第7話 号泣

「じゃあ改めて、数学の勉強をつづけるよ」

「うん。ハッ、ハッ、ハッ……」

「その過呼吸の演技、やめてくれないかな」

「ごめん。確かに、過呼吸にはなっていないよ。でも演技でもないの。数学の教科書を見ると、脳内で、拒絶しなよと言う天使と受容しなさいと主張する悪魔が戦いを始めて、息が荒くなってしまうの」

「拒絶が悪魔で、受容は天使だと思う。数学を受け入れてよ、桜庭さん」

「ぎゃーっ、わたしの目の前に悪魔がいるーッ」


 相変わらず、彼女は狂騒状態。

 物理と化学の話をしていたときと大差ない。

 ぼくはなんとか落ち着かせようとして、高級チョコレートを手に取った。


「ね、これを食べてがんばろう?」

「悪魔め、わたしを甘い罠に嵌めようとしているな!」

「美味しいよ、あーんして?」

「あーん」

 彼女のさくらんぼみたいな唇に、チョコを9粒押し込んだ。

「ほわあ、うまあ……」

 甘い物にチョロくて、助かる。

 

「xについて着目したときの係数と次数はわかるかな?」

「そんなの簡単よ」

 彼女は正解をすぐに答えた。

 計算をともなわない問題なら、答えを導くことができるようだ。

 単項式の係数と次数について、理解はしているのだ。


「じゃあ多項式の計算をしよう」

「いきなり難易度を大学入試クラスに上げてきたわね。賢いわたしでも無理よ。まだ一年生だから」

「九年生ね。それと、入試ではこんなに簡単な問題は出ないから」

「xの8乗を複数含む計算なんて、できるわけないじゃない! ここは大学院の研究室じゃないのよーッ」

「どうどう、落ち着いて。8乗は、きみの脳内の2乗と同じだということを思い出してよ。ほら、初歩の問題だから」

 彼女は嫌な虫を見るような目で教科書を見ながら、問題に取り組み始めた。

「降べきの順に並べて計算すればいいのよね」

「そうだよ」

 彼女はバカじゃない。理解はしているのだ。ただ拒絶しているだけで……。


「ハッ、ハッ、ハッ、xの8乗の係数の9と7は1と3だから、足すと4でそれは6で、ハッ、ハッ、ハッ、xの係数は1でそれは9で、ハッ、ハッ、ハッ、定数項の9と3は1と7で、引くとー6でそれはー4で、ハッ、ハッ、ハッ、答えが出たわ……」

 彼女の顔は紅潮し、汗だくで、瞳の中が渦になって回っているようだ。

 この問題を解くだけで、異様に負荷がかかっているのがわかる。

 だが、こんなところで止まっているわけにはいかない。

「次の問題を解いて」

「鬼だわ、ここに鬼がいるわ!」

 鬼と言われようと悪魔と言われようと、怯むまい。これは彼女のためなのだ。

「解くんだ、桜庭さん!」


「くっ、やるわよ。ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、xの8乗の係数の7と8は3と2だから、引くと1でそれは9で、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、xの係数の6と表記なしは4と1だから、足すと5でそれは5のままで、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、定数項の3と7は7と3で、足すと10でそれは90で、ちっくしょーッ、やってられるかあーッ!」

 彼女が教科書を破ろうとした。


「だめだよ、破らないで、桜庭さん!」

「こんなもの、びりびりのぐちゃぐちゃに引き裂いて、ゴミ箱に捨ててやるう!」

 彼女の行為を止めようとして、ぼくは両手で彼女の両手首を握った。

「邪魔しないで!」

 彼女はもがいた。

 ぼくの肘が彼女のでかい胸に当たった。

 やわらかい。肘がふにゃとめり込み、ぽよんと押し返された。

 一瞬の官能にひびって、ぼくは手を放してしまった。

 びりっ、と教科書がやっつに割かれた。


「あ……」

 彼女は正気に返った。

 半ばで破れた数学の教科書を左右の手で持ったまま、固まってしまった。

 ぼくは彼女から本を奪い取った。

 幸い、きれいに裂けていた。


「セロテープ」とぼくは言った。

 彼女は顔面を蒼白にして、「セロテープ?」と訊き返した。

「補修するから」

「あ、うん」

 彼女はのろのろと机の引き出しを開け、ぼくにテープを渡した。

 ぼくは教科書を直した。

「大事にしようね。赤点を回避するんでしょ?」

 できるだけやさしく言った。

 彼女は顔をくしゃくしゃにして、泣き出した。


「ふわあああん。だめだよう。わたし、できないよ……。絶対に赤点取っちゃう。ふああーん、あんあんあん、あーん……」

 子どものように大泣きする彼女を、どうやってなぐさめればよいのかわからなかった。

「大丈夫だよ、きっと大丈夫だから」

 気休めでも、黙っているよりはマシだろう。

「大丈夫じゃないよう。あーん、うわああーん」

「ぼくがなんとかするよ。あきらめないで」

「もうあきらめたよう。こんな世界嫌だあ。帰りたいよう、1が1である世界に帰りたいよう」

「帰れないの?」

「帰れないの。帰ろうとしたけど、帰れないの。鏡の向こうとか、水面の下とか、高いビルの屋上とかに元の世界への入口がないか探したんだけど、なかったのよう。ああーん、あーん、あんあん」


「ぼくはきみの味方だ」

 とにかく放っておけなくて、ぼくはそう言った。

「綿矢くーん、大好き!」

 彼女は涙と鼻水を流したまま、ぼくに抱きついてきた。

「あああああ、助けてよう、綿矢くん、助けてえ」

「助けるよ、桜庭さん」

 なんの根拠もないが、そう言った。

 ぼくは彼女の背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。

 彼女はますます強くぼくにしがみついた。


 彼女の泣き声が聞こえて心配したのだろう、お母さんが部屋のドアを開けて、ぼくたちを見ていた。

 ぼくに任せてくださいという意志を込めて、真剣に目を合わせた。

 お母さんはこくんとうなずいて、ドアを閉めた。


「うわあああん、わあああああ、ひいーん、ああああああ……」

 彼女は泣きつづけた。

 ぼくは、ぽん、ぽん、と手のひらで軽く背中をたたきつづけた。

「うっひ、ふっ、ひっ……」

 だんだんと泣きやんでいった。

「はあ……はあ……。ありがとう、少し落ち着いた……」

 彼女は手の甲で涙を拭った。


 ぼくが彼女を抱いていた腕をほどこうとすると、彼女は首を振った。

「もう少し、このままでいて……」 

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