八、文月の二十六夜待
夜空に浮かぶ輝かしい月は大きく、薄暗い庭の中、磨かれた石畳や白い灯篭が月明かりを浴びてぼんやりと輝いているようだ。
春之信さんが手にする提灯の明かりは、もしかしたら必要ないんじゃないかしら。
「足元にお気を付けください」
「ありがとうございます。恒和の月はとても美しいですね。明かりがなくても歩けそうなくらい、輝いています」
「そうですね。
春之信さんと並んで歩いていると、風がふわりと吹き抜けた。
「夜風が気持ち良いですね」
「今宵は少し涼しかもしれません」
「恒和の夏は過ごしやすくて良いですね」
「夏ですか……文月は、暦の上ではもう秋なのですが」
「え! そうなんですか?」
「国が違えば、季節もずれるということですね」
「ふふっ、面白いですね。でも、そうするともうすぐ寒くなりますね」
「ええ。こうして浴衣で外を歩くのも、もう僅かでしょう」
そう言った春之信さんは、お銀様がもっと早くに浴衣を渡そうとしてくれていたことを打ち明けてくれた。だけど、私が振袖で苦労していたのを見ていた彼が、迷惑になるのではと言ったことで遅れたらしい。
「もう少し早く、お渡しすれば良かったです」
「そんな、気にしないでください。来年、また着ますから」
「来年……そうですね」
少し驚いた顔をした春之信さんは、目を細めて笑った。
薄暗い中で見える微笑みにどきりと鼓動が跳ね、頬が熱くなる。
また来年もこうして一緒に月を見られたら。──言葉に出来たら良かったのかもしれない。だけど、とても気恥ずかしく感じてしまって、私は慌てて話題を変えた。
「あ、あの! そう言えば、どうして文に月と書くのですか? この時期に文を書く風習でもあるのでしょうか?」
我ながら、話しを変えるのが上手いと思ったわ。
エウロパの月名は神様や皇帝の名前が由来だったりする。文月に当たるJulyは、暦を作ったジュリアスの誕生月が由来だったわ。風情の欠片もない話だ。
風流な恒和の人たちだから、きっと、月の名前にもエウロパと違う考え方からついているんだと思うの。とっさに変えた話題だけど、とても興味深いところよ。
春之信さんは、話題が変わったことを疑問に思わなかったのだろう。ああと相槌を打って話し始めた。
「文月には七夕という風習があります。その日に、詩や歌を詠んだり書物を開いて干すという習わしがあるのです」
「やっぱり風流な由来ですね。エウロパの人々にもその風情を学ばせたいものです」
「エウロパの呼び方は人や神の名が由来でしたね」
「自分の名をつけた人々は、どれだけ自己主張が強いのかしら」
「名を残すだけの人物だったということでしょう」
「そうでしょうか? それに比べ、時期の風習が由来だなんて恒和の人々は感性が豊かな証拠ですね」
池の側まできて立ち止まると、春之信さんは可笑しそうに笑みを浮かべた。
「薬師殿は、本当に恒和がお好きなのですね」
「はい。大好きです! ずっと来たいと思っていました。色々なことを見聞きして、さらに好きになってます」
むしろ、私は生まれる国を間違えたんじゃないかって思うくらい、ここでの生活は楽しい。
勿論、初めてのことばかりで、私は子どもみたいにはしゃいでいるだけかもしれない。本当に恒和で生まれ育ったら、逆にエウロパに憧れていたのかも。それでも、私は今がとても楽しい。
「恒和でこうして過ごすのは楽しいって思うの、おかしいでしょうか?」
「いいえ。ただ……こちらにいられるのは、五年でしたか」
春之信さんの声が少し寂しそうに聞こえたのは、私の気のせいだろうか。月明かりに照らされた横顔を見て、胸がきゅっと締め付けられた。
そうだ。五年が過ぎたら私は恒和を去らなければいけないんだった。──忘れていた訳じゃないけど、改めて思うと、私に残された時間がとたんに短いもののような気がしてきた。
「まだ先のことを言い出してしまし、気分を害されたでしょうか」
黙ってしまった私の方を見て笑う春之信さんの瞳が、切なそうに細められる。
「あ、あの。いいえ……」
「そうだ」
「──はい?」
「文月には他の呼び名もあるのですよ。
「そうか。こちらはもう秋でしたね」
「ええ。他にも、七夕月と呼ぶこともあります」
「先ほどの風習ですね。七夕と言うのは、どういったものですか?」
話題が変わったことに少しほっとして、私は春之信さんに尋ねた。
にこりと笑った春之信さんは夜空を見上げた。
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