第94話 つむぎの恋
野田市の総合体育館は地方によくある普通の体育館で、観客席もある作りになっていた。雫は観客席につむぎ達の姿を探したが、まだ到着していない様子だ。大会は始まっておらず、丸い輪が描かれたレスリング用のマットが設置されたその上で、参加選手が軽くスパーリングをしたり、ストレッチをしていたりと、緊張がはらむ中、準備をしていた。
特段意識もせず、観客席の中央辺りに陣取り、スマホでアマレスのルールを確認する。検索すると日本オリンピック委員会のページが真っ先に出てくる。
『試合は直径9mの円形マットの上で行われます。 現在のルールは、3分間x2ピリオドで、間に30秒のインターバルがあります。 相手を組み伏せて両肩を同時に1秒間マットの上につけると勝ちとなり、試合は終了します。』
中学生は2分間x2だと静流が言っていた。敷かれているマットの円が9メートルということだ。あとポイントもあり、8点差がつくとテクニカル勝ちになるらしい。
「空手の方が簡単だな」
さくらがスマホをのぞき込んで言う。
「それはさくらちゃんが空手のルールを熟知しているからだよ」
「そうかもしれない。けど、他の格闘技を見るのはきっとモチベーションアップになると思うな」
さくらはすごく前向きだった。ここまでクロスバイクで走ってきた静流はさっそくお弁当を食べている。梅酢を混ぜたわかめおにぎりだ。暑いので食中毒予防だそうだ。
9時半過ぎにつむぎ達がやってきて、雫たちに声をかけた。
「雫ちゃんたちも来てくれたんだ」
つむぎが来て、雫の手を取った。後ろに美月と蒼、瑠璃の姿もある。そして運転してきた叔父の疲れた顔が見えて、雫は小さく頭を下げた。
「お疲れ様です。叔父さんはつむぎちゃんに甘いですね」
静流が叔父を出迎える。叔父は苦笑する。
「コスプレイベントぶり。今日も運転手だよ。まあここは冷房が効いているからいいけど。外でコスプレイベントとかだったら死んじゃうよね」
それくらい外は暑い。蒼と瑠璃も雫たちに挨拶する。さくらが2人に声をかける。
「お久しぶり! っても練習しているのは毎週堤防の上から見てるけど」
「大坂さんだったね。空手の女の子」
「正解です」
「よくこんな遠くまで来たね」
瑠璃が不思議そうな顔をしてさくらに聞いた。
「他の格闘技を見てモチベーションを上げようと思って」
「なるほど~~」
蒼と瑠璃は感心して言う。
それぞれ席を確保して、大会の開始を待つ。
沢田は65キロ級に出場。身長は180センチあり、アマレスの中学生選手の中では期待されている方だとつむぎが解説する。ジムごとに分かれてウォーミングアップしているので、つむぎにどこにいるのか教えて貰うと、体育館の一角を陣取る人数が多いジムの方を指さした。ひときわ大きい男の子が沢田らしかった。美月からはつむぎが好きな男子だと聞いていた。格闘技好きだとは聞いていたが、好きになる男の子までアマレス選手だとは思わなかった。
「沢田くん、大丈夫かな」
「減量、きつかったって言ってたもんね」
蒼と瑠璃の会話が聞こえて、雫とさくらは振り返る。
「お2人のクラスメイトなんですか?」
「4人とも同じクラスだよ。沢田は校内でも有名人だ」
蒼が応え、瑠璃が続ける。
「全国で去年、ベスト4に残ったんだよ」
「もしかしてそれって凄い?」
雫は驚きを隠さずに聞き、蒼が答える。
「とても。少なくともこの中で優勝しないとならないくらい強い」
「しないとならない?」
さくらが聞き返すと今度は瑠璃が答える。
「アマレス強豪校の推薦がかかっているからね」
「だから2人とも応援に来ているんですね」
雫は納得する。進路をかけた大事な大会ならこんな遠くても応援にも来るだろう。つむぎは静かだ。そしてその傍らに寄り添う美月も静かだ。
「叔父さん、心配でしょう」
つむぎに聞こえないように静流が叔父に声をかける。
「いくら男親が鈍いからってさすがに分かるよ。まあ、どんな男の子が想像がつく分、逆にありがたいよね」
「おお、叔父さん、理解ある」
雫は思わず感嘆して小さく拍手してしまう。
「チャラいよく分からない子がウチの子の相手になることはないと思ってはいたけど、まさかここまで突き詰めた男の子だとは。夢にも思わなかった」
「叔父さんにとっていいこと?」
「努力を知らない人間より、知っている人間の方が人生が深いからね」
「叔父さん、格好いい」
静流は叔父を持ち上げる。瑠璃が蒼に言う。
「だって。いいこと聞いたね」
「がんばります。がんばりますよ」
蒼に瑠璃が勉強を教えて、成績が上がってきたようなことをつむぎが言っていたことを雫は思い出す。そう考えると自分の周りには頑張っている人が多いなと思う。シングルマザーで頑張る母を筆頭に、知っている人はみんな頑張っている。一番弱音を吐いているのが羽海ちゃん先生というのが可笑しいが。
開会式が始まり、ジムの代表として沢田が宣誓する。名前を最後に言っていたので間違いない。なるほど、そこらには絶対いない、いい男だ。
「悩ましいところだ。応援したいが応援すると進路が……」
叔父が苦しそうな表情で言うので静流が聞く。
「どうしたんです?」
「つむぎが私立の特待生制度で行きたい学校があるって言い出していて、調べるとアマレスが盛んな学校なんだよ」
「つながりますね」
「親としては公立の進学校に行って欲しいんだけど。公立は無償化してるし、その方が通学も楽だし。特待生で無料になっても成績を維持しないとならないプレッシャーとか絶対にあるだろうからね」
つむぎが応援に来るわけだと納得する。自分の進路も決めるつもりなのだ。少し離れたところに座るつむぎの顔には焦燥感が浮かんでいる。そして一緒にいる美月も心配している。つきあいは浅いはずなのにつむぎと美月はかなり仲がいい様子だった。雫たちと一緒に遊んでいないときに、もしかしたらコスプレ系のことで会っているのかもしれない。
開会式が終わりるとすぐに試合が始まったが、65キロ級の開始までは、まだ少し時間があった。沢田は観客席までやってきて、応援しにきた蒼達にあいさつをした。
「まさか本当に来てくれるとは思わなかったぜ」
「君には世話になった。見ていて何ができるでもないけれど、見守らせてよ」
蒼が拳を突き出し、沢田と拳を合わせる。瑠璃も頷く。しかししずくの方には目を向けるだけだった。そして叔父に目を向け、彼はなんとなく分かった顔をしてしずくに言った。
「委員長も来てくれてありがとうな」
「今日はアマレスを勉強させて貰います」
「俺程度のアマレスを見て何かわかるでもないと思うけど」
そして叔父さんに向き直り、しっかりと礼をして去って行った。
「いいじゃん」
さくらが雫に同意を求める。
「さくらちゃん、丁寧で礼儀正しい人、好きだよね」
「武道家なので」
静流も年下の雫たちにも丁寧だから、さくらは好きになったのだろう。
軽量級から試合が始まり、静流とさくらは食い入るように見る。
「動画でアマレスの試合を見てきたけど生は面白いなあ」
「ポイントとか分かったらもっと面白いだろうな」
さくらもすっかり夢中だ。
「場外1点、バックをとって回転させて2点、立ち投げ4点、座った状態の投げで5点。だいたいだけど」
静流がスマホを読み上げる。ポイントのシステムを理解した上で見るとどういう流れをお互いに作ろうとしているのか分かってくるので面白くなってくる。ポイントを取られても形勢が不利ならあえてペナルティがついても脱出することもあるようだ。ルールは複雑だが、オリンピックの第1回からある種目というのも頷ける奥深さだ。ニュースでも取り上げられることが多いように、日本のアマチュアレスリングは強い。
あらかた目がレスリングに慣れたところで65キロ級が始まる。幸い、観客席の真下のレスリングマットが65キロ級の競技場所だった。プリントされたトーナメント表を見ると決勝戦まで4回戦あるが、昨年優勝した沢田はシードなので3回戦うことになっている。
1回戦がさくさく進み、2回戦になって沢田が登場する。沢田の試合が始まるとつむぎの顔に緊張の色が浮かぶ。しかし開始早々、沢田が立ちから相手を投げ、ポイント優勢になる。そして更に相手が逃げて1点。バックをとって転がして2点。そしてバックから投げてインターバル前にテクニカルフォールを決めた。さくらが驚きの声を上げる。
「沢田さん、マジで強い!」
「全国ベスト4は伊達じゃないね」
静流は全く知らなかったアマレスを十分楽しんでいるようだった。
「つむぎちゃん、大丈夫だよ」
離れたところに座るつむぎに雫は声をかける。つむぎは少し間を開けてから答える。
「そうならいいんだけど」
大人の試合よりも時間が短いので、中学生の大会はさくさく進み、沢田は準決勝も快勝した。そして休憩時間をおいたあと、決勝戦となった。
相手も決勝に上がってくるだけあって強かったが、試合の流れは沢田が握っている感じで進んだ。30秒のインターバルの後、2ピリオド目が始まるが、組み合っている最中に審判が試合を止めた。
「出血だ」
さくらは見るところがやはり違う。沢田が額の上をカットしてハンカチで血を止めようとしている。沢田は場外に出てジムのサポーターの治療を受けるが、つむぎは心配そうだ。美月が声をかけている。
「大丈夫、止まりますよ、きっと」
「うん、うん……」
「そうか。出血を5分で止められないと負けになっちゃうんだ」
静流がスマホで調べていた。さくらが小さな声で言う。
「空手より厳しいな」
幸い、止まり、試合が再開するが、再出血すると試合中止でその場のポイントで勝敗が決まる。雫は息をのみ、試合の行く末を見守る。
「急がないとだけど、それは相手も分かってるよね」
「沢田くん、落ち着いてるよ」
蒼が言うとおり、焦った様子はない。むしろ静かに、動作の1つ1つを確実にこなしているように見える。おそらく出血など普通にあることに違いない。終了時間間際、沢田がバックから捻り、ポイントをとり、そのまま試合が終わった。
無事65キロ級で優勝し、沢田はハンカチで額を抑えながらジムの仲間のもとに戻っていった。
「無事終わった~~」
へなへなとつむぎが脱力し、前の背もたれにうつ伏せ、美月が声をかけた。
「よかったですね」
後ろに座る蒼と瑠璃も安堵した表情を浮かべていた。一時はどうなることかと思ったが、終わってみれば沢田はきっちり優勝していた。
「さて、帰るかな」
静流が席から立ち上がった。
「まだお弁当、食べてないよ」
「そっか。外のベンチで食べよう。日陰なら大丈夫だよ」
「そうだね」
さくらと雫、そして静流は皆より一足先に帰り支度をする。
「今日はきてくれてありがとう」
美月が駆け寄ってくる。雫は済まなそうな顔をしている美月に言う。
「いやいや。いいものが見られたよ」
「うん。モチベアップした」
さくらも心からそう言っているようだった。
皆に別れを告げ、雫たち3人は体育館を後にする。
「いろいろな世界があるね」
雫は2人に言う。さくらが応える。
「自分の世界に閉じこもっていたらダメってことだろ?」
「そのとおりだね。じゃあ、お弁当を食べて帰ろう」
「静流は帰りも自転車?」
「熱中症になりそうなくらい暑いし、向かい風が辛いから帰りは一緒。輪行して帰るよ」
「やったー」
さくらと雫は声を合わせて喜ぶ。
そして日陰のベンチで3人でおにぎりを食べてから、クロスバイクを輪行できるようにして、帰りの電車に乗り込んだのだった。
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