第45話 エロ触手 VS 普通の触手(5)

 ボクは叫んだ。


「の、乗組員たちに、エロいことを!」


 刹那のひらめき。


 それすなわち、ターゲットの変更。


 攻撃中止(キャンセル)が通じないならば、せめて矛先を変える(チェンジ)という苦肉の策だった。先ほどと同じように例えるならば、クッキーに向かって走って行く犬に対して、「ほら、こっちにジャーキーがあるよ!」と呼びかけるようなものだろうか。ギリギリのタイミングだったため、果たして効果があるかは未知数だったものの、ボクの冷や汗をよそにエロ触手はくるりと鎌首を反転させていた。


 たくさんのエロ触手が、ビューンとボクの方に戻って来る。


 そのまま、ボクのそばを突風を巻き起こしながら通り過ぎて行く。


 上手く行った。


 うん。


 上手く行ったね。


 ……あー、うん。


 ……。


 望んだ通りの結果が得られたのに、いまいち快哉を叫ぶ気になれないのはなぜか?


 ボクは深くゆっくり息を吸い込み、自戒する。


 女船長はたった一人、クラーケンに挑んだ。奴隷船の船長として、為すべきことを為すため、彼女は他の一切を視野に入れることなく、ひたすら目の前の戦いに集中した。一意専心。余計なことばかりウダウダ考えてしまうボクは、そんな姿に憧憬すら覚える。不安、後悔、煩慮……後ろ髪を引っ張るものに負けず、一歩を踏み出すために、ボクはいつも必要以上の気合を入れなければいけない。気合を入れず、あるがままの自分でそれを行えるようになることが理想だって思うのに。


 今も、そうだ。


 後ろを振り返りそうになってしまう。


 己を叱咤しなければ、こうやって前だけを見ていられない。


 振り返るな。


 振り返るな。


 振り返るな。


 身を乗り出し、船首像の先だけを見つめる。クラーケンは弱っているのか、ゆらゆらと左右に巨躯を揺らしている。その額に突き刺さったサーベルをしっかり掴んだまま、女船長は振り落とされないように必死だ。どうにか動きが止まった瞬間を見逃さず、さらに深々と刃を突き立てるつもりなのだろう。追い詰められて、絶体絶命となった獲物ほど危険なものはない。女船長は最後の瞬間まで気を抜かないだろう。


 一意専心。


 見守ることしかできないけれど、ボクはそれだけに集中しなければ。


 振り返らない。


 振り返らないという、強い決意。


 ぬおーん、ぬおーん。


 ウッ、ウッ、ウボアァー!


 はじめてなの、はじめてなの、はじめてぇぇえーっん!


 禿頭のごりごりマッチョマンな乗組員たちは、総勢で二十数人ぐらいだったか……それぞれと個々の付き合いがあるわけではないため、ボクは乗組員たちの顔と名前なんて覚えていないし、これまでまったく関心も興味もなかった。千差万別の快楽のうめき声によるオペラ(バリトンのみ)を背中に感じながら、大した見分けもつかない彼らにも、これだけの個性があるんだなぁ……なんて、この航海も最終盤に至ってから人間性の違いを見出してしまう。嫌だよ、顔と名前すら覚えていないのに、快楽堕ちする瞬間のイキ声だけボクの心に刻まれるなんて……(今後何かしらで交流の機会が得られた時に、「あ、こいつは、エロ触手に初めてを捧げたヤツだな」とか、そんな感じで見分けをつけたくないです)。


 エロ触手と、たくさんの男たち。


 キャッキャウフフのあれやこれや。


 絶対に。


 絶対に、振り返らない。


 むさくるしい大男たちの薔薇園は、ちょっとさすがにボクの趣味嗜好からも外れている。女勇者や女モンク、女船長がストライクだとして、これはもうボールというか、デッドボールというか、敵陣ベンチの監督に160キロを直撃させたので一発退場ぐらいのアレである。ボクだけでなく、紳士な諸兄にもアウトだろう。頼むから、アウトであってほしい。今すぐ背後を振り返って、お前の目にした光景を濃密に濃厚にたっぷりねっとり何十ページにも渡って執筆せよ、という方がいらっしゃるのであれば、たぶん貴君にふさわしい世界はここではない(じゃあどこだ? と問われても、知らねえ! 自分で探せ!)。


 ……うん。


 エロ触手のターゲット変更。


 この使い方は今後も役に立つかも知れない。覚えておこう。


 少なくとも、女船長とクラーケンのシリアスな勝負を台無しにすることは無かった。それは褒められて良いはずだ。代わりに、地獄が誕生した気配がするけれど、彼らも愛する船長のためということで本望だろうさ。うん、前向きに行こう。ボクは前だけを見据えて、やっぱり振り返らないぞ。……あー、だから、頼むよ。史上類を見ないだろうクソ汚いオペラはやく終わってください。何十回目の「ぬおーん」という嬌声を背中に浴びながら、ボクは泣き出しそうな気分でそんな風に思っていた。

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