第218話 年末の館山に行く

 コミケの翌日、雫たちは電車で館山に向かっていた。短い冬休みだ。コミケ初日の翌日30日に行き、年が明けた2日に戻ることになっている。今回も引率は仕事納めを終えた羽海で、前回と違うのはゆうきがいることだ。ボックス席には女子小学生4人が並び、その隣の2人席に羽海が腰掛けている。羽海は今回、完全に引率役になった。なお、羽海の肘の経過はよく、固定は外されている。


「ゆうきはよく来られたな!」


 隣に座るさくらはゆうきの頬を意味不明に突く。


「わたしが行きたいと行ったのも間違いないけど、悠紀がどうしても行きたいって言い張ったから、じゃあわたしも一緒にってところかな」


「大瀧さんは悠紀くんにまた静流さんをとられてしまいましたね」 


「ウチだって行くって行ったんだけど、みんなと一緒に電車で行きなって諭されたから……」


「それが大人の正常な判断ってものよ」


 ボックス席の背もたれ越しに羽海が応えた。


 それは分かる。長距離が得意な悠紀1人ならばともかく、普段体力をつけていない雫が100キロを走って館山まで行くなんて、正気の沙汰ではないからだ。そもそもコミケの疲労が抜けていない。


「あー でも悔しい!」


「時間があるし、トランプでもしよう」


 さくらがトランプを取り出す。羽海が背もたれ越しにのぞき込む。


「たまに混ぜてよね」


「もちろんだよ!」


 3時間ほどの電車旅で館山に到着だ。乗り換えも1回だけ。夏に意気込んでいったのはどこへやら。気楽な電車旅行になった。


 桃華ちゃん家はもう車で一足先に館山に向かい、オートキャンプをするそうだ。初詣のときは合流することになっている。


 そして静流と悠紀、そして美月パパはなんとクロスバイクで館山行きを決断した。静流がいるから途中でへこたれても輪行に切り替えるからどうにでもなるのだろうが、少し心配だ。特に美月パパが。コミケで疲れているはずなのに。静流のように自転車の経験が豊富なわけでも、悠紀のように体力を温存したわけでもないのだ。


「みーちゃんはパパさんが心配じゃないの?」


「まー 大人だから、自分で責任を取るんじゃないでしょうか」


 美月は冷めた目で雫の持つカードから1枚抜き、ペアになったらしく、自分の手持ちを1組減らした。


「むう」


 男の子たちは楽しそうで辛そうな自転車旅。ちょっと心配だが、館山でまた会えるはずだと、雫は考えることにした。


「でもさ。なんで羽海ちゃんはロードバイクを輪行してきてるん? 実家に自転車くらいあるだろ?」


 ふと気になって雫は聞いてみた。


「簡単、簡単。しずるちゃんたちと一緒に館山の神社巡りをしようと思っているからだよ」


「うわっ! ひどい! 静流、ウチらを置いていく気だ!」


 雫は今更ハシゴを外されていることに気づいた。


「まあまあ。お正月くらい、静流さんを自由にさせてあげたら?」


 ゆうきが雫にカードを抜くよう促す。


 そして雫は苦々しい顔をしながらカードを抜いた。


 やっぱり、ジョーカーだった。




 時は少し遡る。


 コミケの帰りの電車の中で、静流は美月パパから相談を受けていた。


「私でも館山までクロスバイクで行けるかな」


「翌日、倒れているのが確定でも良ければ行けますよ」


「試してみたいな――自分を」


 そんな会話があって、足立区からの帰りでも同じように悠紀からも言われて3人で館山に向かうことにした静流だった。北風で、行きは楽だからというのもある。帰りは向かい風がきついから全行程ではないにせよ、輪行しようと考えていた。もしくは桃華ちゃん家の車に乗せて貰うか、だ。


 そんなわけで雫たちが電車に乗るずっと前の早朝の時間帯、外環の交差点で3人は集合した。2人の持ち物は輪行袋と下着の着替え1回分、そして寝袋だ。2人ともキャリアを装着してあるのでそれくらいの荷物は楽に運べる。なお、静流の方は実家なので軽装だ。ただ、1月1日は羽海の誕生日なのでプレゼントはきちんと事前に買ってある。Gショックを買って貰ったのだ。当然、お返しをしないとモヤモヤする。


「さて、2人とも100キロオーバーの自転車旅の始まりです。覚悟はいいですか?」


「はい」


「う、うん」


 美月パパは自ら志願したものの、不安げだった。昨日のコミケの疲れも抜けていないに違いない。


「そういう皆さんのために僕の秘密兵器を使っていただきます」


 そして静流はスポーツ用の擦れ防止クリームを取り出す。


「これを股間に塗るだけでお尻が痛くなくなります!」


「なんとそんな便利アイテムがあったのか!」


「もっと早く教えてくださいよ!」


 そしてすぐ近くの公園の多目的トイレで2人に擦れ防止クリームを塗って貰う。


「寒かった」


「冬ですから」


「サポートパンツを履くって手もあるんですよね?」


「クロスバイクはサドルのクッション性が高いから、別に無くても。やっぱり擦れ防止の方が効くと思うよ」


「そもそもなんでスポーツ自転車はお尻が痛くなるんだい?」


 美月パパがクロスバイクのサドルを見て言った。


「本来、腰を浮かせて走るのが前提だからですよ」


「そんなの長くは続けられないじゃないか」


「正確にはペダルを踏むタイミングで腰を浮かせ続けて体重をペダルにかけ続ける、かな」


「それは高等テクニックですね」


 悠紀はムリムリという顔をする。


「それを可能とすべく世のロードバイク乗りは鍛錬を続けているのです」


 さて、いよいよスタートである。静流、悠紀、美月パパの順番で行く。スタートすると、静流と美月パパは昨日のコミケの疲れを実感してしまったのだが、それは覚悟していたことである。


 静流はあまりやりたくはないが、楽な手段をとる。


 それは国道357号線、いわゆる湾岸道路沿いの国道を走って、時間を稼ぐことだ。北風が背中を押すだけでは無く、車がひっきりなしに追い越していくので、空気の流れができて、それでまた自転車のスピードが乗るのである。


 いつもと違う道で船橋方面に向かい、国道357号線に乗る。道は荒れているし、車は多いし、信号待ちで車はめちゃめちゃ長く列を成すしで、この辺では自転車に乗るには最悪な道路だ。しかし、余分な信号はないし、空気の流れがあるので巡航速度がプラス1~2キロは上乗せされる。


「静流さん~~ これ、いつまで続くんですか!」


 後ろから悠紀の悲鳴が聞こえる。


「幕張までガマンだ!」


 雫は叫ぶ。幕張新都心まで行けば、路側帯がやや広くなる。


「静流くん! 轍にタイヤをとられるー!」


 大型トラックが多いのでアスファルトがうねっているところも少なくないのだ。


「轍を見極めてください! 乗り切れます!」


 こんな強硬ルートは男だけでしか通れない。


 なんとか船橋ららぽーと前の河川橋を登り切り、急坂を下って湾岸道路と京葉線越しにIKEAを右手に、左手に船橋ららぽーとを見る。そして船橋競馬場前の長い渋滞を路側帯をすり抜けていく。競馬場の側なので馬と馬糞の臭いがする。


「船橋競馬場! サトミアマゾン!」


 美月パパはみどりのマキバオーに出てきた競走馬の名前を叫ぶ。昔はマンガを読んでいた口らしい。


 そして船橋競馬場を抜けると、やや道が広くなる。十字路を右手に行けば幕張メッセとマリンスタジアムだが、静流は国道357号線を直進し、すぐに脇道に入る。早速だが一休憩だ。危険な道だったから、初心者2人の集中力を回復させる必要がある。脇道から公園に入り、公園の中を走って行くと広く前が開ける。


「谷津干潟です。日本最初のラムサール条約登録湿地だったかな」


 高速道路と都市の間に広がる水面に少し干潟っぽいものが見える。


 真冬なので越冬のためにやってきた渡り鳥がいっぱい水面に浮かんでいた。渡り鳥にとっては都会の中の安全ゾーンに違いない。水面に朝日が輝いていた。


「あんまりいい評判を聞かないね。夏は水草で一面緑とか」


 美月パパが看板を見ながら言う。看板には野鳥のことが書かれており、その辺のことは説明がない。


「川から泥の流入がないと干潟って成り立ちませんからね。人間が自然のシステムを壊しているいい証拠かと。だから水草が生えてしまったりするんです。三番瀬の方は本当に生きた干潟ですよ、ちゃんと」


 三番瀬というのはもう少し北の方、ディズニーリゾートの東側の水域に今も残る干潟だ。生きている干潟と言えるのは、江戸川放水路から流れてくる泥のお陰で干潟の新陳代謝が行われているためだ。一方、谷津干潟の方は埋め立て地で蓋をされてしまっている。いずれ泥が無くなる運命だ。それでも都会の中に残った貴重な自然を残したい気持ちは痛いほど分かる。


 トイレに行って、再出発になる。


「人間の辛いところですね」


 悠紀が言ったことが、谷津干潟の正しい評価のような気がした静流であった。


 まだスタートしたばかりだ。行程の1割程度しか走っていない。


 静流は2人の体力の残りを想像しながら、メーター読みで時速25キロ巡航を続ける。追い風なので楽々その速度が出てしまうのだが、2人はどうだろう。ちょっと心配になった。


 そして国道357号線と国道14号線が合流し、渋滞が始まる。静流は防音壁の向こう側にある公園に沿った道を走り、渋滞をかわす。すり抜けるのはやはり危ないからだ。


 湾岸道路が東関道ジャンクション方面に曲がり、しばらく国道357号線を進む。埋め立て地を右手に見ながら走って行く。左手は台地になっている。


稲毛浅間いなげせんげん神社!」


 立派な赤い鳥居が左手に見えた。美月パパが聞く。


「浅間神社って、どうしてそんなに浅間あさま山が信仰されてるの?」


浅間あさまって富士山のことですよ!」


「え、そうなの?!」


「浅間って活火山のことなんですよ。当時、富士山は活火山だったから。浅間山は活火山だからそう名前をつけられたわけで、浅間神社と直接の関係は無いんです」


「知らなかったなあ」


 美月パパと悠紀にうんちくを披露しながら、静流たちクロスバイク組は更に南へとペダルを踏むのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る