その宿、予約困難につき

八月 猫

第1話 温泉宿 黄昏

 私は深い闇の中に立っていた。

 足元も見えず、ただ立っている感覚だけは伝わってくる。

 何も見えず、何も聞こえない。ただただ闇が広がっているだけ。


 波紋が広がる。

 自分を中心に闇の波紋が広がっていく。

 光の差さない空間なのに、はっきりとその波紋が見える。

 そしてゆっくりと自分の身体がその波紋の中へと沈んでいく。

 抗おうとも身体は動かない。

 でも恐怖もなかった。

 そうすることが当然であるかのように受け入れ、闇の中へと沈んでいくままに身を任せた。


 やがて闇の中に私は頭まで沈んでしまった。

 でも、沈んだ先も闇。

 それまでと何も変わらない真っ暗な空間が広がっているだけ。

 ほんの少しだけ息苦しさを感じたけれど、身体全体は逆に心地よさに包まれていた。


 ゆっくりと私の意識は遠のいていく。

 少しの息苦しさと、全身を包む心地よさに包まれて、すぅっと何かに引き寄せられているかのように意識が私の身体から離れていった。


「――い。――よ」


 遠くで誰かの声が聞こえる。

 ああ、そうか。

 私の意識はこの声に呼ばれていたんだ。


 薄れていた意識が再び私の中へと戻ってくる。

 そしてその声の聞こえる方向へと歩いていった。



「起きなさい。もう仕事の時間よ」


 ゆっくりと目を開けると、そこには母親の顔があった。


「もう、頭まで布団を被って寝てるなんて、そんなに起きるのが嫌だったの?」


 呆れたような母親の声。

 私は暖かな布団の余韻に浸りながらその声を聞いていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「なあ……本当にこんなところにあるのか?」

 歩き疲れたのか、最後尾を歩いている雄二ゆうじの文句を言う回数が増えてきていた。


「本当だって。地図によればもう少ししたら着くから頑張ってくれ」

 実際、雄二に限らず、俺を含めた他の三人もいい加減疲れていた。


 秘湯の温泉宿。そういえば聞こえは良いが、今回向かっている先は秘湯というよりも秘境。車の通れる道も無いほどの山奥にある隠れた温泉宿だった。

 宿の人はどうやって町と行き来しているのかと思う程の山奥。

 俺たちは獣道のような細道をひたすら歩いて宿へと向かっていた。


 山道に入ってもう1時間は歩いただろう。しかし、普段そんなに歩くことのない俺たちのスピードでは、慣れない山道ということもあって、予定よりも全然進めてはいなかった。


 スマホの地図を開いて現在地を確認しようとすると、どうしたことか回線が繋がらない。


「マジかよ……」

 俺は思わず呟いてしまった。


「どうしたの?」

 その声が聞こえたのだろう。すぐ後ろを歩いていた恭子きょうこが俺に声をかけてきた。

 場所が場所だけに余計な不安を与えたくはなかったんだけどな。


「ちょっと電波が悪いみたいで、ネットが繋がらないんだ」

 俺は恭子に正直に話した。


「嘘?!ちょっと待って!」

 恭子も自分のスマホを取り出して画面を見た。


「ほんとだ……圏外になってる……」

「噓でしょ?!うわ……」

「げっ…俺のもだ……」

 朱莉あかりと雄二も自分のスマホを確認して驚いている。


「どんだけ田舎なんだよ。ほんとにここ日本かよ」

「これだけ山奥なら電波が来てなくても仕方ないんじゃないか?」

「いや、マジそんなの聞いたことねえよ……」

「私も……」

「凄いところに来ちゃったね……」

 今更だけど俺もそう思ってるよ。


 そして更に歩くこと1時間。

 辺りが薄暗くなった頃、ようやく目的の温泉宿に到着した。


『温泉宿 黄昏たそがれ


 歴史を感じさせる日本家屋の平屋建ての温泉宿。

 その入り口横の小さな立て看板にそう書かれていた。



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