第9話 小悪魔

「あきらめはしないよ」

 絶望的な状況で、ほとんどあきらめながらも、ぼくはかろうじてそう言った。

 嘘をついていることに耐えられなくて、

「今日のところは帰る。明日また来るね」

 ぼくは先延ばしをした。

「ごめん。やっぱり赤点回避は無理だ」と言うことはできなかった。

 時刻は午後5時。そろそろお暇する頃合いだ。


 しかし、今日解決しておかねばならない難問がもうここのつ残っている。 


「実はさっき、きみが泣きながらぼくと抱き合っているところを、お母さんに見られていたんだ」

「ええーっ、嘘でしょう?」

 これは嘘じゃない。

「きみは本気で泣きじゃくっていたから気づかなかったみたいだけど、お母さんは背後でそっとドアの開け閉めをしていたんだ。ぼくとは目が合った。絶対に、なにがあったか心配しているはずだから、事情を説明しておかないと」

「困るう。説明どうしよっか」

「ご両親には、本当のことを伝えた方がいいと思う。1が9である世界から転生してきて、数学があまりにもわからなくて泣いてしまったんだって」

 彼女は露骨に嫌そうな顔をした。


「却下。お父さんとお母さんは至極真面目でまっとうな人なの。そんなことを言ったら、わたしの頭がおかしくなったんだって思われちゃう。精神病院に連れていかれるまであり得る」

「中間試験で物理と化学は赤点確実で、数学も……きびしい点数になるだろうから、ごまかしても、いずれは真実を伝えなくちゃいけなくなるよ」

「高校に入ったら、理系がとてもむずかしくて苦手になっちゃったって、言うもん」

「そんなので納得してもらえるの?」

「転生よりよほどまともな説明だよ」

「あれ? ぼくはどうして転生話を信じているんだったっけ? ぼくの足元が揺らいでいるんですけど」

「綿矢くんの足元は揺らいでもいいのよ。お父さんとお母さんのわたしへの信用が揺らぐのは困る」

 桜庭さんのぼくの扱いが雑だ。


「じゃあお母さんへの説明は、それでいいじゃないか。数学を勉強していたんだけど、あまりにわからなくて泣いてしまったって」

「えーっ、嫌よ。わたしがバカみたいじゃない」

「説明が早いか遅いかのちがいだけだよね。中間試験後には言わなくちゃいけないんだから、いま伝えなよ」

「やだなあ。まあ、仕方ないか」

 彼女はしぶしぶ承諾した。

「じゃあ、一緒に説明してくれるよね。誠実な彼氏として、きちんと振る舞ってね。お父さんとお母さんには心配をかけたくないから」

「ぼくには思いっ切り負担がかかっているんですけど」

「頼れるのはきみだけ……」

 耳元でそっとささやかれると、拒めなくなってしまった。我ながらちょろすぎる。惚れた弱みって、本当にあるんだな。


 8階の彼女の部屋から出て、階段を下り、9階のリビングへ。

 そこではお父さんとお母さんがテーブルで向かい合って座り、心配そうに相談をしていた。

 もちろんお母さんが目撃したことについて話しているのだろう。 


 ぼくと彼女はご両親の前に立った。

 ぼくたちを交互に見るお父さんとお母さんに、彼女は説明した。

「あのね、実はわたし、高校に入ってから、理系科目がむずかしくて、苦手になって、授業についていけなくなったの」

「そうだったの……!」

 お母さんが、娘の悩みに気づいていなかった、というショックを表情に出した。

 お父さんは沈鬱に黙っている。


「それで、彼氏の綿矢くんに家庭教師をお願いして、数学を教えてもらうことにしたの。彼は親切で、ていねいに指導してくれたんだけど、それでもわたしはよくわからなくて、泣いてしまったの」

「そういうことだったの! あたしは誤解していたわ。8人には申しわけないけれど、なにか恋愛的な問題があったのだとばかり思い込んでいた。綿矢くん、ごめんなさいね。それと、レモンをこれからもよろしくお願いします」

「綿矢くん、私からもお願いするよ。娘を頼んだよ。あと、家庭教師をしてくれているのなら、謝礼を払わなければいけないね。うちは特に裕福というわけではないから、十分な額は支払えないかもしれないが……」 


 ええーっ、なんか、話がぼくにとって重い方向へ急激に進んだのだけどッ。

 謝礼なんか受け取ったら、大変なことになる。

 数学で赤点回避させる責任が生じるじゃないか。


「いいですよ、謝礼なんて。軽く勉強を見てあげただけなんです。こ、恋人として当然のことです」

「お父さん、家庭教師代、出してもらってもいい? 彼はものすごく親身になって教えてくれるの。わかりの悪いわたしに、忍耐強く。なかなかできないことだと思う」

「そうか。わかった」

 お父さんはいったん席を立って、タンスから封筒を取り出し、その中に紙幣を入れて、ぼくに向かって差し出した。


 受け取れないよーッ。


「本当にいいんです。お金をもらうわけにはいかないです。ぼくにとっては、彼女の部屋で勉強会デートをさせてもらっているようなものですから」

「そうかもしれないけど、わたしにはメリットが大きくて、彼にとってはデメリットが大きいデートなの。わたしはかなりできの悪い生徒だから、苦労をかけているの。やっぱりきちんと報酬を払いたいなあ」

「綿矢くん、受け取ってくれ」

 お父さんはぼくに封筒を受け取らせ、手を離した。

「い、いりません!」

 返そうとしたが、頑として受けようとはしなかった。

 恐る恐る封筒の中を見ると、9万円札が入っていた。


「こ、こ、こんなのもらえません。お、お、多すぎます」

「すまないが、それは9か月分だ。少ないと思うが、うちの家計ではそれで精一杯でね」


 9か月家庭教師をすること前提ーッ?


 彼女を見ると、もらっておきなよ、というふうに、にまにまと笑っていた。

 ああ、説明に同席したことも、彼女に説明を任せたことも、大失敗だった。

 ぼくは可愛い小悪魔に嵌められたのだ。

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