何のためにピアノを弾くのか?

興奮冷めやらぬ……とはよく言ったものだ。

昨晩は『黒と白のサンバテンペラード』がずっと耳に残って寝つけなかった。(それは何度も何度も動画を見返したからだが。)そして自分の弾いているところを想像してみたりした。

朝を聡明に過ごす為に、夜聡は一般的な高校生よりは早く床につく様に心がけているが、昨晩はそれがかなわなかったのだ。

そんな夜聡の心情を見透かす様に葉月は微笑ましく、けれども何も尋ねずに音楽室に向かいながらこう言った。


「あなたには絶対音感の資質があると思うのよ。」


「絶対音感?」


そう言いながら葉月はるなは音楽室の鍵を昨日と同じ様に開けた。


「そう絶対音感よ。あなたも言葉くらいは聞いた事ぐらいあるんじゃない?世に出ている音楽家たちの中には音符の読めない人も沢山いるのよ。」


「音符が読めない?そんな人がどうやって音楽を作ったり、楽器で音を奏でるていうんだい?」


2人でピアノの前まで進むと、それぞれリュックをおろして、それから葉月はるなはリュックの中からファイルに入った楽譜をだして夜聡よざとの方へ向き直した。


「それは想像力よ。」


「想像力?」


「でもそれには全ての音色を聞き分ける必要がある。」


「全ての音色ってのはドレミファとかそういう音階の事かい?」


「うーん……それも一つね。それからそうね……たとえばパトカーのサイレンの音は?野球部の人たちが打った金属バットが球を弾く音は?あの電線にとまる鳥の囀りは?それらを音ですぐに再現出来る。つまりそれが絶対音感というわけ。」


「けれども僕は鶏の囀りは鳥の囀りにしか聞こえない。」


「そう。頭ではそう思っていても体は反応するのよ。あなたの面白いところは、絶対音感は最初から持ち合わせた能力ではない事ね。あなたはピアノを、使わずに音を学習した事で、想像力という絶対音感を身につけたのだと思うの。」



「そんな事がありえるかい……。」


すると葉月はピアノの前の椅子に座り、手招きして夜聡をその隣に座らせた。それからしばらく、いやほんの少しの間瞑想すると、

鍵盤にきれいな指をのせて、昨日と同じ様に『月の光』のメロディを奏でた。


夜聡は無意識合いの手の伴奏を弾く。


「ほら。」


「……なんで?」


「あなたはおそらく『月の光』は知っている。だから私が弾いた音を聞き取っただけで、その音に見合う音を出さずにはいられない。つまり体が反応するのよ。」



「体が反応……。」



「そうよ。だから私は昨日、あなたが創り出したで、あなたと月のワルツを踊ったのよ。あの月が美しい深い森の中でね。」


それを聞いて夜聡の中で不確実だった物が確信へと変わった。やはり昨日の幻想の世界は自分の妄想ではなく、葉月も共有していたのだと。


けれどもいったいその、どこまでが現実でどこからが、非現実な世界かわからなくなってきた。



「だからね……私はあなたに『白と黒のサンバテンベラード』を聞いてもらった。あなたの頭はきっとその音の創造を学習したはずだわ。」


そう言いながら葉月はもう一度軽く瞑想した。そしてこちらに聞こえるのではないだろうか?と言うくらい鼻から息を吸い込み、

ビックリするくらい繊細で、か細い音を奏で始めた。


夜聡は目を閉じて

その音の持つ世界を想像した。



。。。。。


誰かが問う。


お前は何のためにピアノを弾くのかと。


僕は何の為にピアノを弾くのだろうか?

それは連弾という動画に感動したから?

その音を聞くのが好きだから?

楽しいから?癒されるから?

生きているという存在価値をつける為?

指先の運動が脳細胞の活性に良いから?


「フォーフォーフォー……。」


と何かが鳴いた。


どこかで聞いたことのある鳴き声だった。

ゾクゾクと背筋を撫でられた気持ちになって目を開いた。



あの森だ。

やしろの前でワルツを踊ったあの森。

辺りは闇だ。けれども今日も月は煌々と輝いている。その周りには幾千もの星が眩く散らばっている。あの日と少し違うのは月の光が、まるでそれをスポットライトをあてて強調するように象徴するかのように、やしろに真っ直ぐな光をあてていた。

夜聡はその光に導かれる様に社の方はと足を進める。


社には小さな丸い鏡が一つ置かれている。


その青銅で縁取られた丸い鏡に自分の姿を映し出してみる。


鏡に映る男は、

駄々黒く長い布切れに身を包み、小さな帯刀たてわきを手にかけている。


「誰?え?僕なのか?」


と装いの違う自分の姿に冷静に驚く。

自分の心底の闇の部分が明らかにされたような複雑な気持ちになる。


いったいこれから何が始まろうとしているのだろうか?この音色のもつ物語には何を意味しているのだろうか?



そういえば葉月は?

同じ音色の世界を想像するならば、この森の何処かに葉月はいるのではないだろうか?

そう思い辺りを見渡す。

けれども人の気配はない。

静かな森の静寂には、まだ生命の気配が感じられなかった。

一人というのは不安なものだ。

不安は夜聡の恐怖感を仰いだ。

どうして良いかわからず一人、社の前で考え込む。


落ち着け、落ち着け夜聡。

何か手がかりがあるはずだ。


「お前は何の為にピアノを弾くのか?」


そういえばさっき誰かがそう言った。

あの質問はいったいどこから、

というか誰がしたというのだ?

それに何やら聞き覚えのある鳥?

の鳴き声が聞こえたような?


すると急に強い風が吹き荒れた。

夜聡は思わず社に捕まって足を踏ん張った。それから時折月の光を遮る様に何かが頭上を行き来した。夜聡は先程のと同様にゾクゾクと背筋を撫でられた気持ちになった。


木の影から何かがガサガサと動いた。

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