとした性格なのかもしれない。その言葉に、反り返っていた少女が姿勢を戻す。
「ツナクレープがイケたよ。
「ええ、キュウリとかレタスが入ってるんでしょ。デザートとは違うもん」
瞳、というのは黒髪の少女の名前だろうか。彼女たちはこの土地の生まれではない気がした。独自の流行を追いかける渋谷の若者たちに比べ、先鋭的な雰囲気に欠けている。
「あの坂ばっかりの路地、足が疲れたけど楽しかったねえ」
「スペイン坂だっけ。写メいっぱい撮っちゃった」
スペイン坂とは渋谷の毛細血管の一つで、渋谷パルコから井の頭通りへと抜ける坂道だ。長い
地元の人間ならば誰でも知っている場所だ。おそらく渋谷へ観光にやってきた娘たちなのだろう。パルコで流行りの服を買い求め、スペイン坂の景色や食事を楽しみ、井の頭通りを経てこの代々木公園へ辿り着いた。
折り畳みの携帯電話で撮影した街並みを見せ合いながら、交互に感想を述べる。二人の少女は仲睦まじく、きっと無二の友なのだろう。
ひとしきり語り合った少女たちは、ふと口を閉じた。話題の最中で沈黙が訪れるのは、幽霊が通ったからだと言われる。あれは怪談か、都市伝説だったか。
「――来年受験かあ」
薫は先刻とは打って変わって
「瞳は専門学校に行くんだっけ」
「うん、服飾の専門学校。デザイナーに憧れてるんだ」
瞳ははにかみながら答えた。
「知ってる? ここでたまにファッションショーをやってるんだって。いつか私のデザインした服を出せたらいいなあ」
ここ代々木公園では、イベント広場や野外ステージでの催しが不定期に開催される。敗戦後、代々木練兵場は進駐軍に接収され、駐留軍人とその家族が暮らす大規模な施設が造られた。ワシントンハイツと呼ばれ、日本人は立ち入りを禁じられたが、その近代的な暮らしぶりは彼らの価値観に大いに影響を与えた。
東京オリンピックを機に土地が返還された後も、その影響力は色濃く残り、渋谷はファッションの街になったのである。
「夢があっていいねえ。うちなんて地元の大学に行くぐらいしか考えてないよ」
薫は膝の上に両肘を置いて顎を支えた。自然と膨れっ面になる。年相応の悩みに思いを巡らせているのだろう。
広場では父親に連れられた子供がフリスビーを飛ばしている。宙を舞った円形の玩具は回転の勢いで揚力を得て、弧を描いて少年の手に収まる。
「このまま大学に行って、卒業したらどっかの会社に就職して、結婚して……何かつまんないよね」
諦観の眼差しをした親友に、瞳はためらいがちに呼びかける。
「薫ちゃん……」
「あー、この話はやめやめ。せっかく渋谷に来たのに、暗くなっちゃう」
薫は両手を上げて天井を見上げた。陽光を招き入れる六角形の窓屋根に目を細めて、唐突に瞳へと向き直る。
「大学に行ったら目標があるんだ」
「目標?」
「耳に穴を開けるの。ほら、うちの学校ってピアス禁止されてるじゃん」
髪をかきわけ、耳たぶを見せる。いわゆる福耳と呼ばれる、厚みのある形をしていた。
「ええ、耳に穴なんて開けたら白い糸が出ちゃうよ」
「視神経がどうのってやつ? あんた、ほんとにそういうの好きだよねえ」
薫は呆れた表情をした。
耳から白い糸、という都市伝説がある。耳にピアスの穴を開けた少女が、ふと違和感を覚えた。開けたばかりの耳の穴から白い糸らしいものが飛び出ていている。彼女はその糸を指で引っ張った。それが千切れた途端、視界が真っ暗になった。停電かと思ったがそうではなく、少女が切ったのは視神経だったのだ。
無論耳の中に視神経など通っていない。一九八〇年代に流行した都市伝説で、実際には角栓などの皮脂が出たものだと考えられる。当時ピアスは不良がつけるものという偏見が根底にあり、ある種の警告として流布されたのかもしれない。
瞳はそういった都市伝説を信じているらしい。対して薫は懐疑的であり、どちらも間違ってはいない。
都市伝説はときとして、嘘にも真実にもなり得るのだから。
「そういえば、瞳が好きそうな話を仕入れてきたよ」
薫が言った。
「なになに」
「
瞳は怪訝そうに首を傾げた。その際に長い黒髪がこぼれて、薄い耳が見えた。やはりピアスなどはしていない。
「鴉男?」
「そう、鴉の頭をした怪人がいるんだって」
「何それ、初耳」
ワンピースの少女は食いつき、語り手は声音を低くした。
「鴉男はね、空を飛べるの。どこにでもいてどこにでも入りこめるんだ。誰にも気づかれず、一度決めた相手に延々と付き纏うんだってさ」
「それで、付き纏った人をどうするの?」
喉を鳴らす音がした。少し沈黙が下りて、薫は言った。
「何もしないの」
「え?」
「ただ見てるだけ。何もせず、ずっとその人を見てるだけなんだって」
六角形の窓屋根の上を、桜の花びらが飛び越していった。
わずかな静寂が過ぎて、二人は吹き出した。
「何だ、それじゃあただの変質者と変わらないじゃない」
「ほんと馬鹿みたいな噂だよねえ」
ひとしきり少女たちは笑い合った後、代々木公園の広場を遠く眺めた。目線は窓を突き抜けて、青々とした空を振り仰ぐ。
「学校を卒業しても、また遊ぼうねえ」
薫はきょとんとした。
「何、いきなり」
「いいから、約束」
彼女は小指を差し出した。照れ隠しに苦笑いしながら、薫もまた小指を絡めた。
「はいはい、約束ね」
少女たちの他愛のない約束が交わされ、その上空を一羽の黒い鴉が舞う。甲高い鳴き声が尾を引いていた。
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