一人勝ち

森本 晃次

第1話 戒厳令

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年9月時点のものです。凶器の入手に関しては、適当に書いていますが、これは、小説がフィクションであるということで、ご容赦ください。


 令和に入ってから、世の中はロクなことがない。特に、令和2年から続いている、

「世界的なパンデミック」

 というものは、社会生活において、すべての自由を制限する形になった。

 今までにも、世界で十年に一度くらいは、世界的に大きなパンデミックに襲われ、そのために、

「病気で死ぬか、金がなくて死ぬか?」

 という、

「究極の選択」

 に見舞われることになってきた。

 特に、日本という国は、大きな制限を国民に掛けることはできない。大日本帝国の時代には、軍というものがあり、そこが介入することで、一気に国民を抑えつけることができた。

 暴動が起こったり、災害時、さらには、戦争が起こるなどと言った、いわゆる有事の時には、

「戒厳令」

 というものを敷くことによって、治安を維持するということが法律的にできたのだ。

 この戒厳令というものは、それらの有事の際に、混乱した治安をまとめるということを目的に、軍によって、戒厳司令部が設置され、そこで、その土地の人民の自由を一部はく奪し、

「治安維持」

 というものを最優先に考えるというものである。

 特に軍事クーデターなどというものが起こってしまうと、街全体がクーデター軍の、

「人質」

 のようになってしまい、それがすでに、治安の維持を困難にするということであった。

 今まで日本という国は、戒厳令を敷いたのは、当然、明治憲法が発布されてから、大日本帝国が解体されるまでの間だけということになるので、100年もないのだが、その間にあった戒厳令は、3回だったのだ。

 しかも、

「明治、大正、昭和」

 と、大日本帝国が存在した時代、そのすべてに、一度ずつあったということになる。

 一度目は、明治における大きな対外戦争、日清戦争、日露戦争と行われたが、その日露戦争が終結した時のことであった。

 そもそも、世界の大国ロシアに対し、いくら、アジアの大国清国に勝利したとはいえ、まだまだ日本は、明治の弱小国だったのである。

 まともにやって勝てるわけなどない。

 それでも、世界情勢、日本の死活問題として、

「やらなければいけない戦争」

 だったのだ。

 ほとんどの政治家か、

「今、ロシアを討たないと」

 と言っている中で、何とか、ロシアとの共存の道を考えようとしていたのが初代総理大臣であった伊藤博文が、反戦論者であった。

 しかし、他の参戦論者の人たちの、

「いずれは当たる相手、今なら勝てるかも知れないが、時間を引き延ばせば伸ばすほど、勝てる見込みはなくなってしまう」

 と言われてしまうと、さすがに伊藤博文としても、開戦をこれ以上躊躇するわけにもいかないということで、渋々開戦となった。

 しかし、さすがに大国ロシアに対しては、最初から立てた作戦どおりに事が運ばないと、勝利は難しい。

 そもそも、圧倒的な兵力、国力の違いがある国に対して、完全勝利などありえないわけで、勝利と呼べるものを手に入れようとすると、作戦とすれば、

「最初に連戦線連勝を重ね、相手の国力が充実してくる前に、講和に持ち込んで、有利に話を進める」

 というしかないのだ。

 幸いなことに、相手の本隊、つまり、首都とは、離れた相手からみれば、局地にいるということなので、国力が充実するまでには時間が掛かる。その前に、できるだけ攻勢に転じ、相手が本気を出す前に、戦意を喪失させようというわけである。

 そこで考えられたのが、

「相手艦隊の封じ込め作戦」

 だった。

 ロシアは、極東には、ウラジオストックと、旅順に基地を持っていた。そこで、ウラジオ艦隊には出てこれない時期に、旅順港から、艦隊が出られないように、湾に日本の船をわざと座礁させるという、

「旅順港閉塞作戦」

 が取られた。

 しかし、それがことごとく失敗してしまったことで、陸軍に、旅順要塞攻略作戦が発せられたのだ。

 ロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊と旅順艦隊が一緒になれば、とても、日本の連合艦隊では太刀打ちができない。そのために、何としても旅順艦隊の撃滅が必要だった。

 幸いなことに、戦争前に日英同盟が成立したことで、バルチック艦隊がヨーロッパ、アフリカ、インド経由で日本に来るために、寄港するイギリス支配の港では、食料の補給を断るということができたのだ。

 だから、日本に来た時のバルチック艦隊は、ただでさえ長旅で疲れているのに、補給もままならない状態だったといえるだろう。

 だから、旅順艦隊の撃滅は必至だったのだが、ロシアが改修した旅順要塞は、東洋一といってもいいところで、完全な、難攻不落だったのだ。

 日清戦争の被害者の数から見て、日本政府に、

「この被害の数は間違いではないのか?」

 と言わせるほど多かったのだ。

 それでも、何とか203高地を占領することで、そこから、旅順港は丸見えだった。山の上に砲台を設置して撃ちまくれば、さすがの旅順艦隊も、全滅だった。

 その余勢を買って、日本海海戦での連合艦隊の勝利、そして、陸戦では、奉天会戦においての大勝利が、戦争目的であった。

「相手の戦意をくじく」

 という目的を達し、ポーツマスにて、講和条約が結ばれることになったのだ。

 もちろん、戦争とすれば、日本の勝ちということで、有利に交渉が進められた。

 朝鮮において、さらに、満州鉄道への権益など、領土的な交渉は、うまく進んだのだが、肝心などころでの、

「戦争賠償金」

 というものは得ることができなかった。

 もちろん、日本とすれば、戦闘継続は無理であった。実際に限界まで来ていて、この状態で講和条約を結べたことは一番よかったといえるだろう。

 何といっても、これ以上の戦闘は、

「モスクワまで侵攻する」

 という目的でもなければ、結局中途半端に終わってしまう。

 ロシアの方も停戦に応じたのは、国内での革命の機運が起こったことから、

「日本なんかと戦争をしている場合ではない」

 と足元についた火を何とか消さなければいけなかったからだった。

 それでも、さすがに、戦争賠償金を得ることができなかったのは、仕方のないことであはあっただろうが、日本国内にいる国民が、どれほど、今回の戦争を分かっているのか、難しいところだった。

 だから、

「戦争に勝ったのに、賠償金が得られないとはどういうことだ?」

 と、政府の外交を弱腰と見て、過激な連中が、国内で騒ぎ出したというわけである。

 外務大臣であった小村寿太郎の家には絶えず石が投げこまれたり、さらには、それだけでは飽き足らない連中が、今度は日比谷公園に集結し、

「日比谷公会堂焼き討ち事件」

 というのを引き起こしたのだった。

 押し寄せる群衆を、なかなか警察では止めることができなかったのだろう。しかも、ウワサを聞きつけてきた人がさらにやってきて、収拾がつかなくなる。かといって、軍隊を出動させるのも忍びない。

 ということで、戒厳令を敷いて、その場の収拾を図るしかなかったのだ。

 これが、第一回目の戒厳令であった。

 二度目というのは、一度目が、民衆の暴動であったのだが、二度目は災害だった。

「未曽有の大地震」

 そう、あの関東大震災だったのだ。

 関東大震災では、帝都だけではなく、横浜や千葉と言ったところまでの大災害となり、逃げ惑う人たち、家を失った人、とにかく大混乱だっただろう。

 しかも、情報は錯そうする。当時のマスメディアというと、新聞しかない。新聞社も被災し、新聞の発行どころではない。そうなると、ウワサがウワサを呼び、横浜で起こったとされる、

「朝鮮人大量虐殺」

 というのも、そのうちの一つだった。

「この混乱に乗じて、朝鮮人が暴動を起こす」

 というものであった。

「やられる前にやる」

 それが、一種の先手必勝で、信憑性のまったくないデマによって怯えた人たちの暴動だったのだ。

 警察も、軍の施設も崩壊したりして、燃えてしまったかも知れない。もうそうなると、戒厳令を敷いて、民衆の権利や自由を、一時的に制限するしか方法はない。

 戒厳令というのは、被災したり、クーデターの範囲の場所に出されるものである。戒厳司令部も、司令官も、他の地域から連れてきて、設置しても構わない。実際にそうだったのではないだろうか?

 もっとも、その時代のことを知っているわけではないので、憶測でしかないのだが、それが、当時における、大日本帝国による戒厳令だったのだ。

 さて、三度目の戒厳令であるが、今度の戒厳令は、震災から約10年後に起こった、

「軍事クーデター」

 の時期であった。

 時代はすでに昭和に移っていて、震災からこっち、復興に向けて、国の予算を支出していっている時であった。

 世界では、動乱の時代が続いていた。日本でも、陸軍の動きが活発で、軍部の内部ではm派閥争いが起こっていて、そこに持ってきて、人口の急激な増加により、食糧問題が深刻化してきたのだ。

 ちょうど、日本は、関東軍というものを組織し、日露戦争によって権益を得た、満州鉄道の敷地内周辺の警備を行っていたのだが、当時はすでに、革命に成功し、世界初の社会主義国家として成立したソ連が、かつてのロシアの後継国として君臨していた。

 さらに、モンゴル国境あたりにも問題を抱えていたことで、日本としては、

「満蒙国境問題」 

 ということで、満州周辺での衝突もやむなしであった。

 しかも、清国の後継国である

「中華民国」

 との問題もあった。

 当時中華民国は、政府である国民党、さらには、中国共産党、そして、満州に拠点を置く、北伐と呼ばれる勢力が争っていた。

 日本は、満州に権益を持っていたので、中華民国とは、結構な紛争になっていた。特に北伐の支援を積極的に行っていたのだが、そのうちに、北伐側が、日本を鬱陶しく思うようになったのだろう。

 そのために、関東軍は、その北伐の首領である、

「張作霖」

 という人物が邪魔になったことから、満州鉄道で移動中の張作霖を、列車ごと、爆破する計画を立て、実行したのだ。

 この事件について、日本本土の陸軍がどこまで把握していたのかは分からない。少なくとも、政府には寝耳に水であり、天皇も知らなかったことに違いない。

 こうなると、問題は、

「政府が知らなかった」

 ということよりも、

「天皇が知らなかった」

 ということの方が大きいのだ。

 もちろん、政府が知らなかったということは、外交問題上、他の国との話になった時、どう答えていいのか、困るからである。

「我々も知らなかった」

 などと言って、信じられるわけもないし、そもそも政府が知らなかったなどというと、

「この国に近代国家としての体制が整っていない」

 ということで、下手をすれば、最悪侵攻のための大義名bんを作りかねないということになり、戦争の火種ということになるだろう。

 政府も天皇も知らなかったというのは、政府に爆殺事件の第一報が入った時、その報告に、当時の田中義一首相が、上奏し、参内した時、天皇に対して、

「早急に調査し、我が軍の関与のないことを突き止めましょう。もし、我が軍の関与があったとすれば、首謀者を罰するようにいたします」

 というような話をしていたのに、それからまた参内した首相は、

「今、まだ調査中でハッキリと分かっていません」

 と言ったことで、天皇はm政府が、関東軍に遠慮しているのか、歯切れの悪さを示したことで、

「お前の言っていることはサッパリ分からない」

 といって、叱責した。

 このことが、内閣総辞職を招いたとして、天皇は大いに反省したという話が伝わっているのだ。

 その頃から、

「軍部による暴走」

 というのが見え始め、特に満州に君臨する、関東軍の動きが、東京の中央と行違うことが多くなってきたのだろう。

 そこから、満州での動きは激しくなり、特に中国における、反日、抗日運動が激化してきたのも、問題だった。

 日本人に対して、土地を与えたり、土地を売ったりすると、下手をすると死刑になるというような法律までできたほどで、

「日本人に有利なことをした者は、売奴国になり、国家反逆罪に匹敵する」

 ということだったので、死刑というのも、あながち大げさなことではなかったのであった。

 そんな時代において、中国人における満州での日本人に対する迫害はひどくなった。

 土地は奪われ、差別を受け、さらには、暗殺事件なども頻繁に起こり、治安は最悪な状態になっていた、

 そんな状態を打破するという意味と、さらに日本における最大の問題である食糧問題を一気に解決するには、

「満州の占領」

 ということしかなかったのであろう。

「事件をでっち上げて、そこから一気に軍事行動に出ることで、満州を占領する」

 ということであった。

 これが、満蒙問題解決にもつながることとして、関東軍が考えたことだった。

 しかし、この動きは中央軍部にも想像できていたことのようだった。

「Ⅹデーはいつだ」

 という話が持ち上がっているようで、ただ、軍としても、

「この作戦はやむなし」

 と思っていたのではないだろうか。

 しかも、中国側が、満州鉄道の路線に並行して、鉄道を建設してから、それまでの満鉄の売り上げが一気に下降し、経済的にも疲弊してきた。

 治安も悪い、経済も疲弊。そんな状況は、居留民にとっては、迫害以外の何者でもなかった。

「巨留飲保護」

 という意味でも、満州事変の勃発というのは致し方のないことではなかっただろうか?

 だから、関東軍が満州鉄道を故意に爆破したという、

「柳条湖事件」

 が勃発した時、中央政府は慌てはしたが、ウワサがあったことから、すぐに、これを上奏したことにての、

「日本政府における、事後承諾」

 ということで、正式な国家としての行動になったのだ。

 さすがに最初から計画していたこととはいえ、一気に満州国の主要都市を次々に占領していき、半年も経たない間に、満州全土を掌握していたのだ。

 そこで、日本は、事変直後から、かつては、清国の皇帝であり、

「清朝復興」

 を考えていた、

「愛新覚羅溥儀」

 に接触した。

 彼は、身の安全を図るため、上海の租界にいた。そこに、関東軍は接触し、

「我々は満州を手中にしたので、そこに満州国を建設するつもりだ。そこは独立国となるので、あなたに、まずは、執政として就任いただいて、時期がくれば、校庭として、君臨していただきたい」

 といって、そそのかし、上海を脱出させ、満州国へといざなうのだった。

 すっかり、その言葉に載せられた溥儀は、元々、清朝というものが、満州民族だということもあるので、

「故郷に戻り、しかも、清朝復興の足掛かりとして、故郷で皇帝になれる」

 ということで、有頂天だったのかも知れない。

 そこで、日本は急ピッチで、満州を独立国家としての体裁を整え、執政として溥儀を擁立することで、満州国建国を宣言したのだった。

 さすがにこれには、中華民国も承服できなかった。他の列強も、渋い感情を抱いていたということもあって、中華民国は、当時、第一次大戦の戦勝国で作った、

「国際連盟」

 という機関に、日本の行動を提訴したのだった。

 そこで、国連は、その事実関係の調査に、

「リットン調査団」

 というものを組織し、調査をさせた。

 そこでもたらされたことは、

「日本軍による自作自演」

 ということだという調査報告だった。

 そこで、議長国による決として、

「満州国の承認」

 が議題に上がったが、賛成は、日本一国だけで、他は、反対と棄権しかなく、ほぼすべての国は承認しないということになったのだ

 それにより、日本は、国際連盟は信用できないということで、その場で、全権大使となっていた松岡洋右外相は、その場を立ち去り、

「国際連盟脱退」

 ということになり、日本は世界から孤立してしまった。

 そんな時代において、日本という国は、もうどうにも立ち行かなくなり、さらに追い打ちをかけたのが、

「世界恐慌」

 だった。

 さらに、東北地方の凶作が続いたことで、地方の人間は、

「娘を売りに出さないと、その日の食事にもありつけない」

 ということで、

「人身売買」

 までが、公然の秘密のように行われるようになっていたのであった。

 海外では、そんな世界恐慌において、

「強国によって経済をブロックする」

 ということで、強国だけが、生き残るという方法を取るようになった。

 日本という国は資源に乏しい小国なので、ブロック経済などをされてしまうと、どうにもならない、

 そんな状況を憂いたのが、大尉、中尉と言った階級の、いわゆる、

「青年将校」

 と言われた人たちが、

「天皇の側近として、権力があるのをいいことに、自分たちだけが甘い汁を吸っている。そんな悪をのさばらせてはいけない」

 と考えるようになった。

 それで起こったのが、

「226事件」

 と呼ばれる、軍事クーデターだということであった。

 ただ、このクーデターは前述のように、

「天皇のそばにいて、甘い汁を吸っている連中を懲らしめて、再度、腐敗した政治を立て直す」

 というのが、大義名分であったが、実際には、そうではなかったのだ。

 というのも、それから数年目くらいから、陸軍内で、

「皇道派」

 と呼ばれる派閥と、

「統制派」

 と呼ばれる派閥とが、派閥争いをしているというのは、公然の秘密のよううだった。

 その数年の間に、何度も形成が逆転し、左遷されたり、暗殺されたりという厄介な事件が勃発もしていたのだった。

 そんな世の中において、まわりの環境が急激に混乱してくると、それを正そうとする連中が出てくるのは分かっていることだった。

 軍部内でも、

「いつか、近い将来において、軍事クーデターが起こる」

 というウワサはあちこちにあったが、なかなかそれを止めるまでには至らず、結局、青年将校は決起を促し、事件を引き起こすことになる。

「首相官邸、大蔵大臣、侍従長、警視庁などを襲撃し、政府要人を暗殺せしめた」

 というのが、決起軍であった。

 決起軍は、山王ホテルに立てこもり、上官が説得を試みる中、事件勃発前にまとめていた、

「決起衆意書」

 というものを、天皇に上奏してほしいといい、決起が認められるまで、動かないとしたのだ。

 軍部はそれでも、何とか軍部内で、収めようと考えていたが、説得もままならないまま、天皇に上奏することになった。

 天皇は、上奏前に、その情報を得ていて、上奏された時には、すでにその気持ちは固まっていたのだろう。

 どこか、奥歯にものが挟まったかのような、消極的な態度の軍や政府に対して、憤りを感じていた。

 暗殺された人物は、天皇が信頼を寄せていた人たちなので、それも仕方がない。

 決起した連中は、、

「天皇の側近として、甘い汁を吸っている」

 と思っていたのだろうが、天皇は、自分が政治を知るうえで一番の理解者だと思っていた人たちを、問答無用で、夜討ちをかけての殺害という、一番最悪の、

「やってはいけないこと」

 をしてしまったのだ。

 天皇はすでに、腹が決まっていたようで、彼らをいち早く、

「反乱軍」

 と認定したようだ。

 だから、武力鎮圧には消極的な陸軍に対し、

「お前たちがそんなに弱腰なら、代が、自ら軍を率いて、鎮圧する」

 とまで言わせたのである。

 さすがにこうなってしまっては、軍部としては、武力鎮圧もやむなしであった。

 それでも、何とか説得を試みる。

 それでも、事態が収拾しないことで、東京市には、戒厳令が敷かれることになったのだった。

 それでも、結果として事件は、三日で終結した。

 その理由は、

「奉勅命令」

 というものが出たからである。

 つまりは、

「陸海軍の最高責任者であり、大元帥である天皇が、軍に対して直接下す命令」

 のことである。

 それが出たということが、決起軍に伝わると、

「自分たちが反乱軍だ」

 ということを天皇が理解したということであり、その瞬間、力が抜けてしまっただろう。

 こうなってしまえば、無理に逆らうと、自分たちは賊軍でしかない。天皇と国家のためを思ってしたことが、結果反乱軍とみなされてしまえば、することは一つしかない。

「軍を原隊に返し、自分の身の振り方を考える」

 ということであった。

 自決をする人間もいれば、裁判で訴えるという手を考えた人もいたが、結果裁判は最悪の、

「弁護人なし、さらに非公開で、全員銃殺刑」

 ということになったのだった。

「515事件」

 において、暗殺を行った甲斐軍青年将校たちが、重くても数年の禁固というだけだったのに対し、あまりにもこの差の大きさだった。やはり、

「賊軍」

 という評価が、どうにもならないということになったに違いない。


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