第172話 満開のコスモス畑と風車と水面と
雫はエレベーターの中に入って、やっと一息つく。大人組と手ぶらの小学生組はエスカレーターだ。エレベーターの床に輪行袋を置く。輪行袋の中のクロスバイクは逆さまなので、サドルとハンドルバーが床につくカタチになる。フレームの三角の下の方を掴み、肩の紐を意識しながら下ろすと無理なく安定する。雫はようやくその置き方のコツを掴んだようだ。
エレベーターが開き、乗り込むご婦人が目を丸くする。エレベーターに乗っているのは輪行している雫と悠紀の2人だけだ。
「ごめんなさい。早く出ます!」
「いいのよ。ぶつけないように気を付けてね」
そしてご婦人はエレベーターのドアが閉まらないように押さえてくれる。
「ありがとうございます!」
悠紀と2人で声を合わせてそう言いつつ、エレベーターから降り、入れ替わりにご婦人が入る。重いクロスバイクをまた床に置き、一息つくとご婦人が言った。
「サイクリングデート楽しんでね」
そしてエレベーターの扉が閉まった。
「デートだと?」
「雫さんと僕がカップルに見えたんでしょうか」
「まあ年格好背格好は似たようなものだからな。だが、不本意だ」
雫は目を細める。どうせなら静流とカップルと言われたい。しかし年齢差を考えるとそれは相当先のことになりそうだ。
「しかし輪行って分かったんですね」
「分かる人には分かるんだなあ」
雫は感心する。自動改札の前で静流たちが待っていた。また輪行袋を持ち上げて、歩き出す。ずっしりくるが、地上まで降りればもう残りは自走だ。あと一息。頑張るしかない。
自動改札を抜け、また置いて一休みし、地上に降りるエレベーターの場所を探す。
「エレベーターこっちだ」
先に行く静流が見つけて、エレベーターのボタンを押してくれる。すぐにエレベーターは地上階から来た。しかし、自分たちの他にエレベーターに乗る人が後から来てしまい、先に待っていたのだからと譲り合いをしてしまったが、普通の乗客さんに先に乗って貰った。
「輪行していると、迷惑を掛けることもあるんだから、普通のお客さんを優先しようね」
静流が注意を促し、雫と悠紀は大きく頷いた。エレベーターが戻ってきて、無事、雫と悠紀は乗れて、地上へ向かう。静流は輪行袋を担いで階段で地上へ行く。
エレベーターを降りたところはいかにも田舎のひなびた駅前ロータリーといった感じで、タクシーが1台待っているだけだった。通行客の邪魔にならずに輪行状態から走れる状態まで戻す作業スペースは余裕で5台分あった。
「しずるちゃん~~ やり方教えて~~」
羽海は梱包を解いて、逆さに置かれたロードバイクから、結んで固定しておいたホイールをもう外していた。手早いことだ。
みんなを集めて、静流は説明を始める。
「前輪は簡単だよね。外すときの逆。はめて、クイックレバーを閉めて、ブレーキを元のようにワイヤーのパーツを引っかける。羽海ちゃんのはレバーだけだけどね。Vブレーキじゃないから」
そして静流は実践してみせる。
「問題は後輪だね。チェーンをスプロケットに掛けないといけないから。でも軍手があればチェーンを持っても手を汚さずに掛けられるから安心」
静流はリアディレイラーを引き、ホイールをはめ、軍手をはめた手でチェーンをスプロケットの1番小さいギアに掛ける。あとはちゃんとホイールがフレームにはまっているか確認して、クイックレバーを締める。
「1人1人やっていこう」
「なるほど」
「わ、お父さん!」
いつの間にか桃華ちゃんのお父さんがホイールをはめる様子をのぞき込んでいた。桃華が驚きの声を上げる。
「お父さん、もういたんだあ?」
「みんな気がついてくれないなんてひどいなあ」
「桃華ちゃんのお父さん、車は?」
静流が周囲を見渡す。
「目の前にあるよ。1人でここまで来て寂しかったのに、せめて探してよ」
確かにロータリーの内側にミニバンが路駐されていた。
「済みませんでした」
一同、桃華ちゃんのお父さんに礼をした。
まずは輪行組からクロスバイクを自転車のカタチに直していき、それが終わってからミニバンから自転車を降ろし、ホイールをはめていく作業を続ける。計10台だ。結構な時間がかかったが、最後の方はやり方を理解した悠紀と美月パパも作業してスピードアップした。こういうのは男の人の方が理解が早いようだ。
桃華ちゃんのお父さんがコインパーキングにミニバンを停め、ようやく印旛沼ポタリングの始まりだ。線路沿いの道から少し国道296号線を走って、すぐ住宅街の中を進む。
10台も連なって走るのは危ないので、チームを2つに分けている。桃華ちゃんのお父さんを先頭にさくらと美月とゆうき、美月パパが
雫はすぐ前を走る静流に聞く。
「これからどこに行くんだ?」
「車通りが少ないところを通ろうと思って。まずサイクリングロードに出る」
走って行くと住宅もまばらな水田の中の未舗装路を走るようになる。途中、用水路の引込口がポイントになっているのか、大勢の釣り人がいるスポットがあり、その後、用水路沿いに走って行くと小さな古い橋があり、印旛沼サイクリングロードに出た。
印旛沼サイクリングロードは印旛沼に沿っているのだろうが、堤防や茂みがあって、印旛沼はまだ見えなかった。しかししばらく進むと並木道になり、木々の間に陽に輝く水面が見えるようになった。
「うわあ。見えたね。朝日に輝いてる」
羽海が声を上げる。始発で来たから、まだ日の出から30分くらいしか経っていない。十分明るいが、まだ朝日だと言える。
右手に稲刈りが終わった後の水田、左手に輝く穏やかな印旛沼の水面を見ながら走る。そして少し走っただけで、風車のシルエットが行く手に見えた。
「やったあ! ホントに風車がある!」
桃華の歓喜の声が後ろから聞こえてくる。まだコスモスの花は見えないが、確かに風車のシルエットが浮かんでいるのが分かる。
「今日は面白くなりそうだな」
雫は独り言を言ってしまった。静流はクロスバイクに不慣れな桃華に配慮して、時速18キロ前後で走っている。慣れれば少し速度を上げるだろう。しかしゆっくり走るのも悪いものではない。周囲の景色を見る余裕がある。早いと前を走る静流のクロスバイクと接触しないか注意しなければならないからだ。
すぐに色とりどりのコスモス畑が見えるようになる。ピンク系の花弁が多いが、黄色や白もある。風車と一緒に咲くコスモスの色彩は本当に絵画のようだ。しかも満開。良い時期に来たものだ。
「これは写真を撮りたくなるなあ」
絵心も写真の心得もない雫がそう思ってしまうほどの美しさだ。コスモス畑が見えるとすぐに風車の前を通る。風車の周りのほぼ全てがコスモス畑だ。
「あれ? 停まらないの?」
静流のクロスバイクは先に行ってしまう。
「自転車置き場はこの先だ」
なるほど。じっくり撮影会をするつもりらしい。まだ朝6時だ。人はほとんどいない。この撮影のことも考えての始発での輪行だったのだろう。
少し先に商業施設があり、まだ開館時間まではかなり時間があったが、自転車のサドルを掛けて停めるタイプのサイクルラックが幾つもあり、使えたので、静流がまずそれにかける。雫も真似してかけ、後に続くが、桃華は自分では掛けられず、また掛けても宙ぶらりんになってしまうので、脇に置いた。後続組も到着した。
「みんな、誰もいないからと言っても鍵は掛けてね。ここに来る自転車の中では安い方だけど、僕らのお財布的にはクロスバイクは安くない」
羽海が聞いた。
「クロスバイクだって安くて6万円くらいじゃん。それより高いってなんなん?」
「羽海ちゃんが乗ってるGIROは30年前のロードバイクだけど、当時で20万円だ。今だと25~30万円クラス? でもここに来るようなロードバイクは100万円を超えても不思議がないのがゴロゴロ」
「マジか」
さくらが目を丸くする。桃華が父親を見上げる。
「お父さん、クロスバイクを買ったばかりなんだからロードバイクはじしゅくしてね」
「釘刺された」
「でも、レースに出なければ、たぶん20万オーバークラスでだいたい満足できますよ。上を見たらきりがないので」
静流が解説を続ける。
「楽器でも20万円くらいからっていうのは偶然かなあ」
美月がそのお値段を聞いて反応する。美月パパは眉をしかめる。
「ピアノはそんなもんじゃきかないけど」
「空手安い」
「空手安いね」
さくらとゆうきが顔を見合わせる。悠紀が自慢げに言う。
「図書館で本を借りるのが僕のメインの趣味だからもっとお金がかからない」
「自炊を工夫するのも、結局食費はかかるわけだから、コスパのいい趣味だよ」
静流が胸を張る。その通りだと雫も思う。
「でもね。やっぱりその先を試したい、知りたい、やってみないと分からないことがあって、1度その先に行った人間にしか分からないことがある。でも実はその先を知っている人間とは、どんな趣味でもなんか、通じるものがあるんだ」
趣味人の桃華ちゃんのお父さんが言うと重みがある。雫は桃華ちゃんのお父さんに頭を下げる。
「おかげさまでカヌーは楽しませていただきました」
「みんなに体験して貰いたい気持ちもある」
「お金かけすぎ~~ 家の中、趣味のものばかり~~」
桃華が不満をぶちまけ、お父さんは苦笑する。
「その点、私は始まったばかりだなあ。仕事と折り合いをつけられる趣味として散歩もクロスバイクもいいバランスだ。健康にも繋がるしね」
美月パパが感慨深げに言い、娘が視線を向ける。
「パパ、少し痩せたよね」
「痩せたよ!」
父子のやりとりを含め、とてもいいことだと雫は思う。
「その先かあ。まだまだあたしには遠いなあ」
さくらが言うと重みがある。空手の道という奴だ。
「だけどさ、普通の小学生と比べたらもうとっくにその先にいるよね、わたしたち」
ゆうきがうんうんと頷く。ゆうきは全国レベルの選手なのだからそれはそうだろう。また、その背中を追いかけるさくらも同じレベルに到達しつつあるらしい。羨ましい話だ。空手オンリーでもダメだと思うが、一つ芯があるのは素晴らしい。
「でもまず~~ 今日は娘の撮影が全てなのだ~~」
桃華ちゃんのお父さんがデジタル一眼を肩から掛けたカメラバッグから取り出す。美月パパと静流も続けてデジタルカメラを取り出す。
「だけど、それはそれでちょっと一休みしましょう。アウトドアテーブルもいっぱいあるし」
静流が提案し、自動販売機で各々飲み物を買ってひと休憩。アウトドアテーブルに着いて、ベンチに座り、コスモス畑と風車を眺める。
「静流……」
「どうしたの、雫ちゃん」
雫は隣に座る静流に声を掛け、静流はコスモス畑から雫に目を向けた。
「ウチ、今日、すごく充実した気がする」
「え、もう? まだ今日は始まったばかりだよ」
「うん。頑張って輪行したから。頑張ったからこの光景が見られるんだもんね」
「そうだよ。頑張ったね。もっと楽しもうね」
静流が雫の頭をポンポンしてくれる。
指切りグローブをしているその手が温かい。
「しずるちゃん、私もポンポンして」
静流の角隣に座る羽海が2人きりの時間に水を差す。雫は静流に頭を向けた羽海を両手で懸命に遮ろうとする。
「NG! NGです!」
「それくらいいいじゃないか」
静流は立ち上がって手を伸ばし、羽海の頭もポンポンする。
「うわああ。ウチの特権がああ」
羽海はにっこり笑い、静流はちょっと苦笑し、雫は半分涙目になったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます