こがれた光はまぶしいか? 2

 四月も中旬になった。

 前回はおれはこの頃から脱落していったのだが、今回はうまく陽キャグループの一員としてやれている。


 っていうか名前が『いっちゃんクラブ』だからな。

 おれが抜けたら名前変えなくちゃいけないくらい、おれはこのグループの重要人物になっている。


 いや? むしろリーダーと言って差し支えないかも知れない。


 前回のリーダーポジションは確実に隼人だったが、今回はおれになっている。

 冗談だろ?

 自分の実力に似合わない出世をしてしまった会社員ってこんな気分だろうか。

 おれはなんか、申し訳なくなってくるな。

 おれなんかが本当にこのグループのリーダー格でいいんだろうか。


 というか、椎名真夏が所属しているグループってこともあって、けっこう上級生の訪問者もうちのクラスに来たりする。

 真夏は美しい。そして可愛い。

 ひるがえっておれなんかが同じグループにいてもいいんだろうか。


『なんだあの虫けらみたいな男。真夏様に近付くんじゃねぇ!』


 とか思われてそうだ。

 とほほ。まぁ周りからバカにされてるのは慣れてるからな。


 閑話休題。

 今日は一斉下校の日だ。

 うちの学校は月に一回職員会議の日があって、その日は基本的に校内での部活動は禁止、生徒は全面的に一斉下校を命じられる。


 そのため部活のきつい運動部なんかは、けっこう喜んだりする。

 一体なんのために部活やってんだ、とか思われるかも知れないが、おれも前回はそうだった。


 うちの野球部のメニュー、マジできつい。

 おまけに多少の雨なら気にせずに練習をする。グラウンドでだ。

 雨でだるい、プラスして、グラウンド整備がもっとだるい。

 負のオンパレードだった。

 今でも顧問の先生とたまに廊下ですれ違うたび、ドキッとしているおれがいる。


 まぁ今回は赤の他人なんだけどな。

 それでも前世で刷り込まれたトラウマというのは拭えない。

 今は帰りのホームルーム前のちょっとした空き時間。

 おれたちはいつものように、教室の後ろで駄弁っていた。

 いつもの六人だ。いつの間にかこの場所でくっちゃべるのが日課になっている。


「………………自主練?」


 奏歌が疑問形で言った。


「おうよ。野球部たるもの、練習はかかせねーだろ。だから奏歌にも練習付き合ってもらおうと思ってよ」

「いいよ全然。ってか、たしかに練習ない日に体動かさないと、体なまりそうで怖いよねー」


 そういうもんか?

 おれにはよくわからない考え方だった。

 まぁ奏歌も健太も練習熱心なのだろう。

 奏歌はまだレギュラー入りしてないが、健太はもうバッチリレギュラー候補に入ってるらしい。試合にも出てると聞いた。


 まだ四月の中旬だというのに。

 中学からほぼほぼ推薦みたいな形で入ったからな。

 それくらい期待されていると言うことだろう。


「あ! それならさ、サキサキもよんでいい? 私の友達で、女子野球部なの。すっごくうまいんだよー。健太もビックリすると思う」

「ふん。女ごときがおれに勝てると思うなよ」


「もうダメだって! そういうの今すっごく厳しいんだからね! 男女差別ダメ絶対!」


 そりゃそうだ。今の健太の発言はちょっとよくなかったな。

 しかし健太も気にした様子は見せない。

 こいつは図太いからな。


「ふーん、ま。べつにかまわねーぞ」


 健太はどうでも良さそうに答えた。

 そこに結衣が手を挙げて、


「はーい、その練習私も見に行きたい。どうせなら真夏もいっちゃんも隼人も一緒に行こうよ。きっとその方がプレッシャーになっていい練習になると思うし」

「名案だな。たしかにそっちの方が面白そうだ」

「ですが申し訳ない気もします。できれば集中させてあげた方がよいのではないかと」


 天使様のような発言をしたのはもちろん真夏である。

 この子はドがつくほど真面目なのだ。

 だからこそ、男子に好かれ、よく告白される。

 まぁ男子の百パーセントは玉砕するんだけどな。


「いいぜ。べつに見られてもおれは大して緊張しねーし」

「私も全然オッケー。一応サキサキにも連絡しとくけど、あの子も多分オッケーしてくれる。メンタルばかつよだから」


 たしかにな。

 ちなみにさっきから話題に上がってるサキサキという人物は、おれの幼なじみの由比ヶ浜沙希のことだ。

 あいつのメンタルは異常だ。


 いったい前世でどれくらいの徳を積んだんだろうか。

 そういえばあいつ、イケメンな彼氏が欲しいと言っていた。

 うちのグループの男子は、おれ以外はイケメンである。

 いやまぁ、おれもイケメンかも知れないが、二人には負けるだろう。

 だから沙希も喜ぶんじゃないか?


 ちょっとばかしジェラシーを感じるが、べつにあいつにジェラシーを抱いたところでどうしようもない。

 おれが好きなのは真夏一人であって、沙希ではないからな。

 あぁあと妹も好きだ。ただし妹は恋愛対象じゃない。


「ようっし! そうと決まれば放課後はいったん家に帰って、綾小路公園に集合ね! 遅れたららアイスおごりってことで!」


 アイスおごり、か。

 リア充たちにとっては何気ないイベントなんだろうが、おれのやってみたかったイベントの一つである。

 いや、前回もやったな。


 やったが、けっきょくおれが一番最後になって、けどみんなに『黒崎に奢らせるのはちょっと申し訳ないから、べつにアイスの件はなしでいいよ』とか言われたんだっけ。


 うーん、思い返しただけでも黒歴史だ。

 思わず発狂したくなってしまうほどに、黒歴史だ。

 思えばあのとき、おれはこのグループにはいられないな、と思ったんだっけ。


「おーい、どうしたのいっちゃん? なんか元気ない?」

「あぁいや。なんでもない。ただ健太がどれくらいすごいのかと思ってな」

「それな! エラーしたら茶化してやろっ!」


 結衣はイタズラめいた笑顔を浮かべた。

 ダメだぞ。エラーした野球部員って、めっちゃナイーブになってるからな。

 まぁ健太ならいいだろうけど、他の人は絶対茶化すなよ。


 特に後ろに反らしたときのむなしさ半端ないからな……外野の場合。

 まぁ関係ない話は置いといて。

 おれたちはこうして、公園に向かうことになった。




 おれについて話しておこう。

 高校まで野球を続けていたおれは、大学に入っても野球サークルに入った。

 このサークル、めちゃくちゃうまいってほどでもない。

 やる気はあるけど、実力は中堅クラスと言ったところか。


 おれはそこの、まぁ一応はエースだった。

 高校時代に強豪校に所属していたって言うのもあって、期待値が高かった。

 だからこそ、おれは陰でこそこそ練習をしていた。

 部活ではなくサークルだったのがよかった。

 高校に比べて遥かに全体練習の量が減った。

 おれはそこでのびのびと野球をやった。

 あくまでサークル活動としてだ。


 だがおれは自主練習を欠かさなかったこともあり、エース級のピッチャーに登り詰めた。

 まぁ、何度も言うが、あくまでサークルだ。

 お遊びの中でのエースなど、たかが知れている。




「あなたも一緒だとは思わなかったわ」


 公園に着くなり沙希に言われた。


「え、なに? 知り合いなの?」

「いや……まぁなに、一応話したことはある程度だな」


 俺はしどろもどろになりながらも答えた。

 正直沙希と仲がいいことは知られたくない。

 沙希からおれの情報がこのメンバーにバレてしまうのがいやだからである。

 しかし、沙希は大人だった。

 大人になろうとしているおれを見守ってくれるほど大人だった。


「えぇそうね。放課後私がプリント運ぶのをたいへんそうにしてたら、彼が手伝ってくれてね」

「へーそうなんだー。やっぱりいっちゃんって誰にでも気を配れるんだね」


 ありがとう幼なじみよ。

 おれは若干涙が出そうになる。

 この幼なじみの精神年齢はいくつなのだろうか。

 おれは精神年齢二十四歳だが、もしかしたら彼女も青春生活やり直してるんじゃなかろうか。

 いや、そんな設定はないだろうさすがに。


 なぜなら沙希は昔からこんな感じだった。

 前回からなにも変わっていない。

 おれを遠くから見守ってくれる、聖母のような女の子。

 一時期は、沙希のことが好きだったこともある。

 ケド今は違う。

 おれは真夏のことが好きなのだ。

 それを忘れちゃいけない。


「おーっす。お前が由比ヶ浜か。どうする? どうやって練習する?」

「そうねー、とりあえずウォーミングアップも兼ねてキャッチボールしましょうか」

「おう。そうすっか。一対二でいいか」

「えぇいいわ。よろしく頼むわね」

「よっしゃー。男子の球とるの久しぶりだー。中学以来かな」


 赤いグローブをぱんぱん拳で叩いて準備万端な奏歌。

 そして沙希は、黄色いグローブをはめた。

 どちらも右投げなので、左側にグローブをはめている。


 ちなみに野球を知らない人のために説明しておくと、グローブの形状って言うのはポジションごとに異なる。

 奏歌は外野手用の長いグローブ。そして沙希は内野手用の、ポケット浅めのグローブだ。  

 ばしっ、ばしっ、とキャッチボールが開始される。

 見ていると、やっぱり全員うまいなと感じる。


 健太の方が男子だからもちろん女子二人に比べて遥かにうまいのはあるが、それにしたって女子二人もうますぎる。

 もしかしたら今のおれよりもうまいかもな。

 おれはしばらく野球をやってない。


 大学の二年生くらいまではサークルに通ってたが、三年になって研究が忙しくなり、ほとんど体を動かすことはなくなった。

 それでも当時の勘を思い出せばそれなりにプレイできるだろうが、まぁ今回の学校生活、おれは野球をやるつもりは一切ない。

 見てる専門だ。




「へー。健太が野球やってるところ初めて見たけど、なんつーか、プロっぽいよねー」

「もう結衣さん。さすがにその言い方は失礼ですよ」


「はは。まぁたしかにね。クラスメイトのふだんあまり見ない姿を見ると、なんか新鮮な気持ちになるよね」

「そうだな。あいつって野球部だったんだな、って感じがする」


「あーそれなー。たしかに。わかるわかる」


 とりとめのない会話をしながらおれたちは三人のキャッチボールを眺める。

 かつて、おれのキャッチボール相手は最初は健太だった。

 だが彼はうまい。

 おれなんかと違ってな。


 もちろん強豪校で、控え選手になれるおれもそこそこはうまい方だ。

 だが健太に比べると劣る。

 それに向こうは一年生から試合に出てた身だ。

 おれなんかが健太とキャッチボールしていていいのだろうか。

 そんな引け目が健太にも伝わってしまったのだろう。

 彼は他のレギュラーメンバーとキャッチボールするようになってしまった。


 そこにむなしさを覚えたことは当時はなかったが、今となってはやっぱり寂しかったんだなと思う。

 おれは健太と奏歌と沙希のキャッチボールの様子を眺めながら、ぼんやりとしていた。

 心なしか、奏歌のボールを捕るときの健太に違和感がある様な気がする。


 気のせいか?

 もしかしたら、奏歌に対して気を遣っているのかも知れない。

 男子から見ると、奏歌のプレイはおぼつかないように見えるのか?

 だからていねいなプレイを心がけている、とかか?

 まぁどうでもいいか。

 すると奏歌が暴投した。


「おい! どこ投げてやがる!」

「あっはは! ちょっと手が滑っちゃった! ごめーん、とってきてー!」

「ったくしょうがねぇな……」


 ボールがコロコロと、こちらに向かって転がってくる。

 おれはどうしようか、と迷った。

 ボールに触れたら、また野球をしたいと思ってしまうかも知れない。


 健太との関係性は疎遠になってしまった過去があるとは言え、べつに野球自体が嫌いなわけじゃない。

 しばし悩んだあげく、おれはゆっくりと立ち上がってボールを拾いに行くことにした。


「わりぃないつき! こっち投げられるか!?」


 投げられるか、か。

 健太はおれが前世で野球をやっていたことなんて知らないのだろう。

 今それをまざまざと実感した。

 いや実感って言い方も変か。

 健太は当然知らないのだ。おれが野球をやっていたことなど。


 おれはすっと、ボールを体の前に持ってきた。それから親指と人差し指で軽く弾くようにボールを上に上げる。

 健太がファーストミットを軽く構えた。この角度なら、おれが多少暴投したところで奏歌たちがカバーできると考えているらしい。


 ったく、なめられたもんだぜ。

 おれはこの瞬間、自分はどうしようもなく男の子なんだなと実感した。


「行くぞ!」

「おう、暴投しても後ろいるから安心しな!」


 おれはすっと、振りかぶった。

 その動きがスムーズだったことに驚いたのか、健太が驚いた表情を浮かべた。だがおれは動作をやめない。投球動作を途中でやめるのは反則だ。


 軸足である右足を健太に平行になるようにし、おれは左足を高く上げた。日差しが強い。おれの背中に強く温かい光が差し込んでくる。


「うわ、めっちゃサマになってる」


 後ろから結衣の声が聞こえるがおれは気にしない。もともと投手をやっていて、背後からの声は散々聞いてきた。なぜか投手をやっているときはセンターからの声が良く聞こえるんだよな。


「お、おい……」


 健太の戸惑いがちな声が聞こえる。珍しいな。お前がおれとのキャッチボールでそんなにびくつくことがあるなんて。


「ちゃんと受け止めてくれよ」おれは上げた足を固定させて言った。


 そのまま体重を水平にずらすように移行させる。上半身の力はできるだけ抜いて、リリースの瞬間まで力を込めない。ボールは軽く握っている。それこそ今腕を叩かれたら簡単に落ちるくらいに軽く――


 左足をざっと下ろして――一気に腕を振り抜いた。


 瞬間、

 ばちーん、


 と甲高い音が鳴り響いた。


「………………………………おいおい、マジかよ」


 健太の驚いた声。

 そのあとに背後からぴゅうという口笛。


「いっちゃん野球やってたな」


 どうやら口笛の犯人は隼人らしかった。

 おれは振り抜いた腕を元の位置に戻すと、額の汗をぬぐってから言った。


「いや、ちょっとな。父親と昔キャッチボールよくしてたもんだから」

「す、すごいね……あんなに球速いなんて思わなかった。て、ってか見えなかったし!」


 結衣も目を丸くして言った。

 そうか。

 素人目には速く見えるのか。


「お、お前……! 百四十前半は出てたぞ今の……!?」


 百四十前半か……。まぁたしかにそれくらい出ていただろう。

 べつに驚くことじゃない。

 大学時代は百四十後半は出せた。強豪校のベンチ入りをしていれば、大学ではそれくらい出せる。

 それに健太だって、おれと同じくらいの球速出すのは余裕だろう。


「そうか?」


 ここで首を傾げるとものすごいウザい奴になってしまうことはわかっていたので、おれはあえて堂々と聞き返した。

 まぁたしかに。ふつう百四十キロ出せる奴なんて、まずいないからな。


「あなた……そんな特技があったの?」


 若干悔しげな感じで沙希が近付いてくる。

 彼女ももちろんおれが野球をやっていたことなんぞ知らない。


「体の動かし方とか、色々教えてもらった。それでまぁ、おれも意外に才能があったのかもな」


 なんだか自分で言っていて支離滅裂な言い訳だと思った。

 言い訳として体を成してないような気がする。

 だがおれの言い訳なんかよりも、おれがこれだけ速い球を投げれることが意外だったらしい。


 特に真夏なんかは、おれに対して尊敬の眼差しを向けてきてくれている。

 ちょっと嬉しかった。

 だが、とおれは思う。

 ちょっとやり過ぎたかも知れない。

 おれが望んでいたのはリア充になって、最終的に真夏と恋人になることだ。


 その目標に、おれが野球がうまいという要素は、果たして必要だっただろうか。

 たしかにスポーツできる方がかっこいい。

 だがうますぎるってのも考えものだ。

 おれが徐々に冷や汗を流し始めていると、目を輝かせている奏歌がパチンと手を叩いた。

 なんだ、お前今幸せなのか?


「すごいねいっちゃん! 私めっちゃ感動しちゃったよ! あんなにかっこよく投げれる人、男子野球部にもそんなにいないんじゃないかなぁ!?」


 そんなわきゃないだろう……。

 おれは突っ込みたい衝動を抑え込んだ。

 みんなフォームはきれいなはずだ。


「ま、まぁたしかに。うまめな素人にしては、フォームきれいだったんじゃないか?」

「だよねだよね! ……ってあれ、もしかして健太、ちょっと嫉妬してる?」


「いやそんなわけはねぇよ。たしかにうまいな、とは思ったが、嫉妬してるってわけもねぇ。だいたいおれはすげぇモンはすげぇと認めるタイプだぜ」


 そうか……。

 おれは少々複雑な思いでその言葉を聞いた。


「だがストレートが速いだけじゃ、バッターは打ち取れねぇからな」

「おぉ。素人相手にそこまで言っちゃうってことは、めっちゃ認めてるってことですね健太くん!?」

「ばっ!? ちげーよ! いやちがくねぇけどさ……」


 どっちなんだ。

 このどっちつかずなところがいかにも健太らしい。


「ねぇ、せっかくだから黒崎くんと軽井沢くんで勝負してみたら? 軽井沢君が打席に立って、黒崎くんが投げる。一打席勝負ってところでどう?」


 なんちゅう提案をするんだこの幼なじみは!?

 おれは驚いた。

 まさかこんな提案をされるとは思ってもみなかったから。


「あ、いーね! 見てみたい! いっちゃんのボールがどこまで通用するのか!」

「私も私も! なんか男同士の直接対決って、見てるとめっちゃ燃えるんだよねー! やってよ!」

「はぁ? お、おれがやるのか? いや、でもよ……」


 弱気になる健太。こんな健太はなかなか見れないぞ。


「あっれー? 健太くんもしかして負けるのが怖いのかな?」

「ち、ちげーよ。ただ初心者いじめるのもちょっと可哀相だなと思っただけだ」


「そっかー。健太くんそんなに勝てる自信あるんだー。じゃあハンデなしだね。フォアボールでも、健太の勝ちってことでいいね」


 おう。

 ふつうだったらハンデありのところを、ハンデなしで戦う。

 もちろんおれに不利になる提案だが、負けたときのリスクは健太の方がデカい。

 おれは素人、健太はガチだ。


「おういいぜ。おれが負けるわけがない」

「おっ! 言ったねー。じゃあ真剣勝負だね!」


 止める者はいなかった。おれもうなずいた。

 おれは健太を睨みつける。健太もおれを睨みつける。

 べつにケンカを始めるってわけじゃない。

 ただそこには、男同士の真剣勝負が横たわってるってだけの話だ。


 いいぜ、健太。


 健太の表情は自信に満ちあふれていた。それでこそ彼だ。健太にはその表情が一番似合う。

 憧れていた太陽と影に隠れていたおれの真剣勝負が幕を開けた。




 おれは健太から借りたファーストミットを拳で二回ほど叩いて、奏歌から投げられたボールを受け取った。

 ぱしん、と乾いたいい音が鳴った。日々のお手入れを欠かしていない証拠だろう。

 しかしファーストミットの感触は懐かしいな。


 高校時代はずっとファーストを守っていたが、大学時代はピッチャーだった。

 だから六年ぶり……くらいになるか。そんなに長い間ミットとはご無沙汰だったのか。


 実に感慨深いな。


 おれが健太のファーストミットのポケット部分をじっと見つめていると「おーいどうしたー」と健太から声を掛けられた。

 健太は今バッターボックスに入っている。即席のバッターボックスだ。べつに白線を引いたわけじゃない。バットで地面に線を引いただけだ。


 おれは今マウンドに立っている。測ったわけじゃないが、感覚で十八メートルくらいのところに立っている。

 慣れ親しんだ距離だ。おれは健太と相対する。

 しかし健太の奴改めて見るとかなりデカいな。百八十センチは優に超えているだろう。


 大学でここまでデカい奴に会ったことがなかったので、おれは若干冷や汗を垂らす。

 なんだかんだ言って、健太とこうやってピッチャー対バッターで向かい合うのは初めてだ。


 おれと健太は高校時代はずっと同じファーストというポジションだったからな。まぁおれの場合、外野だった時期もあったが、基本的には健太の控えだ。

 だからこそ、同じ舞台に立ちたかった。


 砂埃が舞った。「頑張れー」と奏歌の声援が響いた。ちなみに彼女がどちらを応援しているのかはよくわからない。頑張って欲しい奴に頑張って欲しいという意味だろう。


「が、頑張って下さい!」


 こちらは真夏の声援だ。珍しいな。真夏がこんなに大声を上げるなんて。

 声自体は小さいが、彼女の声はよく透き通る。おかげでおれに良く聞こえた。

 おれはすっと右手を挙げて答えた。応援されているのはおれじゃなくて健太って言う可能性もあったが、多分おれの方だろうという確信があった。


 さっき真夏はおれの方を尊敬の眼差しで見ていたからな。

 ……………………いや、まさか健太の方を応援してるとかないよね?

 だとしたらごめん。おれの早とちりだった。


 え? そんなことないよな……と思って真夏の方を向くと、バッチリおれと目が合った。  

 どうやらおれのことを応援してくれているらしい。

 他のみんなも、だ。

 おれに対して期待の眼差しを送ってきている。


 よく考えれば当然っちゃ当然か。おれは素人で、向こうは現役野球部員。それも推薦に近い形で入部した期待のルーキー。

 ふつうなら健太が勝つと思うだろう。だが観客としては、おれが勝つ方に期待する。


 なぜか?

 そっちの方が面白いからだ。

 やってやるぜ健太。おれはずっとお前に勝てなかった。

 だけど今度こそお前に勝ってみせる。



 ――おれ、お前のことあんま好きじゃねぇわ



 前回健太に言われたことだ。おれはショックを受けた。三年生の頃だったか。

 だがあのときのおれじゃない。

 おれはお前にふさわしい男になる。

 いやなんか表現がおかしいか。

 だがお前に負けないくらいの男にはなってやりたいんだよ。


 おれはぐるりと肩を回した。それからボールを強く握りしめる。


 バッターの健太がゆらりと構えた。ゆーらゆーらとバットが揺らされる。その力感のない構えから、高校通算四十本の本塁打を放つことになるのだが、今の彼が知る由もない。


 ネット裏には沙希が腕組みして構えている。審判である。


 ちなみにキャッチャーはいない。防具がないからだ。それに女子野球部員二人は、おれの球を受けきれるとも思えなかった。


 だから公園のバックネットに向かって思い切り放り込むことになる。

 慣れないが、まぁ仕方ない。

 それよりも目の前のバッターに集中しよう。


 健太の構えは修羅のようだった。しかしそれは前回の野球部内で感じていたことであり、今は不思議と威圧感は感じなかった。


 ――勝てる


 おれはなぜかその確信があった。

 手始めにインローに直球を投げ込んだ。

 健太はそれをタイミングバッチリに踏み込んで、見逃した。


「ストライーク!」


 歓声が上がる。おれの球の速さに驚いた観客たちの声だ。

 ちなみに観客は友達以外にも、近所の野球少年が混じっていた。

 それくらいおれたちの戦いが白熱していると言うことだろう。


 ――燃えてきた


 おれは健太からボールを受け取って、ばしんとキャッチする。


「どうした、手も足も出なかったのか?」

「……アホか。初球は見逃す主義なんだよ」


 そうだったな。

 お前は九十パーセントくらいの割合で初球は見逃す。ボールになれるためだ。

 そこでタイミングを測るのだ。

 健太の踏み込みのタイミングはドンピシャだった。

 コース事態もそこまで厳しくなかったから、もしバットを出してたらレフトスタンドまで運ばれてたかもな。


 ――おもしれぇじゃねぇか


 おれは振りかぶる。お次はアウトロー、ストライクからボールに外れるスライダーを投じた。


「ボール!」


 歓声がなりをひそめた。健太が息を呑んだ音が聞こえたが、どうやらおれにしか聞こえてないらしい。


「ねぇねぇ、なんかいっちゃんさっきよりも球遅くなかった?」


 結衣が疑問を発したのが聞こえた。たしかに、素人から見たらそう見えるかも知れない。それに直線上で見てないから今のが変化球だなんて、素人は気づかないだろうな。


「うっそ! 今スライダー!? めっちゃ曲がった! うわやば!」

「正直侮ってたぜ……。お前変化球も投げられんのかよ……」


 健太が冷や汗を垂らしながら言った。

 そうだよ、悪かったな。


 ――俺はにやりと笑った。


 楽しい。

 おれはこの勝負が楽しくて仕方ない。


「えっと結衣に教えておくと、今のは変化球って言って、すっごい曲がるボール! だからさっきのボールより遅く見えるんだよ!」

「へ、へぇ……」


 解説どうも、奏歌ちゃん。

 おれはボールを受け取って、すぐにモーションに入った。

 カウントはワンボールワンストライク。

 そうだな……と少し考えて、おれは投げるコースを決定した。

 びゅっと投げられた直球は、健太の胸元すれすれを通過した。


「……ボール」


 判定はボールか。まぁ当然か。

 インハイの直球。しかし健太をのけぞらせることには成功した。

 この球を見た健太は、表情をがらりと変えた。


 ――お遊びじゃない


 そうその目が語っていた。

 どうやらおれを本気で敵と認識してくれたらしい。

 ありがとよ。


 アウトコースギリ外れたスライダーに、直後のインハイの直球。セオリー通り行くならここはアウトローにストレートを投げ込むところだが、おれはあえてインローにストレートを投げ込んだ。


「くっ!」


 健太が慌ててバットを出す。ファウルチップがバックネットに食い込み、やがてボールが落ちてくる。


「ファール」


 これでカウントはツーボールツーストライク。バッティングカウントだ。

 おれにはハンデがない。つまりフォアボールを出した時点でおれの負けだ。

 これはおれと健太の真剣勝負なのだ。


「す、すごいです……健太さんをあそこまで」

「あの表情、がちなときの健太だね」


 外でなにか聞こえるが、おれは聞こえないふりをした。集中を乱すな。

 健太はもうなにも言わない。そりゃそうだ。男と男のぶつかり合いに、言葉なんていらない。


「ツーボールツーストライク! プレイ!」


 沙希が人差し指を折れに向けて、プレイが再開された。

 おれは大きく息を吸って、モーションに入る。

 そして大きく弧を描くボールを投じた。

 健太は突然の変化球にも応じず、ただそのボールを見送った。


「ボール」


 久々に投げたカーブは、大きく外側に逸れてしまった。だがそれで精神状態をくずすほどおれはやわじゃない。打たれ慣れてるからな。

 おれはボールを受け取った。


 再びすぐにモーションに入る。スリーボールツーストライク。お互いにとってあとがないが、おれは全力で腕を振った。

 健太がタイミングを取る。

 投げたのはアウトロー一杯のストレート。つまり決め球だ。

 健太がスイングに入る。おれはその瞬間、悟った。


 ――あぁ、お前、やっぱすげぇわ


 かっっきーーーーーーーーーん!


 盛大な音が響き渡った。打球はぐんぐん伸びていく。その打球をみんなが目で追っていく。


 打った健太はフォロースルーの態勢から一歩も動かない。それくらいジャストミートした。ネット越えを確信したのだ。

 巨大な放物線を描いて空に浮かぶ太陽まで届きそうなその打球は、ぼすん、と音を立てて地面に落ちた。すさまじい打球だ。


 優に百四十メートルは飛んでいた。

 おれはぞわっと、鳥肌が立った。


 やっぱすげぇわ。お前。


 おれはそれから、再びぐるりと肩を回した。

 多分甲子園だったら、観客全員が総立ちになるような当たりだった。


 

 ――もっとも、それが線の内側に入ってれば、の話だが。



「………………ザンネンながら、ファウルね」


 健太は表情を崩さない。それくらい精神を集中させている。

 しばらくして奏歌がボールを取りに行き、すぐにおれの手元に渡された。


 まだ、勝負は続く。

 おれと健太の視線が交錯する。

 いい。

 いいぞその目。

 おれはゆっくりと、力強く振りかぶる。


 思えば、おれがお前にかなうことなんてなかった。いつもお前の背中ばかり追いかけていた。野球部内ではいつもお前の陰に隠れていた。お前が主将になったときも、おれはただお前に迷惑を掛けないように立ち回っただけだった。


 そんなお前が、今おれのことをきちんと相手として認めてくれている。

 決めた。

 おれは負けねぇよ、絶対に。


 体中をアドレナリンが駆けめぐってる感じがした。体が気持ちよく動く。いわばゾーン状態に入った。絶対に狙ったコースを外す気がしない。絶対に打たれる気がしない。そうだ、打てるモンなら打って見やがれッ! 


 おれは思いきり踏み込んだ。ざッ!――という音がグラウンド中に響き渡り、おれは思いきり腕を振り抜いた。

 さっきと同じコースだ。アウトロー一杯。おれは投げきったあとも片眼でボールを見続けていた。


 いけッ


 健太が踏み込む。

 ボールよりも遥かにスイングスピードの方が速い。当たれば確実にスタンドに行くであろうそのスイングは、


 ボールの真上を空振りした。


 思い切りバットを振り抜いた健太はその場に尻餅を付いた。こんな健太もう二度と見られないであろう光景だ。


「スイング、バッターアウト!」


 ぉおおおおおおおおおおおッ! と歓声が鳴り響いた。見たら公園中に四十人くらい人が集まっていた。それくらい白熱した戦いだったって言うことらしい。

 健太が「クソッ!」と叫んでバットを叩き付けた。健太のいつものクセだ。


「…………さすがの私も驚いているわ」

「わかってる! わかってるけどよぉッ!」

「えぇそうね。まさかフォークボールまで投げられるなんてね」

「完敗だ。六球目のストレートと完全に同じ腕の振りだった」


 おれの周りにぞろぞろと仲間たちが集まってくる。


「すごいじゃん! いっちゃんマジすごすぎ! 野球部入りなよ!」

「マジですごいってあんた! エースになれるよ絶対!」

「い、いっちゃんさんの意外な特技を見ました……」

「なんかすごい感動したよ……」


 口々に感想を言ってくる、いっちゃんクラブのメンバーたち。

 そこに沙希と健太が歩いてきた。


「わー健太! なっさけなーい!」

「…………るっせぇよ」


 どうやら健太はがちで拗ねているらしい。こういう野球バカなところもおれは嫌いじゃない。

 若干顔を背けているのは、涙を流しているからか。


「まーまーそれくらいにしてあげて。それにしてもあなた、あからさまに素人じゃないわね」

「……ま、まぁ色々とな。父親がうまかったんだ……あはは」


 おれはうまくごまかす。うまく……はないかも知れないが、ごまかさないといけない雰囲気だ。


「手元で消えた。おれの負けだいつき。このボール、お前にやるよ」


 おれは健太からボールを受け取った。なんだ、こいつらしくないな。


「おれが高校で初めてホームラン打ったときのボールなんだ。やるよ」

「い、いいのか。そんな大事なモノを」

「もらっといてくれ。お前すげーよ。ふつうに。野球部入れば松井先輩と二枚看板背負えるくらいにすげー」


 松井先輩か……。松井宏樹先輩。関東のドクターKと呼ばれた人だ。あの人大学入ったあとプロ言っちゃったんだよな。うちの左腕エースだった。今三年生だが、おれが今から野球部入ればもしかしたら松井先輩と肩を並べることができるってことか。


 まぁ、できなくはないだろう。

 むしろそうしろと言ってくる奴が多いのもわかる。

 ケド、おれが目指したいのはべつに野球選手じゃない。

 黄金色の青春を送りたいのだ。


 本気で目指せばプロには入れるかも知れないが、プロ野球選手としてやっていける覚悟はない。

 だからおれは口を開いた。


「悪いな。おれはべつに甲子園目指してるわけじゃない。ただ、今の対決は素直に楽しかった」

「……そうかよ。お前がいてくれればチーム強くなると思うんだけどな。ま、お前が言うならしょうがない。スカウトは失敗だ」


 あえて……だろうか。

 健太は強がった笑みを浮かべた。

 おれはこの瞬間気づいてしまった。

 健太はおれにとって憧れだった。野球がうまいかっこいい男。

 ケドそんな男でも、こんなに弱々しい顔を見せることがある。


 ――こがれた太陽は、意外とまぶしくなかったのかも知れない。


 おれには見えなかったものが、見えてきたってことだろう。

 一週目の青春では、おれ以外のすべてが眩しく見えた。

 ケド、今はみんなのことがはっきり見える。


 それはおれ自身成長したからだろう。

 もしかしたら今の健太にとって、おれの方が太陽に見えてるのかもな。

 そんなことを思った。

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