地獄変
石田くん
第1話 キャンサー・イン・ザ・ライフ
今日も早起きができた。幸せは積み重なる。大きな幸せをきっかけにして。冬の朝に、
最近は幸せな事がある度、あの時をほんのり思い出す。
八月、午前10時、夏休みの学校で、高校一年生、男子、藤原
左利きの千は、右側の三角形に並んでいる。奥の選手にパスを出し、ゴールに向かって少し斜めに走り出す。テンポよく三年生の二人が千にボールを戻す。左足の内側でパスを止めた。「ボールを受けたらなるべく早くシュートを打つ。できるだけ実戦で使えるテンポで、全てを素早く。」という意識を持ちつつ丁寧さを欠かないように集中する。トラップが最高の位置に決まった。ペナルティエリア右手前から、ゴールの左上を狙って、少しカーブのかかった、しかし速いシュートをイメージして、ボールの中心に向け足を振り抜く。
綺麗に決まった。カシャンという音とともにカーブシュートがサイドネットに沿って動くのを見るのは、かなり気持ちいい。この位置からのカーブシュートは全サッカープレーヤーの夢だろう。千もよくこの形を練習しているが、高校生になってからは実戦では決めていない。試合のスピード感の中では、この位置からのシュートの難易度は跳ね上がる気がする。このシュートを打つ前のドリブルでは横に動くのに前にボールを放つのでそれも当然だろうが。気持ちよくシュートを決めて、千が横に飛び出たマーカーコーンに並ぶと、翔也先輩が「千ナイシュー」と声をかけてくれた。「あらざす、」と千が言ったところで、キャプテンの「ラスト一本ずつー!」の声がした。
12時、ゲームが終わり、ミーティングと片付け、そして少しの自主練も終えた千は、校舎の2階にある図書室に向かっていた。玄関口で靴を脱いで、この時のために持ってきた上履きに履き替える。下駄箱の壁を抜けて、左に曲がって廊下を少し歩き、階段を一歩上ったところで、少し急いでこっちに向かってくる別の足音が聞こえてきた。きっとこれから千が会う予定の人だろう。それでも千が歩みを止めずにさらに三つ階段を上ったところで、その人は階段を折り返して、千と向かい合った。
「ごめんちょっと遅くなっちゃった、わざわざありがとう」
「いやいいよ、」
「部活お疲れ様」
「ありがとう、あなたも勉強偉いね、」
「いやいや外で部活してる千に比べたら全然だよ」
「でも図書室も暑いでしょ」
「たしかに、水筒全部飲んじゃった」
「すごいね、それ1リットルあるでしょ」
「酒豪だからね」
「酒じゃないでしょ」
「わからんぜ!?」
「どこの方言なのそれ」
「わかんなーい」
階段から下駄箱まで、その人のこんな冗談を聴きながら歩いた。
この人、この女性、藤原
普摩は、千がこの前の普摩の誕生日にあげた麦わら帽子を被って校舎を出た。
「あつー」
「さすが八月」
普摩が帰り道の始めにある坂道に差し掛かったところで言った。普摩は明るくて、とても話しやすい。中学二年の途中で千と同じクラスに転校してきた普摩は千の家の近くに引っ越してきていて、ご近所挨拶に来た普摩に、千は一目惚れした。顔がまずタイプで、柔和さの奥に除く不思議な感じの雰囲気もなんだか好きだった。黒髪、笑顔、優しそうな目、スノーボードができそうなくらい滑らかな鼻筋。なぜだかわからないが気が合いそうに思えて、実際に話してみるとその予感は当たっていた。まるで昔に一度会ったことがあるかのように楽しく話せた。それから普摩とはすぐに仲良くなって、登下校を一緒にすることもかなり多い。高校生になってからは毎日だ。普摩から最初のご近所挨拶の時に「明日初めての登校なんだけど、連れてってくれない?」と言われた時は、嬉しすぎて声が出そうになるのと同時に、話が合わなかったらどうしよう、と心配をしていたが、翌朝になってみるとそれが杞憂も杞憂で安心した。同級生に見られるのは恥ずかしいのでかなり早めに登校したが、校門が近付くにつれてだんだん心配になってきて、「じゃあここらへんで、」と切り出そうかと何度も思ったが、結局それはできずに一緒に教室まで行った。その朝は誰にも会わなくて安心した。
名字が一緒という事でクラスメイトにからかわれた時は、顔が赤くなってしまって追い討ちをかけられた。普摩が好きだと打ち明けているのは親友の悠也にだけだが、その時に悠也は、クラスの全員が察してるだろ、と言っていてガックリきた。
普摩は贔屓目なしでもかなり美人で可愛いと思うし、性格もいいので、いつ「彼氏できたんだよね」と言われてもおかしくないな、と思いながら、奥手な千は高校一年生の夏までの毎日を過ごしていた。何度も一緒に通学してはいるが、普摩は緊張した様子を見せることは一回もなかったし、普摩からしたら友達みたいな感じなのかもしれない。
夏休みの今は、どちらかが部活に行く日は部活がない方もついてきて、部活の間はもう一人が図書室で勉強して、帰りは一緒に帰る、二人とも部活があっても、一緒に行って一緒に帰る、という習慣ができていた。
少し長い坂を雑談しながら上りきって歩いている時に普摩が
「明日も千部活だよね」
と尋ねた。
「そうだよ」
「明後日は私が部活だ」
「だね」
「忙しいね」
「そうだね」
「明後日は千は休みだよね?」
「そうだよ」
「明後日の午後どっか遊びに行かない?」
心臓がドクンと動いた。冷静を装う。
「、いいよ、」
心臓はまだ強く動く。
「ありがとう、どこがいいとかある?」
大していつもと変わらない様子の普摩に困惑する。
「いやー特にはないけど」
少しぶっきらぼうに答えてしまっただろうか。
「千部活以外あんまり興味ないもんね」
普摩が笑いながら言う。
「いやまってごめん、考えるわ」
特にない、は困る、と夕飯のリクエストを求める母親が言っていたのを思い出したので、急いで考える。
「いやいいよ、千と行けるならどこでもいいよ私は。一緒に考えよう?」
なんだそれ、心臓が破裂しそうだ。こっそり混乱していると、普摩が続けざまに口を開いた。
「神社?水族館?どこがいいかな?」
神社にツッコミを入れる余裕はなかった。
「あーいいね、」
凡庸な相槌でお茶を濁す。行先の案を出す前に、まずは一番気になっていたことを聞こう。
「二人で行くの?」
できる限りさらっと、一応聞いときますけど、みたいな感じで尋ねた。
「そうかなと思ってたけど。誰か誘う?」
「いやいや全然、二人でいいよ、行こう」
出会って三年になるが、二人で遊びに行ったことはなかった。
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