私のミルヒライス
第一話
「好きなことをして認められたのに、そんな詰まらないことで悩むなんて、はっきり言って贅沢だと思う」
学生や仕事帰りの人々でにぎわう店内で、
人々は自分のことに夢中で、こちらのことなど気にしていないはずなのに、真央が話した瞬間静寂に包まれ、彼女の声が店内に響いたような錯覚を感じる。
早鐘を打つ心臓を落ち着け、長い前髪越しに周囲の様子をうかがう。やはり、周りの人は誰も穂乃果たちを見ていない。
「新商品のPR任されるなんて、凄いじゃん! さすがユッキ!」
「使い心地どうだったか教えてね。良さそうなら、あたしも買ってみるから」
隣の席に座る女子高生たちの会話が漏れ聞こえてくる。ユッキと呼ばれた女の子は華やかな美少女で、自然と周囲の目を引き付けていた。
彼女のように目立つ人の隣にいれば、当然のように穂乃果など誰からも見向きもされない。容姿はいたって平凡で、ペンネームさえ出さなければ注目を集めることなどない。
それが分かっているのに、どうしても人の視線が気になってしまう。
「結局はさ、穂乃果がどうしたいのかじゃないの? いつまでも返事を保留にしておくわけにもいかないんでしょう? 出来ないなら出来ない、やりたくないならやりたくないってはっきり言えば良いんだよ。もう大人なんだしさ、自分で考えられるでしょう?」
「……うん……そう……だよね。真央ちゃんの言う通りだよ」
ヘラリと無理に笑い、もうこの話はおしまいというかのように、ケーキ皿に残っていた最後の一口をフォークで突き刺す。
温かくサクサクだったアップルパイはとうに冷めており、水分を吸った生地はふにゃふにゃとしていた。
もともと今日は、穂乃果のお祝いをするために真央から誘われて来たのだ。
初めて書いた小説が大きなコンテストで賞をもらい、無事に出版されたそのお祝いだった。
数か月前に出産したばかりで忙しいながらも、今日は実家から母親が来て代わりに見てくれるからと、特別に時間を取ってくれた。
受賞の際も、本になると報告した際も、真央はとても喜んでくれた。SNSには可愛いスタンプがたくさん送られてきて、発売日に買うからサインをお願いねと頼まれていた。
今、真央の鞄の中にはサイン本の第一号がある。
数日悩みぬいて決めたサインを初めて書いて渡したとき、彼女の表情は真顔だった。
会った瞬間から、真央の様子がおかしいことには気づいていた。
彼女の自慢だった腰まである美しいロングヘアーは、肩口で切りそろえられていた。毎月美容室でトリートメントをしてもらい艶々だった髪も、かなり痛んで見えた。
目の下には濃いクマが浮かび、いつもお洒落だった爪も短く切られている。お化粧も最低限のファンデーションと口紅を塗っただけで、質素だった。
「息子が眠らない子でね。長くても一時間くらいで起きて泣くのよ。昼も夜も眠れてなくて」
「そんな大変な時に……お祝いなんて、良かったのに……」
「でも、穂乃果の初出版のお祝いは今しかできないでしょう? 忙しくて本自体は全然読めてないんだけど、評判は聞いてるよ。きっとすぐに次が出ちゃうでしょう?」
そんな流れから、穂乃果は今自分が抱えている問題を真央に告げたところ、贅沢だと叱責されてしまったのだ。
「そう言えば、
「あ、うん。そうだね。絵美ちゃんと幸奈ちゃんも会いたいって言ってくれてはいるんだけど、予定が全然合わなくて」
「絵美は営業であちこち飛び回ってるみたいだからね。地元に戻ってきたタイミングでなら、会えるかもしれないね。幸奈は今ドイツにいるんだっけ?」
「みたい。日本に帰ってくるのは来年かもって言ってた」
「そっか。幸奈と全然会ってないから、私も会いたいんだけどなあ。幸奈、新規オープンのヨーロッパ店任されるんでしょう? 結構プレッシャーが凄いみたいで、たまに変な時間に電話かかってくるときあるんだよね。……それにしても、幸奈が海外で仕事してるって、ちょっと面白いよね」
「英語、苦手だったもんね」
顔を見合わせ、クスクスと笑いあう。
「私は日本から出ないんだから、英語なんて必要ないんだ! って、赤点取るたびに言ってたのにね」
「でも、ドイツはドイツ語だから」
「よっぽど難しそうだけどね、ドイツ語のほうが」
真央が、カップに残っていたハーブティーを飲む。コーヒーが大好きで、いつも喫茶店に入るとホットコーヒーを頼んでいた真央だったが、今は授乳中のためカフェインは控えていると言っていた。
そんな彼女の前でコーヒーを飲むのは躊躇われて、今日は穂乃果も彼女に合わせてハーブティーを選んだ。独特な草の味は漢方薬のようで、飲み慣れなさと相まってまだカップに半分ほど残っている。
「絵美もさ、人見知りで初対面の人と話すの苦手だったのに、まさか営業につくとは思わなかったよね」
「でも絵美ちゃん、話し上手だから」
「知り合いになっちゃえば絵美のペースになるんだろうけど、そこに行くまではまだ苦手意識があるって言ってたよ。……みんな、頑張ってるんだよね。私も頑張らないと」
自分に活を入れるように、真央が軽く頬を叩くと腕時計に視線を落とした。
いつの間にか、別れの時間が迫ってきていた。
穂乃果が急いでハーブティーを飲み干して席を立てば、真央もゆっくりと立ち上がり、足元に置いていた鞄を肩にかけた。
「色々あるとは思うけどさ、頑張ろうね。私も、穂乃果も」
みんな頑張ってるんだからさ。
そう言いたげな真央の顔に、穂乃果はただ頷くことしかできなかった。
そう、みんな頑張っているのだ。苦手なことも、大変なことも、歯を食いしばって我慢しながら乗り越えている。
(だから、私も頑張らないと)
心の中でそう呟いたとき、胃のあたりがキリリと痛んだ。
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