第57話 鏡の前で(3)
ボクはそれから、鏡に向かって顔を近づける。
吐息で鏡が曇るぐらいの所で、前髪のあたりを、落とし物を探すみたいにかき分ける。
そう云えば。
ボクは、黒髪である。
麗しき上流階級のお姫様なんかは、絹糸のようなブロンドをさらさら風になびかせる(イメージ画像提供:女モンク)。一方で、ゴミ捨て場を漁りながら、大雨にずぶ濡れているカラスみたいなボクの黒髪。ずっしりと重たい印象である。好きか嫌いかで云えば、まあ、お察しだ。
髪を、指で巻く。
ちょっと伸びてきたな。
これも触れておくべき話だろうか。
あれは、奴隷船に乗せられていることに気付いた直後の出来事――。こいつはもう、しばらく奴隷として生き抜くしかないぞと覚悟を決めたボクは、できるだけ髪を短くすることにした。
そう決心した理由はいくつかあったけれど、例えば、水が貴重な洋上生活では髪を洗うなんて機会もなかなか得られない。つまり、不衛生な環境への対策である(実際は、すぐさま女船長の寵愛を得たので、ボクの航海の日々は意外に快適だったけれど)。
最初は、人生初の坊主頭にチャレンジしようかと考えた。しかし、持ち合わせが果物ナイフしかなかったので、やれる範囲で悪戦苦闘した結果として、なんともデタラメなベリーショートが出来上がった。
うん。
外見描写を控えた事で、こんな所にもメリットが生まれていたね。奴隷船パートの前半は、そうしたわけで、ボクの見た目はいつも以上に残念なことになっていた。書かなければ、ボクの醜態が知られることもなく、後から実はこんなでしたと、マジシャンみたいに驚かせることもできる。
喉元から熱さが過ぎれば、失敗も、やらかしも、所詮は過去の出来事として、気楽にバカらしく語れたりするからね。
ちなみに、長らく続いた洋上生活の間にも、ボクの髪はしっかり伸び始めていたため、奴隷少年が一度、ちゃんとしたテクニックでカットしてくれた。長さを変えず、整える感じで。相変わらず、彼は何でもできる。便利ポジションが過ぎるね。ダメにさせられそう。
そして今、髪がまた、随分と伸びたことを実感している。
欲望の街から旅立ってから、実はちょっとずつ伸ばしていた。上記の通り、一旦は白紙に戻ったものの、これからどうしようか? まあ、これはどうでも良い話である。ボクの髪が短くても長くても、あるいはアフロボンバーでも、本作には大して影響がない(アフロでエロ触手を繰り出す光景は、なんだか琴線に触れるものがあったけれど、さすがにやらないと思う。しかし、なんかこう、エロ触手真拳奥義とか使い出しそうなトキメキが……。アフロ……アフロかぁ……。まあ、一回ぐらいならば、いいかもねぇ……)。
それよりも、だ。
黒髪をかき分けながら、頭皮を探ると、ようやく見つかったのは――。
小さな角。
さて。
これは、前置きの話である。
ボクという人間の容姿にわざわざ言及し始めたのは、これからの話で必要になるからという単純な理由なのだ。ボクらが一時的な拠点として暮らし始めたのは、大交易地である砂漠の街。ここでは、あらゆる商品が行き交う。その中でも特に活発にやりとりされているものと云えば、何を隠そう奴隷たちである。
奴隷の多くは、人間ではない。
人間ではなく、亜人である。
先代の魔王を生み出した■■はもちろんのこと、爬虫類の瞳を持つ種族、小柄で足元がフサフサの種族、三つ目の種族、あるいは、ボクが化けたような羽や角がある種族……このような亜人種の大半は、もはや記録自体は失伝しているものの、おそらくスキル『魔王』の影響を受けたことが原因で破滅し、凋落し、消滅しかけている。種族として奴隷であることが当たり前になってしまうぐらい、スキル『魔王』に終わらされている。
念のために云っておけば、ボクは普通の人間である。
種族的な傾向とは、まったくの別問題で、奴隷に堕ちるヤツは堕ちるものだ。犯罪だとか、ギャンブルだとか、そうした身から出た錆みたいな話である。ボクだって、奴隷商人を必要以上に脅したため、無理やり奴隷に仕立て上げられてしまった。
……ん?
普通の人間だと云うのに、ボクに羽や角?
ああ、云うまでもないかと思っていたけれど――。
これらは、もちろん、偽物である。
ボクは指先で、小さな角を突こうとしてみるものの、手応えは何もない。実際、そこには何もないからだ。虚像でそう見えているだけである。
緑魔法の一種。そこまで難しくない低位のもの。
人体を本当に変化させる魔法もあるらしいけれど、そちらは高位のもので難しいそうだ。ご教授いただいたのは、毎度のことながら、奴隷少年。ボクの見た目を誤魔化すために、この緑魔法を唱えてくれたのも他ならぬ彼である。
うん、もはや、なにか困った時の奴隷少年だ。
うえーん、助けてよ、ドレえもん。
そんな感じ。
ちなみに、諸兄にドッキリを仕掛けるためにわざわざ羽や角を付けているわけではない。もちろん、誰かとイチャイチャするためのコスプレというわけでもない(ボクが小悪魔コスしたところで誰に需要があるというんだ?)。
ボクは、奴隷である。
奴隷船で運ばれて来て、砂漠の街に到着した今も、それは変わらない。
正しく云い直そうか。
ボクは、奴隷である必要がある。
人間なのに奴隷に堕ちる者も珍しくは無いけれど、そこには何かしらの事情がある。一方で、亜人種ならば、奴隷であることは当たり前だったりするので、事情やら何やら勘繰られる可能性は低くなる。要は、目立ちたくない。ボクはしばらく奴隷で在り続けるため、奴隷として違和感なく受け入れられる亜人種のフリをしておこうかと考えているわけだ。
下手に、あれこれ詮索されてしまい――。勇者パーティーの一員なのに、奴隷に身をやつした? ……なんてバカバカしい醜聞が世の中に広まったら、女勇者たちに迷惑をかけそうだしね。彼女らはそんなことで怒らないかも知れないけれど、ボクが嫌である。
さて、ボクは奴隷なので、奴隷らしく命令には従わなければいけない。
朝食が冷めるまでに、食卓に戻れるように善処しよう。
いつまでも全裸で独白を続けているのも、端から見ると変なヤツだしね。
シャワーをサッと浴びて、薄手の室内着でダイニングにパタパタ小走りで戻る。奴隷だけど、奴隷らしくシマシマの囚人服というわけではない。あれは着心地が悪いのでやめだ。
女船長から、「ほら、パンのおかわりは? 卵はいくつ焼く? あ、ひとつだって。朝からしっかり運動した後なんだから、三つぐらいは食べなっ! それと野菜も! あんたは放っておくと、偏食で小食で酷いもんだからさぁ……」などと、騒がしく追い立てられながらの朝食風景。……いや、オカンか! 赤髪をポニーテールにまとめて、エプロン姿も似合っている女船長だった。
「おはようございます! お食事のところ、失礼いたします!」
サラダボウルに山盛りのレタスとブロッコリーをドンッと突き出されて、ボクが涙目になっている所に来客があった。これ幸いとばかりに食卓から逃げようとしたら、「あいつらの話なんて、食べながら聞けば良いだろ」と女船長に叱られる。涙目、継続。テンションの低いウサギみたいにレタスをモシャモシャしながら、ボクは男たちに向けて朝の挨拶をする。
「おはようございます。みなさん、今日も早くからご苦労様です」
「いや、当然のことです。命を救って頂いたわけですから、がんばって働きますよ」
複数人でぞろぞろ登場した男たちが何者かと云えば、奴隷たちである。
爬虫類の瞳を持っていたり、小柄で裸足だったり、三つ目だったり……すなわち、亜人種の奴隷たち。さらに詳しく云えば、一ヶ月以上の船旅を共にして来た奴隷たちである。女船長の奴隷船に積み荷として押し込まれて、大交易地である砂漠の街で降ろされて、本来ならば売り飛ばされる予定だった者たちは、今や、晴れ晴れと自由の身である――いや、それはさすがに云い過ぎで嘘になってしまうけれど。
まあ、ほとんど、自由も同然だろう。
なぜならば、自由にやってくれて良いよ、とボクが命令しているので。
「それで、我らがご主人。ああ、いや間違えました……」
奴隷船の積み荷だった奴隷たち。
丸ごと、ボクはお買い上げしていた。
彼らは元気よく、ボクに対して頭を下げる。
「社長! それで、今日は何をやりましょうか?」
ボクは奴隷である。
見た目を誤魔化すために工夫中ではあるものの、人間の奴隷である。
それは本来であれば、犯罪を犯したり、破産したり、社会的地位やら財産やら、何もかもを失った人間が行き着くような最終地点である。しかし、ボクは違う。奴隷商人とトラブルを起こしたことで、正式なルートではなく、裏技みたいなやり方で奴隷に堕とされてしまっただけである。ボクの手元には何もない……なんて事はなく、戦える武器ならば十分すぎる程に残っているのだ。
果たして、首を傾げるような人はいるだろうか?
成人したばかりの若造が、何を偉そうに云っているのかと?
まさか。
まさかまさか。
お忘れではないでしょう。
ボクは、かつて帝王と呼ばれていた。
欲望の街で、誰よりも富を生んだ者。
あらゆるものが押し寄せる生活の中で、ボクは吐き出すのが下手で、溜め込んだ。
稼いだ金も、貢がれたアイテムも、ほとんど手付かずに銀行に放り込んだままだ。
「さあ……」
悪魔みたいに角と羽を生やしたままのボクは、笑顔で告げる。
「今日も楽しく、お仕事しましょうね。たくさん稼いで、みんなで幸せになるんですよ」
百人余りの奴隷たちを買い上げて、ボクは今、この大交易地で新しい戦いをスタートさせようとしていた。ぐふふふふ、と悪い顔をしているボクの背後では、奴隷少年と女船長が顔を見合わせながら、「ご主人様が楽しそうで、何よりと思いますが……」「新会社というか、怪しい新興宗教みたいな感じだけどねぇ……」などと、しみじみ肩をすくめている。社長秘書と副社長なんだから、君たちもがんばってよ。
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