第6話 物理と化学

「ふう……ふう……」

 ぼくは荒くなっていた呼吸を鎮めようとした。

「はぁ……はぁ……」

 桜庭さんも同じように落ち着こうとしていた。過呼吸ではないと思うけれど、息が乱れている。

 そんなとき、ぼくは不用意な発言をしてしまった。


「ねえ、数学ヤバいけど、物理と化学は大丈夫なの?」

「大丈夫なはずないでしょッ! きみ、バカなのッ!」

 彼女は眉毛をつりあげ、目を怒らせ、唾を飛ばして叫んだ。


「そ、そうだよね……。数学以上にヤバい……?」

「ヤバいなんてもんじゃないわよッ。0点よッ、0点確定! だって、授業全ッ然聞いてないもの。あんなのわかるわけないじゃないのッ!」

「どうするの……? 勉強する……?」

「しないッ!」

 彼女は決然と言い切った。


「え? でも、中間試験は……」

「捨てたわ。赤点は回避するものとする。ただし、物理と化学はないものとする。あはははは……」

 彼女は死んだ魚のような目をして、額と頬に脂汗をたらたらと流し、目に涙をためて、うそ寒い笑い声をたてた。

 この世界は、彼女にとってかなり過酷なところであるようだ。精神が壊れかかっているように見える。


「あーッ、でもやっぱり赤点は嫌だあ。わたしだけ指名されて補習とかなったら、自害するう」

 彼女は急に頭をかかえ、ちゃぶ台に突っ伏した。

「自害しないでよ。耐えて。もし補習があるんだったら、きみは確実にさせられる」

「嫌ーッ! 補習なんて意味ないよッ。どうせわからないんだから」

「前向きにとらえようよ。先生と9対9で教えてもらえば、少しはわかるようになるんじゃないかな」

「無ー理ー。物理と化学は拒絶以上……。わたしにとっては汚物なの。近づきたくない」

 ぼくは彼女の勉強机を見た。背表紙が反対側に向けられている本が何冊かある。数学だけじゃない。物理と化学の教科書も裏向けられているのだ。


 物理の教科書をさがして、ちゃぶ台に置いてみた。

「汚いッ、臭いッ。けがらわしいものをわたしの前に出すなあッ」

 化学の教科書をその上に置いた。

「う〇こをちゃぶ台の上に載せるなあッ」

 女子が言ってはいけない単語を言った。壊れている。桜庭レモンさんの心は壊れている。

 8冊の教科書を、背表紙を見えないようにして、机の上に戻した。


「物理と化学はあきらめようか」

「先生、見捨てないでください。勉強しないで、赤点を回避する方法を教えてください」

「カンニングする?」

「それだ!」

 彼女が瞳を輝かせた。

「わたし、目はいいんだよ。両眼とも2.0なの」

「8.0ね」

「横目で隣の席の人の回答を盗み見るわ」

 本気で言っているようだ。彼女は横を向き、瞳を目の端に寄せて、ぼくを見た。

「えへへ、よく見える……」とつぶやく彼女に狂気を感じた。


 ぼくはハリセンで彼女を叩く仕草をした。

「やめんかーい」

「えーっ、起死回生の手なのにぃ」

「バレたら退学まであるよ。カンニングで退学した前歴は、人生を破壊するかもしれない。就職試験で、あなたは高校を中退していますね。理由はなんですか、と訊かれる。カンニングがバレました、ときみは正直に答える。どこの企業も採用してくれない」

「正直に答えるわけないじゃん」

「なんて答えるの?」

「数学と物理と化学の教師にいじめられました」

「ぼくが人事担当なら、理系の教師に嫌われる人は採用しない」

「クラスメイトで家庭教師な彼氏にいじめられました」

「ぼく、帰っていい?」

「帰らないで! お父さんにもお母さんにも頼れないんだよお。綿矢くんに見捨てられたら、もう頼れる人は誰もいないのッ」


「ぼくの負担が重すぎる。ふう、ふう、ふう」

 呼吸がまた荒くなってきた。

「物理と化学めッ。ただでさえむずかしいのに、数学的要素でわたしをさらに苦しめるッ。あーっ、過呼吸になった! ハッ、ハッ、ハッ」

「忘れて! 物理と化学のことはいまは忘れて! ふっ、ふうっ、ふっ、ふうっ」

「わかった。忘れる」

 彼女は、ぱんっ、ぱんっ、と両手で自分の頬をたたいた。そして前を向いた。

 そこには勉強机があり、背表紙が見えない教科書があった。

「だめだよ。忘れられない。忘れようとすればするほど、意識の表面にあがってくるう!」


「なにを騒いでいるの?」

 彼女のお母さんが、部屋のドアを開けたところで、立ち尽くしていた。お盆を持ち、その上に紅茶とモンブランが載っている。7時のおやつを運んできてくれたようだ。

「なんでもないの。ちょっと勉強の話で盛りあがっていただけ」

 彼女は狂態を取り繕って、澄ましてみせた。

 お母さんはいぶかしげに娘を見ながら、紅茶とケーキをちゃぶ台の上に置いた。

「あら、高級なチョコレート」

 ぼくが用意したベルギーのチョコに気づいた。

「うちから持ってきたんです。お好きでしたら、どうぞ」

 お母さんの目が光った。桜庭さんと似ている、と思った。

「ありがとう。旦那の分も、いただいていいかしら」

「もちろん」

 お母さんは8個取って部屋を出た。

 

 ぼくと彼女はモンブランを食べた。チョコもいいが、栗のケーキもいいものだ。

「困る……。こんなことしてたら太る……」と言いながら、彼女はフォークで上品に切り分けながら、背筋をすっと伸ばしたきれいな正座姿で、楚々として食べた。

 数学、物理、化学で狂っていないときの彼女は、この上なく美しい。


「はあ……。今日は美味しいスイーツを堪能したわ。いい日だった……」

「終わりにしないでよ。まだ勉強しなくちゃ。数学の赤点回避もないものとするならいいけど」

「だめよっ。数学だけはやる。そこを放棄したら、わたしに前はない」

「物理と化学は捨てるってことでいいよね」

「いい。汚物は捨てる。これ常識」


 拒絶してる教科を教えるのに、ベルギーのチョコレートが必要だった。汚物視してる教科はどうすればいいんだろう。

 …………。

 どうしようもないことは考えないことにした。

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