ルックアップ
朋峰
ルックアップ
失恋の二文字で、こんな風に身体にぽっかり穴が開くものだとは思わなかった。
だってたくさんの人と付き合って、別れて来たけど、こんな風に体から力が抜けることなんて今までなかった。
こんなに悲しくなかったし、痛くもなかった。そりゃそうか。来る者拒まず、去る者追わず、で今までやって来たんだから。
つまり、それだけ惚れてたってことになってしまうんだろうか。それはそれで悔しくなり、認めたくない気がする。
ぐるぐる考えながら公園の芝生の端で膝を抱えてうずくまっていると、声をかけられた。
「おい、アホ」
「…………」
偉そうな口調の、エセ関西弁っぽいイントネーション。誰かは分かっているから、返事もせずに、むっつり黙っていた。
「返事せぇや」
ガスっと頭を蹴られた。そんなに痛くはなかったが、あまりのことに頭を抑えながら顔を上げる。
「なにすんだよっ」
吠えるようにそう言って振り返ると、どれくらいブリーチをして色を抜いたのか気になる金髪の女が一人、偉そうに立っていた。
態度はでかいし、目つきも悪いのでよく子供に泣かれるのを、あたしは知っている。なぜなら目つきの悪い彼女とあたしは、長い付き合いだ。
あたしは二十歳、彼女は三十。十もの年の差のあたしたちの関係は、微妙な距離感にある。先輩後輩という、きちっとした関係じゃない。かといって、仲のいい姉妹じゃない。一番しっくりくるのは、まあ、腐れ縁からきている友達というところだ。だからタメ口だって聞いちゃうし、軽口だって、悪口だって言い合う。
「てゆーか、なに。うるさいんだけど」
「アンタ、何て顔してんの」
「うるせえよ、エセ関西弁」
「エセっていうな」
「エセのくせに」
こんな罵りあいはいつものことだった。あたしと彼女の、毎日の生活習慣の一つに組みこまれていることなのだ。
「失恋したんか、ガキ」
「ガキいうな。ほっとけよ」
「アホ。アンタの母さん心配してんで」
「二十歳になってまで、母親でてくんのかよー」
「不倫じゃしょうがないやん」
確かにそうだけど。
頭を抱え込んだあたしに、あっさりと言ってのけた彼女。そんな彼女と同い年の男に、あたしは惚れこんだ。んでもって、今日。
終りにしようと、言われた。
「だっさいなー。ふられんなや。女ならふったれよ」
「うるせー」
あたしの隣にのそのそと座ってくる嫌なやつ。あたしは公園で遊んでいる子供たちを見つめていた。
しばらくして、しゅっと音が聞こえて隣に視線を向けると、彼女が煙草に火をつけていた。それに眉をひそめる。
「ここ禁煙だろーが」
「ええやん。うまいで」
なにも良くない。さすが元不良。素行の悪さはもう三十になるというのにバカな大人だ。こういうところが本当に嫌いだ。周りの迷惑をまったく気にせず、自分の好きなことを突き通すところ。
煙を吐き出して、にんまり笑う彼女に眉をひそめて、その口元から煙草を奪い取った。彼女は未成年の頃からずっと吸っているから、きっと肺は真っ黒だ。
「返せや、アホ」
「うるせえ、バカ。やめとけよ」
地面に押し付けて煙草の火を消すと、舌打ちが聞こえてきた。
「そんないい子ぶってんなら、不倫なんてやめとけばいいのに。アホ」
「黙ってろよ。だいたいそんなに毎日バカスカ吸ってたら体悪くして死ぬぞ」
「そんときゃ、そん時だ。アンタも道連れにしたる」
「誰が一緒に逝くかバカ」
「バカ言うな。アホ」
「アホ言うな、キングオブバカ」
「ならあんたはキングオブアホや」
キングオブバカは、ポケットから二つの缶コーヒーを出して、おごったるわ、とあたしに渡してくれた。
「どーも。百二十円の安い同情」
まだ温かな体温を保っている缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。苦い。無糖だった。あたしの好みを熟知しているくせに。
これは、嫌がらせだろうか。ちらりと彼女の方を見ると、砂糖入りを飲んでいる。なるほど、嫌がらせだ。しかし飲めない、なんて言ったらバカにされること必然だ。仕方なく無言でコーヒーを啜って、手に持ったままだった煙草を押し付けた。
「ゴミ」
顔をしかめると、彼女がせせら笑った。
「消したのアンタやん。自分で処理してくださーい」
「お前が吸ってたんだろうが。だいたいちゃんとしたところで吸えよ」
「言ったやん、道連れて。だからあんたの隣で吸おうと思ってな」
殴りたくなった。缶コーヒーを投げつけたい。だからといって、ここでキレても大人気ない。
「別のとこで吸えよ。煙草なんか嫌いだ。メンソールなんか、だいっ嫌いだ」
「ええやん。なんならキスしたろかー?」
にやにや、嫌な笑いを浮かべてくる。あたしの元相手が、メンソールを吸っていたと、知っていて。
「うるせえ、バカ!」
「怒るなって。冗談やって」
「わーってるよ」
「乱暴な言葉遣いやな。だから嫌われたんとちゃう?」
あたしは乱暴に彼女の胸倉を掴み、乱暴にキスをした。驚いている彼女の表情。薄い彼女の唇。彼女の手元から転がる缶コーヒー。何もかもが、バカみてえ。
「…………」
「……バーカ」
呆然としている彼女にそう舌を出して、一気にコーヒーを飲み干した。口の中に広がるなんとも言えない苦味と一緒に喉の辺りに突っかかっていた嫌なものが何かわからないまま、あたしの腹の中へと落ちていく。それから、空になった缶コーヒーを、ゴミ箱に思い切り投げた。がん、って音がして、きれいにゴミ箱におさまる。ちくしょう、あたしもカラッポだよ。
あたしの体も、あんな風にゴミ箱に捨てられたらいいのに。
「……おい、アホ」
「なんだよ」
振り向くと、彼女はようやく平静を取り戻したのか、手の甲で唇を覆っていた。
「失恋ぐらいでうじうじすんな」
「してねぇよ、バカ」
「してんやろ」
いつの間にか彼女は二本目の煙草を吸っていて。あたしはさらにそれに苛ついて。
「なにが、あいつが大切だ、だよ」
だったら最初から不倫なんてしなけりゃいい。バカバカしい。
「バカだ。どいつもこいつも」
「せやな。でも、あんたが一番アホや」
ゆっくり言われてしまった言葉に、ゆっくり深呼吸して、それを受け取った。
「……わかってるよ」
わかってる。わかりすぎている。だから腹立たしい。
芝生に寝転がった。仰向けに、空を見る。青が眩しすぎて、目を細めてしまう。
「ちくしょー……」
「……なあ。アホ」
「なんだよ」
あたしが彼女の綺麗な横顔を見上げると、彼女は唐突に、とんでもないことを口にした。
「……アタシ、結婚するわ」
突然すぎることに、あたしは目を瞑った。
どうして彼女が今、そのことを報告してきたのかを考えた。そして同時に頭がくらくらして、なんともいえない感情があたしを包み込んだ。嫉妬や羨望なんて単純なものとは違う、もっと複雑な何か。けれど、そんな感情の名前なんか、考えるのがバカらしくなり、あたしは考えるのをやめた。どうでもいいことだ。そうして彼女がなぜ今、それを報告してきたのかも、またどうでもいいのだ。素直に事実を受け止めるしかない。彼女のことも、彼のことも。仕方がない。
そうだ、何か軽口でもたたいてやろう。
そう思って目を開けたとき、あたしの目に飛び込んできたのは、バカの眩しい金髪。思わず、それに力が抜けて、彼女の言葉を繰り返すことしか出来なかった。でもなんだか、それで良い気がした。
「そう。結婚」
「……アタシ、バカか?」
彼女があたしの方に少し寂しそうな顔を向けてきた。それに居たたまれなくなって、あたしは横になって顔をそらした。
「……知るかよ」
「アンタ見てたら、アタシ、バカみたいやわ」
なにも言えなくて。でも、何か言わなくちゃいけなくて。だから、日常に組み込まれているいつもの軽口を叩いた。
「大丈夫じゃん。元からバカだし。キングオブバカだし」
笑ってやると、彼女は溜息と一緒に地面に落ちた缶コーヒーを拾った。酷く美しい動作で、あたしはそれに目を細める。
「相手、いい人だといいね」
「アタシが選んだ男やで。ええ男じゃないわけないやん」
ふふんと得意げに鼻を鳴らした彼女。憎らしい笑顔だったので、あたしは体を起こす。
「人見る目ないくせに」
「なんやと」
ぼそっと言ってやると、彼女が睨んできた。目つきが悪いので、怖さは半端じゃない。あたしは体を起こして、ポケットを探った。
「――ま、お幸せに。ほい」
チロルチョコを一個。いつ買ったのかも分からない、ポケットに入っていたもの。多少形が崩れている気がしないでもないが、まあきっと、このバカは受け取ってくれる。
「安いなー。あんたは十円かよ」
「いーじゃん。そんな変わらんって」
「アホ」
うるせえ、バカ。人が失恋してる時に、結婚報告なんて。
嬉しすぎるぞ、バカ野郎。
「失恋なんて、何度もあるやろ」
「知ってる」
知ってるんだ、本当は。知りすぎていて、けれど納得がいかないもんなんだ。
「あー、バカみてえ」
そう呟いて、空を見上げた。やっぱり青は目に沁みて、心が痛い。
「……バカでもええわ」
彼女の優しい囁きのような言葉が、耳に届いた。それは彼女自身に言い聞かせているようで、けれど結局、あたしに言い聞かせているのだ。
だからあたしは俯いて、彼女に背を向けた。
「そうかもね」
目を瞑って、素直に出てきた涙を受け止める。
零れたばかりの涙は、ほっとするほど温かかった。
ルックアップ 朋峰 @tomomine
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