第七話

 少し失礼するわねと言って、男性が外に出て行く。どこかに電話をかけている様子が、扉にはめ込まれたガラス越しに見えた。

 すでに空調は戻っており、室内はほっとするような暖かさだった。

 椅子にちょこんと座り、暫くキョロキョロと本棚を見上げた後で、男性の背中に視線を向ける。

 微かに声が聞こえてくるが、何と言っているのかまでは聞き取れない。時折、楽しそうな笑い声が響いてきていた。


「ごめんなさい、つい話し込んじゃって。お待たせ」


 上機嫌な様子でそう言いながら戻ってきた男性が、右奥の本棚に近づくと、大型本の中から薄型のノートパソコンを取り出した。


(あんなノートパソコン、あったっけ?)


 男性を待っている間、ひとしきり本棚を眺めていたはずなのだが、ノートパソコンがあったという記憶はない。かなり薄いため、見逃していたのかもしれないが。

 十夜の前にノートパソコンを置き、手慣れた様子で立ち上げるとキーボードをカタカタと叩いた。


「千早ちゃんから、お金は後で払いますって言われてたんだけど、今回は無料で良いって伝えといてくれる? 私が伝えても良いんだけど、十夜君から伝えてもらったほうが良いと思うのよね」

「無料……?」

「そう。先方が今回は必要ないって言ってきてね。なんでも、処理の関係で面倒くさいからって。本当は作者さんに還元したいところなんだけど、それで手間をかけさせても悪いし、ご厚意に甘えようと思ってね」


 視線を画面に固定したまま、男性が十夜には理解できないことを早口でまくし立てる。その目は激しく動いており、いつの間にか右手に握られていたマウスホイールをクルクルと回し、クリックを連打していた。


「ところで十夜君、お腹は空いてる?」

「はい、結構」

「良かった。それなら作り甲斐があるわね。もうちょっと待ってね。一度読んだことのある話じゃないと、どこに何があるのか分からないし、上手く材料の味を引き出すことができないから」

「……もしかして、今読んでるんですか?」

「そうよ。ごめんね、時間がかかって。あともう一作で終わるから」

「あと一作って、受賞作全部読んでるんですか!?」

「当たり前でしょう、全部読まなきゃどこに何があるのか分からないじゃない」


 今回の受賞作は五十作品ほどあった。

 一万字未満の短編も二作ほど受賞していたものの、他は十万字を超えていた。大賞受賞作は百万字を超える大長編で、”彼女”の話も三十万字はあった。それ以外の話も、五十万字超えの大作が何作もあったはずだ。それを、こんな短時間で読み切るなんて、速読どころの話ではない。


「はい、終わったわ。お待たせ」


 一仕事終えた顔で男性が微笑み、考え込むように右手を頬に当てるとブツブツと独り言をつぶやく。


「どうせなら、少しずつ食材を集めたほうが良いわよね。でも、一品にたくさん材料を使っても味が混ざってしまうし……旅館みたいなお料理にするのも良いけど、ファンタジーが多かったのよね。なら、洋食のほうが合う気がするし……」


 片頬に手を当てて斜め上を見ていた男性が、閃いたと言うように顔を輝かせるとポンを手を打った。


「フレンチのフルコースにしましょう!」

「ふ、ふ、フレンチ!? 俺、食べ方とかわからないですよ!?」

「やあね、別に食べ方なんて気にしなくて良いわよ。高級フレンチレストランならいざ知らず、ここは食堂なのよ。フルコースって言ってもあくまで風よ、フレンチのフルコース風! それに、私と十夜君以外誰もいないんだから、美味しく食べられればそれで良いのよ」


 男性がノートパソコンの画面を撫でると、ペラリと文章が剥がれ落ちて宙に浮かんだ。


【ガイナは、どこまでも広がるブランエグノーの果樹園を見下ろした】


 ブランエグノーの文字を撫でると、艶やかな丸い粒がたくさんついた果実へと変わった。一見すると白ブドウのようだが、十夜が知っているブドウよりも粒が二回りほど小さく、一房が三倍ほどあった。


「樽はそうね、オーク樽があったはずよね。ブランデーに似たお酒も確かあったから……」


【咄嗟に隠れたオーク樽が、アビゲイルの一撃を防いだ】

【注がれたばかりのブランドロンをエリシアの前に置けば、琥珀色の液体が波打ち、芳醇な香りがあたりに広がった】


 文字が物へと姿を変え、オーク樽とブランドロンが空中に浮かび上がる。ほのかに赤味がかった茶色の液体からは、強烈なアルコールの香りが漂ってきていた。


「時間に関しては“転生したら性悪聖女のメイドでしたが、今から改心させますのでどうか処刑エンドだけは勘弁してください!”の主人公エミリアちゃんが時を操る魔法を使えたはずだから……」

「ちょっと待ってください、今なにを作ろうとしてるんですか?!」


 十夜の視線が琥珀色の液体に注がれる。男性がブランデーに似たお酒と言っていたのは、きっとあれのことだろう。


「何って、アペリティフだけど?」

「あぺ……なんですか?」

「アペリティフ。シェリー酒にしようと思って。もっとも、シェリー酒って言っても産地もブドウの品種も……」

「シェリー酒って、お酒ですよね?」

「えぇ、そうよ。アペリティフは食前酒のことだもの」


 それが何か? と小首をかしげる男性は、フルコースを作ることに全力を注いでいるため、十夜のことを忘れてしまったようだった。


「あの……俺、十代です。まだお酒、飲めないんですよ」


 おずおずと言えば、男性がピシリと固まった。呼吸すらも忘れてしまったかのように固まった後、数度瞬きをすると見る見るうちに頬が赤く染まった。


「そ、そうだったわね。うん、そうよね、十夜君高校生だものね、お酒はダメよね!」


 茹でだこのように顔を真っ赤にしながら、空中に浮かんでいた三点を指でつつく。

 文字へと戻ったは暫し宙を漂った後で、ボロボロに崩れてなくなってしまった。

 部屋に充満していたアルコールの香りも、ブランドロンが文字へと戻ったころからにおわなくなっていた。


「ごめんなさいね、すっかり忘れてたわ。オードブルから作るわね」


 いまだに顔を赤くしたままの男性が、火照った頬を冷やすように両手で包み込む。

 今はまだ早いが、いつか十夜が大人になってお酒の味がわかるようになったなら、先ほど男性が作りかけたシェリー酒を飲んでみたいと思った。

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