第8話 裁きの時が来た(胸糞注意その2)
晴れた夜半、三日月が遠く地平線付近にある。
風の強い夜だった。おかげで、ブライス伯爵邸裏門の扉の鍵を開ける音は流され、古びた錠は久々に開く。
しかし、扉を開いたのはブライス伯爵家
そのうち一人は男で、裏門の扉を開けてもう一人を呼び込む。周囲を警戒しながら入り込み、扉に木片を挟んで素早く邸内へと駆けていった。
屋敷は暗く、蝋燭の灯りもまばらだ。二人は厨房の勝手口へ、鍵をこじ開けて侵入する。この時間帯に厨房で待機する人間はまずいない、侵入に成功した二人組はそこでフードとマントを脱いだ。
一人は黒髪の男で、どこか余裕のある好青年風だ。顔立ちはよく、愛想よくしていれば好印象を与えるであろう顔立ちだった。
もう一人は茶髪の女だ。ごくごく普通の町娘のようで、化粧が上手い。けばけばしいものではなく、見る者に好悪の印象を与えない顔の整え方を知っている。
二人を見れば、誰も怪しい人間とは思わない。ここまで言い訳できないほどにブライス伯爵邸へと侵入しておきながら、犯罪者というよりも致し方なくやってきた憐れで恵みを求める者、としか思われないであろうほどだ。
それこそが、
「何だ、拍子抜けだな。しかしまあ、使用人どもはおやすみだってんなら話は簡単だ」
誰もいない廊下の様子を窺いながら、イヴァンは調子付く。
エラはというと、イヴァンほど楽天的ではない。
「門番もいないなんておかしくない?」
「いいや、正門にはいた。それにだ、裏門はしばらく使われてねぇ。長年の平和も手伝って、こっちは手薄ってわけだ」
「ふぅん。じゃあ、あの廊下の先、どうせ飾りに飾った応接間だよ。伯爵の部屋は見当つく?」
「鍵屋の野郎に場所は聞いた。安心しろ、貴族の一人くらいどうとでもできる」
一つ一つ部屋を見回りつつ、イヴァンとエラは忍足で移動する。目的は金目のもの、しかしそれだけではない。
磨かれた窓際の花瓶や鏡面のような床を一目見て、屋敷の構造を把握したイヴァンは舌舐めずりだ。
「メイドもたくさんいそうだな」
「あんた、盗みが終わってからにしなよ」
「分かってるよ。どいつもこいつも無防備にしてやがるからな、つい」
「まったく、この
「お前に言えるかってんだ、なあ?」
「私は普通よ、普通。
怖気立つような会話を平然とするこの夫婦は、日常的に人の命を奪うばかりか、快楽目的での猟奇殺人の経験さえ豊富だ。
命の価値を何とも思っていない、それは『前世』からだった。
やがて、屋敷の二階、中心部分にある観音開きの扉を見つけ、イヴァンはエラへ目配せをしてさっそく屋敷の主人の始末に取り掛かる。
殺す前に金目のものの在処を聞き出し、一番気に入っているメイドを呼び出させて、などとイヴァンの欲望は留まるところを知らない。ノックとともに抑揚のない声色で、使用人のふりをして屋敷の主人へと語りかける。
「失礼します、旦那様。急ぎ、確認していただきたいことがありまして」
少し間を空けて、「入れ」と短い返答があった。イヴァンは懐の大型ナイフを、エラは腰のバッグから縄を取り、扉を開けると同時にするりと雪崩れ込む——何が起きたかも分からない伯爵を縛り上げれば、もう成功したも同然だ。あとはいつもどおりに——そう考えていた。
だが、いつまでも上手く行くことはない。
因業の果てに、イヴァンとエラは瞬時に煌々と光を照らす床へと叩き伏せられた。
「ぎぃっ!?」
「きゃああ!?」
男女の不細工な叫び声は、折り重なって二人の体を押さえつける兵士たちの重みで途切れる。
あっという間に目隠しも猿ぐつわも両手両足の枷も付けられた二人は、芋虫のように床で
この屋敷の主人、ブライス伯爵の威厳ある声が、指示を飛ばす。
「本当に、襲ってくるとはな……パペチュエリー公爵へ、朝一番に早馬を出しておけ。重罪指名手配犯の人喰い夫婦イヴァンとエラを確保した、そちらへ移送すると」
「はっ!」
足音が忙しなく響く。その振動と反響に耳を塞ぐこともできず、イヴァンとエラは言葉にならない呻き声を上げるばかりだ。
(くそ! 罠だったか、ちくしょう! あの鍵屋め!)
(何でこうなるのよ! 最悪!)
無駄な悪態を聞くこともなく、ブライス伯爵たちは最初からすべて決めていた事柄を進めていくかのように、無駄なく動く。
そんな中、二人の少女の声が響いた。
「大丈夫ですわ、お父様。もう『未来』は定まりました。この二人は逃げも隠れもできません、無事移送できるでしょう」
「おお、本当か? それならよかった」
「では、約束どおり、私たちと記録官、それとペトリールだけにしてくださる?」
イヴァンとエラは会話に聞き耳を立てていた。少女たちは伯爵家の令嬢たちだ、と分かっても、なぜそんなことを言うのかまではさっぱりだ。
老齢の男性の声と、戸惑うブライス伯爵の声が聞こえる。
「かしこまりました。私どもはここでやつらを見張っておきましょう」
「……いいのか? 何をするつもりだ?」
「それは後日、お話ししますわ。まず間違いなく、お父様もご納得されるでしょうから、安心なさって」
「そ、そうか。部屋の外には兵士たちを待機させておく、何かあれば叫ぶのだぞ」
「はい、心得ておりますわ」
「ええ、もちろんですわ」
すると、少女の弾むような承諾の声ののち、さっと大勢が部屋から出ていくではないか。
一体全体、これから何が始まるのか。
それは、イヴァンとエラには思いつきもしないことだ。
「ペトリール」
「約束よ?」
「はっ、承知しております。さあ、どうぞ」
パタン、と観音開きの扉が閉まる。
イヴァンとエラは、腹を足蹴にされてうつ伏せに寝かされ、上から降るような……まるで天の裁きのごとき冷徹な声に、その言葉に、耳を疑った。
「イヴァンとエラ……いいえ、あなたは『
びくっ、とイヴァンとエラは肩を振るわせた。見えもしない目を前へ向け、顔を上げる仕草をする。
この世界で、自分たちの前世の名前を知っている人間が他にいたのか、という驚きだけではない。
天の裁きの代理人かのような少女たちの声が、怒り、憎しみ、喜び、恍惚、侮蔑さえも含んだものだったからだ。
「あなたたちに殺された女が、あなたたちを裁きに来たわ」
「その罪状、一つ残らず教えてあげるわね」
このとき、イヴァンとエラが何が起きるか分からなかったのは、ただ単に彼らの察しが悪いからではない。
彼らは今まで上位の捕食者だった。だから自分たちが食べられる側、殺される側に回ったことがない。
今の状況を、信じられなかったのだ。
自分たちの足が震えていることさえ、気付いていない。
少女たちがそれを見て、気色悪い毛虫よりも
復讐の
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