朝露は日の光に照らされる 2

 なんとか委員会決めが終わった。


 おれたちは午前中の授業(進学校だから新学期始まって早々授業がある)を終えて、お昼休み。


 おれは戸塚先生に呼び出された。


 職員室まで到着。そのまま談話スペースまで連れて行かれる。


「先生? なんで一服し始めてるんでしょうか? 生徒の前ですよ?」


「まぁまぁいいじゃないか。細かいことを気にしていたら、恋人なんてできないぞ?」


「それ先生に思いっきり当てはまってるじゃないですか……?」


 先生は自分で言っておいてなんかショックを受けていた。


 胸の辺りを抑えて「オーマイゴッド、今年こそはアプリでいい男を……!」とか呟いている。


 婚活女子もたいへんだな、まぁ女子じゃないけど、とか失礼なことを考えていると、戸塚先生は足を組んで言った。


「君に頼みがある」


「できる範囲なら聞けますけど、できないことなら断ります」


「まぁそう言うなって。達成した暁には君にご褒美をやろう。『万疋屋』のショートケーキでどうだ?」


「おれは小学生かよ。なんでケーキなんかで釣られないといけないんですかね」


 おれはほとほと呆れたようなため息をつき、かっかっかかか、と笑う戸塚先生を白い目で見た。


 戸塚綾香先生、御年二十九歳は、タバコの火を灰皿に押しつけて消し、おれの顔を見上げた。おれの顔になんかついてます?


「君はお願い事を断れないタイプの人間だと思ってね」


「嫌味ですか? たしかに僕は遂行できる任務ならやりますけど。僕は自分の美学に従って動くことはありますが、他人のニーズに合わせて行動できるほどできた人間じゃないですよ」


「なかなかキミもクセのある人間だな。アタシみたいになっちゃうぞ」


「いやだ!」おれは肩を抱えて身もだえする。「本当にいやだ! 先生みたいになりたくないわ!」


「あっはっは。効果てきめんだな。これぞ文字通り反面教師って奴か?」

「……んで、本題は何なんですか?」


「キミはクラス委員長だ。だからクラスの問題ごとはすべてキミに責任がある。違うかね?」


「……いや違うだろ。なに全部の責任は僕にあるみたいな言い方してるんですか。担任が一番の責任者でしょうが」


「まぁそうともいうな」

「おいはぐらかすなよ」


「まぁ話を聞け。うちのクラスの女子生徒のことなんだが、三浦美琴という名前の子を知っているか?」


 おれは考える。今日一日でクラス全員の名前は覚えた。しかしその子の名前は知っていたが、顔まではわからなかった。


「今日来てませんでしたよね」

「おっ! 君はなかなかの記憶力をしているな」


 すーはー、と先生は息を吸って吐いてしてから、言った。


「端的に言うと、不登校児だ。去年の後半からずっと学校に来ていない」


「いじめとかですか? それなら僕がどうにかできる問題じゃないですし、まさかその問題の根底ごと解決しろとか言うわけじゃないですよね?」


「……………………」


「おいなぜ黙った教師よ」


 おれはため息をつく。なんだか面倒なことに巻き込まれそうな気がするぞ!


 いやだなぁ! 


 やれやれだ。


「先生自分でどうにかできないんですか?」


「いやぁあっはっは! それがな! 私が彼女の家に行っても追い返されてしまってな」


「なにやらかしたんですか」


「うーむ、こういうのは同性の教師が言うよりも、クラスのイケメン男子に説得してもらった方が成功率が格段に上がるんじゃないかと思ってな」


 ……………………なるほどな。


 まぁ理解はできる話だ。同性の教師だったらなにうるせー説教かましてくれてんだよ三十路野郎! 死ね! ってなるだろうが、同じクラスのおれみたいな超絶イケメン君だと意外と心開いてくれる……かもしれない。


 家に実際に言ってみないと分からないが、たしかに先生よりかは遥かに成功率が高いような気がする。


 ケド先生が説得に失敗したのって、単に同性だからという理由だけじゃない気がする。


 説得の技術とかさ……。


「あとその子の見た目とかも教えて貰えると助かります。初対面よりかは、ある程度容姿わかっといた方がやりやすいので。写真とかあります?」


 おれが言うと、戸塚先生は去年度の写真を見せてくれた。クラスの集合写真だ。毎年四月に撮影して、次の週くらいに配られる奴。


「なるほどなぁ……」

「そこの黒髪ロングで、眼鏡を掛けた女の子が美琴ちゃんだ。どうだ、可愛いだろ?」

「……」


 難しいところだ。女の子って眼鏡掛けた瞬間急に地味になっちゃう子ってけっこういるからなぁ。この子は顔立ちが整っているが、猫背なことも相まって、どこか陰気臭漂うというか、正直ぱっとしない。


 どうせなら三つ編みにしてくれた方がキャラ立ちそうまである。


 これは言っちゃダメか。


 ケドやっぱり芋っぽさは強いな。何度も言うが、顔は整ってる方だとは思う。


 ジャガイモと言うよりは里芋といった感じだ(ひどい)。


「どんな感じの性格なんですか?」


「さぁ……私も直接話したわけではない。だからはっきりとしたことは言えないが、やたら噛み付いてくるそうだ。典型的なオタク女子といった感じだろう」


 それは難儀だな。


 正直女の子に対してこういうことを言いたくはないが、性格的な部分はどうにかして欲しい。


 女子の悪口というのは、時として男子にめちゃくちゃダメージを与えるからな。


 んま、この程度の陰キャ眼鏡女子だったら、なにを言われても大丈夫な自信はあるっちゃあるが、それでも『相手は噛み付いてくるから注意してね』とか評価されてる女子とわざわざ会いに行きたいなんて思わない。


 貴重な時間を捧げるにふさわしい人間かというと、はっきり言ってノーだ。


「おれの持論だと、べつに引きこもりたいのなら引きこもってればいいと思いますけどね。学校だけがすべてじゃないですし、高校は義務教育じゃないですしね」


「まぁまぁ。キミの意見は時として辛辣だな。だが的は射ていると思う。

 たしかにその通りだ、としか言いようがない。

 だが教師の立場として、やはり不登校児はほっとくわけにはいかない」


「なるほど。『そして私の力じゃどうしようもない』ってことですね」


「そうだ。ありがとうな。キミはやはり女の味方だ。私の言いたいことすべてわかってくれる」


「女の味方ってわけじゃなくて、学校側に言いように使われてるだけな気もするけどなぁ……」


「あははは。まぁそういうなって。こういうのも勉強のうちさ。学校で椅子に座って学んだことだけがすべてじゃない。足を運んでナンボの時だってあるのさ。走れ若人よ」


「なにかいじめられた理由とか聞いてますか? それがわかるだけでも対処の仕方が変わります」


 戸塚先生は再びタバコに火をつけた。


 それからいじめられた理由について語った。


 戸塚先生はすらすらと語った。美琴がいじめられるに至ったきっかけ。


 ――なるほどそういうことか 


 女子社会っていうのはとても怖い


 とにかく今度の休日か、平日の放課後に彼女のおうちにお邪魔しよう。




 さて。問題を整理しようではないか。


 まず三浦美琴という名前の少女が不登校になりました。


 その少女は去年度の途中まで学校に通っていましたが、あるときから急に学校に来なくなりました。


 その主な理由はいじめです。


 なんとも簡潔な問題だった。


 だが問題というのは、言葉にしてみれば簡潔なほど、根っこの部分が深かったりする。


 彼女がいじめられた理由は、次のようになる。



 三浦美琴はいわゆるオタク女子である。ライトノベルや、果ては女性向けのエロゲーまでやっているという超オタク女子だ。


 べつにそのことをおれはどうにか言うつもりはない。好みなんざそれぞれだ。


 で。いじめられた理由は、彼女がオタクだから……というだけではないらしい。


 彼女はあるサッカー部のイケメン男子に告白したそうなのだ。名前を洋介という。この男の名前は初めて聞いたので、あとで颯太に聞いてみるとしよう。


 どうやらその洋介とやら、やたら女子に人気らしい。まぁおれほどではないが、とにかくよく告白されるタイプの男子だ。


 そして案の定、三浦美琴は振られちゃった。まぁそりゃそうだよな……って言ったらあれかぁ。ケドあの見た目で、イケメン君に告白しても、そりゃむりだろう。


 現実とは常に非情なのである。


 見た目も内面も磨かない奴に、異性は寄ってこない。ザンネンながらこの世の真実だ。


 で、フラれたあと美琴がどうなったかというと、次の日から噂になってしまった。


 つまり「あの美琴って子、洋介に告ったらしいよ」「え、マジ? うわないわー」ってな感じである。


 この辺は冴えない男子諸君なら痛いほどわかるんじゃなかろうか。立場を逆にして考えて欲しい。


 冴えない男子が、めっちゃクラスでイケイケなギャルにちょっと優しくされただけで告白して、失敗する。そして翌日からめっちゃ噂される。


 うん、心が痛むよな。


 だが美琴という女子はそんなことだけで学校を休むようなタマではなかった。


 ちゃんとその次の日以降も学校に来たという。男子女子問わず陰口をたたかれるが、陰口くらいだったら慣れてるんだろうな。


 だが問題はここから。


 洋介に好意を寄せている黒野エリカという女子が率いる、超イケイケ女子グループに、美琴は呼び出された。


 多分校舎裏かなんかだろう。そしてぼこぼこにされた。


 それは学校でも看過できないほどのいじめだったらしい。


 だから一応黒野エリカには説教を食らわせたようだ。


 だが問題はさらにエスカレートする。


 学校に説教されたエリカは、さらに向かっ腹を立てた。なんであいつのせいであたしが怒られんだあーちくしょうむかつく!


 そしてまた美琴は呼び出される。殴る蹴るの暴行。髪の毛は引っ張られ、それをスマホで動画撮影される。


 体は全身アザだらけになったことだろうな。


 ひでーのは、髪の毛をカッターでバッサリいかれた、という話。


 おれは男だから髪の毛を多少失ったくらいじゃ傷つかないが、女の子は違う。髪は命と呼べるモノだ。


 だからよっぽど堪えたんだろう。


 そしてあろうことか、黒野エリカはその動画を洋介に見せた。


 いやなんでだよと突っ込みたくなるが、黒野エリカはとにかく自分が、女子のカーストの上位に立っていることを、好きな人に知ってもらいたかったのかも知れない。


 この辺は推測だが、多分合ってると思う。


 まぁ洋介がどう思ったかは知らん。面白いと思ったのか、なんてことするんだと思ったのか。


 だが洋介に動画を見せられたという事実は、美琴の胸をさらに抉った。


 好きな人に、自分がいじめられている動画を見せられるなんて溜まったもんじゃないだろう。


 こうして美琴ちゃんは、みごとに不登校になっちまいましたとさ。めでたしめでたし。




 ふーむ。


 おれは考える。この件をおれたちのグループの誰に相談すべきかと。


 候補は五人。


 楠木涼花。ど天然系ギャルで、人との距離をつめるのがうまい。だがその天然さゆえに、誰かを無自覚に傷付けてしまう。


 綾瀬恵。自分にはなにも魅力がないと感じていた一年の初期から、努力して陽キャになった女子。後天的リア充とでも呼ぶべきか。なるほど彼女なら親身に美琴の説得ができるかも知れない。


 一ノ瀬アリス。冷静沈着でいつも物事を客観的に見ている。美しい上にクールなため、女子からの人気も高い。うーん、こいつを連れて行くのが一番無難か?


 八王子健。直情径行型の男子。こいつはないな。自分の気にくわないことがあると、すぐに怒っちまう。逆にケンカになったときとかは頼もしいんだが、今回はちょっと出番はねー。悪いな。


 雨崎颯太。サッカー部で先輩をも引っ張っていけるだけのリーダーシップがある。人望が厚い。しかもイケメンと来た。こいつもありだな。



 おれは頭を悩ませる。


 そうこうしてるうちに放課後を迎えた。まぁ期限が決められていない以上、急ぐ必要もないと思うのだが、それでも四月以内には終わらせておきたい課題ではある。クラス替えしたばかりのクラスに、美琴を放り込みたい。さもないと孤立するからな。


 一度出来上がった人間関係は、そうそう変わらない。


 うーむ。どうしたらいいか。


 悩んでるうちの放課後を迎えてしまった。なんか今日一日、担任に振り回されてばっかだった気がする。


 おれはしょうがないから帰途についた。




 なんとはなしに歩いていると、すぐそこの神社に寄りたくなった。


 本当になんとなくだ。おれは靴音をカツカツと響かせて石段を登っていった。


 春の神社はどこか大人しく、秋や冬とはまた違った様相を楽しめる。


「やっぱりいると思いましたよ」


 おれは神社の縁に座っている一人の少女に声を掛けた。


 神塚高校の制服を着ている彼女は、他の同年代の少女に比べてスカートが長かった。それが彼女なりのこだわりなのらしい。


「あら、可愛い先輩にわざわざ会いに来てくれたのかしら」


 光栄ね、と言ってくすりと笑う先輩は、まるでモミジのように美しかった。


「いやだなぁ、気が早い初詣に来ただけですよ」

「相変わらず冗談のセンスがないのねあなたって」


 座って、と先輩は言ったので、おれは言われたとおり先輩の隣に腰掛けることにした。


「なにを読んでたんですか?」


 梶原未来(かじわらみらい)先輩は、ゆっくりとした手つきで手元に置いてあった文庫本を手に取った。


「『かがみの孤城』……ですか。辻村深月好きなんですか?」


「えぇ……もちろんよ。私も少女の時代があったの。忘れかけていたモノがここに書かれている気がするわ」


「忘れるもなにも、先輩は今も少女じゃないですか」


「あら。褒めてくれるの? 嬉しいわ。じゃああなたも少年ってことね」

「照れますね」

「照れるほどのことじゃないでしょう」


 先輩はくつくつからりと笑う。まるで春の虫のようだ。


 先輩の声は透き通っていて、どこか風情がある。


「私がここにいることを知っていたのかしら?」

「そんな。ただここに来れば先輩に会えるかなと思っただけですよ」


「あら。初詣ではなかったの?」

「あはは。ある意味先輩への初詣ですね!」


 おれはサイダーの炭酸が弾けるように高らかに笑った。この瞬間だけは素の自分が見せられる。


 なによりも楽しかった。この先輩と過ごす時間が。


「先輩もしかしてカチューシャの色変えました?」


「よく気づいたわね。そうよ、今年から心機一転ってことで、赤色にしてみたの。似合う?」


 そう言って先輩は自分の頭を指さした。なかなか新鮮な光景だ。美少女が首を傾げて、こちらにカチューシャが似合うかどうか聞いてくる瞬間など、古今東西見渡しても、この場所にしかないんじゃないだろうか。


「とっても似合いますよ。先輩らしい秋色で」

「今は春なのだけれど……」


 先輩はむすっとした表情で、そっぽを向いてしまった。つややかな唇を尖らせている。


 おれは苦笑して、それから先輩と同じ方を向いた。


「なにか悩んでいることでもあるの?」


 春風が吹いた。どこかから深緑の葉っぱが舞い飛んできておれたちの目の前を横切り、遠い街並みに消えていった。


「そうですね」

「なにかしら? 私に聞ける範囲でなら、聞いてあげてもいいわ」


 未来先輩は髪をかき上げた。おれは彼女のその姿がたまらなく好きだ。青春という題材で絵を描くのであれば、おれはまっ先にこの姿を絵の具でキャンバスに描くだろう。それくらい美しい。


 未来先輩は傍らに置いてあった『午後の紅茶 ストレートティー』を口に含んで、おれに挑発的な瞳を向けてくる。


 はよ相談せい、そう語りかけてくるかのようであり、おれは諦めたように肩をすくめた。


 この先輩に隠し事などできない。


 未来せんぱいの瞳はまるでビー玉のように光り輝いて、この世のすべてを見通しているかのように澄んでいた。だからこそ、その目に絡め取られたとき、自分のすべてを許してしまいそうになるのだ。


 魔性の女だ。


「うちのクラスに不登校児がいまして、そいつを家から引っ張り出してくるように担任に言われました」


 おれは今日戸塚先生から言われたことのあらましを、余すことなく語った。


「あなたらしいわね。引き受けてしまうところが」


 先輩は掌を口元に持って行って、鈴の音が鳴るように小さく笑った。なんでこの人はこんなにも絵になるのだろうか。神社に座っているところを写真に撮っただけでコンクールで一等賞を取れてしまいそうなほどだ。


「おれはただ担任に頼まれてやることになっただけですよ」


「あなたは建前が大好きな人間だから、そう答えるでしょうね。ケド本心は違う。あなたの本質は、人助けという言葉に支配されている。図星でしょう?」


 当たりである。いやまったくたしかにその通りだ。


 おれは基本的に『いい奴』なのだろう。だから道端でうずくまっているおばあさんがいたら助けたいし、交差点を急いで渡ろうとして転んでしまった女子高生がいたなら、おれはかっこよく手をさしのべてやりたい。


 そう、思ってしまうのだ。


 無視すれば、きっと人生の時間をもっと有効に使えるだろうに。


「それが僕の美学なんだと思いますよ。誰かのためになりたい、そう思って行動することに、僕はプライドを持っているんだと思います。まぁ本心を言えば、ちょい悪で女遊びに走りまくるあぶない男になりたいんですけど、どうにも僕には向いてないらしいです。正統派ヒーローを目指してる方が性に会うんですよ」


「ふふっ。あなたらしい答えね。まぁあなたなら女遊びしようと思えばできるでしょうけどね。実力的には」


「その言い方女の子の口から聞いちゃうのどうなんだろうな……」


「あら、あなたならここで私を襲わないだけの分別があるってわかってるわよ?」


「そうなんだけどさぁ……。もうちょっと警戒心もとうよ……」


 この先輩はやっぱり魔性だ。もしかしたら前世はヴァンパイアか、サキュバスだったのかも知れないな。


「あなたに襲われてもいいと思ってる女の子なら、たくさんいると思うわよ?」

「そうかなぁ……」


 先輩はそこでさらに笑みを深めた。まるでいたずらっ子のように。


「そういうところなのよ、あなたって。能力はあるけど、底に聖母のような優しさがある。だからみんな安心して近付くの。誰にとってもヒーローで、みんなに支えられて存在している、それがあなた」


 おれは沈黙した。まったくこの先輩は本当に痛いところを突いてくる。


 誰にとってもヒーロー、か。


 まぁ未来先輩がそう言ってくれるのなら、とりあえずその言葉は褒め言葉と受け取っておこう。


 まだ、誰か一人にとっての、特別なヒーローになる必要はないのだ。


「それで、あなたはどうするつもりなの?」

「未来先輩アドバイスとかくれないんですか……?」


「当たり前でしょう。悩んでこその若人なのよ。それに私は聞ける範囲でなら聞いてあげると言っただけで、助言をするとは言ってないわ」


 なんだそのへりくつは……。時々この先輩はそこら辺の小学生よりも意地悪だ。


「一応仲のいいメンバーの誰かを連れて説得するつもりです。説得に応じないのであれば、またそのときに考えます。期限は長いので」


 おれは言った。先輩はただうなずいてくれるだけだった。あなたがそう思うならそうしなさいと、それこそ聖母のように微笑んで。


「じゃあおれ、先帰りますね」

「えぇ、気を付けてね」


 おれは立ち上がり、足を軽くして神社の境内をあとにした。


 なんだかさっきよりも心が軽くなった気がしたのは、気のせいじゃないだろうな。




 歩道橋の上で、おれは缶コーヒーを飲んでいた。


 明日はどんな一日になるのだろうか。


 少しだけ感傷的な気分に浸る。自分に酔いたいときくらいあったっていい。むしろそっちの方がおれはかっこいいと思う。


 大人になったらお酒を一人飲みながら、誰にも知らずな闇を抱えることだって悪くないと思う。


 人々の営みは星の流れに似ている。誰も覚えちゃいない。他人の出会いを、自分は知らない。そうやって寂しく、悲しく、巡っていく。


 けれどそれでも人々は生きていく。今日は誰かと友達になり、明日は誰かとお別れをする。けっこう。それでいい。いやそれがいい。


 人間なんて基本的に生きていれば無意味だ。仕事をするのがやりがいだ、という人もいるだろうが、だいたいの人は金のために動いてるだけだ。


 人生の価値って何だろうか。そんな哲学的なことを、この満天の星々の下考えた。満天の星……おれの視界に映っているのは、空の星ではなく横浜の輝かしい街並みだ。建物の灯りがとてもきれいで、道行く車たちは白のヘッドライトや赤のテールライトをまぶしながら夜の世界を彩っていく。


 その光はまるで蛍のようだった。生きる証をこの夜に残していくような、そんな風にも見える。


 おれはほうとため息をついた。ホットの缶コーヒーが身に染みる。きっと缶コーヒーはおれの人生を彩ってくれるだろう。恋人ができたときも、こうやって缶コーヒーを飲もう。友達がいつか死んだときも、この缶コーヒーを飲もう。果ては自分が死ぬ前にも、この缶コーヒーを飲もう。


 そうやって道しるべとばかりに同じことを繰り返していけば、思い出というのも思い出しやすくなる。


 つまらない人生なんて、ない。うまい生き方さえ覚えればの話だが。


 おれは人よりすぐれている。自分の先天的に持っている部分ももちろんあった。運動神経だってそうだし、顔だってそう。ケド頭はもともとよくなかった。だから勉強して神塚高校に入学できた。


 人間関係の構築。これもそうだ。コミュニケーションの取り方、距離の測り方なんぞ誰も教えちゃくれない。


 おれはもともと人見知りが激しいタイプだった。だからこそ、家で地道に努力した。家で? そう家でだ。鏡の前の自分を架空の友達に見立てて練習したりもした。


 馬鹿げている。


 そう思うか?


 おれは思わない。


 結果的にそのシミュレーションがやがて実を結んで、今を形作っている。友達にだって囲まれているし、ミスターコンテストなんてどうどうの一位だ。なぜ三位がアリスなのかはいまだに疑問だがな。


 翼を焼かれても、空を飛び続ければ必ず掴めるモノがある。おれはそう信じている。


 おれは空を見上げた。月明かりが強い。今夜はいい天気だな。横浜でこんなに星空が見える日なんてそうそうねーぞ。


 同じ空を、美琴は見ているのだろうか。閉じられたカーテンのすき間からこっそり覗いて、同じ空を見られているのなら、それは喜ばしいことだし、奇跡的なことだ。


 少なくとも、おれたちは同じ空の下で生きている。


 なら、いつだって出会える可能性を秘めていると言うことだ。


 おれは美琴の姿を想像し、そしてゆっくりと口を開いた。


「…………さぁ、始めようぜ。おれとお前の戦いをな」



「ねぇあのお兄ちゃんへん!」

「しっ、見ちゃダメ!」


 歩道橋を渡った二人の親子が、怪訝そうな目でこっちを見ていた……。いやオチいらねーから!

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