透明な雪玉

@yamakazura

第1話

# 序


コンロにかけた牛乳が温まるのを待っていると、社用の携帯にメールが届いた。上司からだった。


「返事が遅くなってすみません。お休みの旨、総務から聞きました。ゆっくり休んでください。お大事に」


ミルクパンに目を戻し、コンロの火を消す。マグカップにはあらかじめ練っておいたココアを入れてある。マグカップに牛乳を注いでスプーンでかきまぜる。甘い匂いが立ち上る。


ミルクパンを置いてからもう一度メールを読み直す。読み間違えがないことを確認して、携帯の電源を落とす。


それほど忙しい時期ではない。少なくとも今日中にふたたび連絡が来ることはないだろう。パンに水を注いで流しに置く。ココアの袋を流しの下の調味料の隣に戻す。換気扇を止めて、マグカップを持ってリビングに移動し、扉を閉める。


高度の低い冬の日差しは雲に遮られ、部屋のカーテンをほのかに照らすばかりだ。普段なら聞こえてくる窓の外の喧騒も、昨日から降り続ける雪にかき消されている。室内に光と音を与える役割は、点けっぱなしのテレビに任せられている。


こたつの上にマグカップを置いてこたつに入る。


なぜ風邪を引いたのか、よくわからない。昨晩まで体の調子は悪くなかったのだが、今朝、目が覚めると軽い頭痛がした。体が少し熱っぽい。体温計で熱を計ると、37度をすこし越していた。会社に出られないほどではないが、同僚に風邪を移しても悪い。


それなりに真面目に働いているのだ。一日くらい休んでも、誰も文句は言わないだろう。僕のいない職場を思い浮かべる。誰もがいつもどおりに働いていた。問題ない。今日いちにち、ゆっくり養生しよう。温かいココアに口を付ける。


小さく笑い声が聞こえた。マグカップをこたつに置いて、テレビを見る。司会者が1人と、出演者が3人ほど。出題されたテーマに出演者が答える、よくあるタイプのトーク番組だ。今日の出演者は、どうやら全員が若手の芸能人らしい。アップで映された若い男には、何となく見覚えがあった。


僕は、ぼうっとテレビを眺める。マグカップから立ち上る白い湯気に焦点が移っていく。


*


ちょうど同じくらいの時期だった。雪が降った次の日だった。僕は高校生だった。


朝、目が覚めると、軽い頭痛がした。すこし熱もあった。医者にかかるほどではない。しかし学校に向かうのは億劫だった。いくらか迷ったけど、僕は学校に電話して、風邪を引いたので欠席することを伝えた。


両親は共働きで、たまたまその日は僕が起きたときには2人とも家を出ていた。一応、母の携帯にも「風邪っぽいので学校休みます」とメールを送り、適当に朝食を取って、あとはこたつに入ってテレビを観ていた。


母が作ってくれていた弁当を食べ終える頃には、僕はすっかり退屈していた。風邪は悪化することなく、体が熱っぽいことを除けば、むしろ快方に向かっていた。カーテンを引いた薄暗いリビングで、やっぱり学校に行けばよかったかなと思っていると、携帯にメールが届いた。1通は母からだった。「了解。ゆっくり休んでください。お大事に」。もう1通は彼女からだった。「風邪引いたって聞いたけど、大丈夫?」。


その頃、僕は、同学年の女の子と付き合っていた。「大丈夫。なんかもうだいたい治った」と返信した。時計を見ると、ちょうど昼休みの時間だった。しばらく待っても彼女からの返信はなかった。やはり学校に行けばよかったと、僕は後悔した。


昼を過ぎてしばらく経った頃、家のチャイムが鳴った。訪問販売か何かだろうか。インターホンの画面を見る。


コートを着て、手にカバンとマフラーを持った女の子が立っていた。彼女だった。


僕は戸惑いながらこたつを出て、玄関のドアを開けた。


「おっす」


彼女は手を上げて、そう挨拶した。


「……おっす」


ドアを押さえて、僕も挨拶を返した。


「ああ、大丈夫そうだね」


「……学校は?」


「サボった」


彼女は頬をこすりながら続ける。


「体調が悪いことにして早退したから大丈夫」


「無茶なことするなあ」


そう言いつつ、僕は心底うれしかった。


「とりあえず上がりなよ。親も仕事に出てて居ないし」


「では遠慮なく」


ともかく彼女を家に上げて、こたつにあたるように勧めた。


「寒いよね。エアコンつけるよ」


「いいよ。自転車こいできたから、むしろ暑い。というか君は寒くないの」


「ここにずっといるとそんなでもないよ」


「そういうものかな」


「お茶でも入れるよ」


「いいよいいよ、病人に働かせるわけにはいかない」


「意外と元気なんだ」


「確かに元気っぽいけどね」


ニッと笑う彼女の顔がなんだか気恥ずかしく、僕はキッチンに向かった。気を落ち着かせるためにココアを作ることにした。牛乳をコンロにかけ、そのあいだに粉末のココアを水で練る。いくらかの砂糖を入れる。練ったココアを2つのマグカップに均等に分ける。コンロの牛乳が沸騰しないように見守る。


ココアを飲んだら散歩がてら外に出ようと決めた。外の空気にあたりたい気分だったし、なにより彼女に風邪を移すわけにはいかないから。


湯気の立つマグカップを2つ持って、僕はリビングに戻る。


「ココアにしたよ」


「においはしてた」


マグカップをこたつに置いて、片方を彼女の前へ渡す。


テレビには芸能人を集めたトーク番組が映っていた。司会者が1人と、出演者が3人ほど。出題されたテーマに出演者が答える、よくあるタイプのトーク番組だ。その番組を見るともなしに僕は彼女の話を聞いた。クラスメイトの愚痴、小テストの出来、古文の教師のセクハラ発言。


彼女が話すのをやめると、テレビの番組が音声が大きく聞こえる。画面には、ここのところ売れてきた女優が映っている。彼女の方を伺うと、目を大きく開いて画面を眺めている。


「わたし、女優さんって興味あるんだ」


「そうなんだ」


「うん。なんか、なんて言うんだろ、私、演技するの得意なんだ。それから、こういう番組みたいなところで面白い話して、みんなを笑わせたい」


正直に言うと、僕にはよくわからなかった。演技をするのが得意なのだろうか。あんまりそういう風には見えない。僕は話すのが苦手な方で、こういう番組に出ることを想像すると足がすくむ。


「そっか」


「そうなの」


どちらかといえば、僕は、実直に、特定の人を幸せにしてあげたい。でも、芸能界という世界は彼女に似合っている気がした。


ふと、この子はなんで僕と付き合ってくれているんだろう、と思った。だけど、あえて問うのも恥ずかしくて、僕はココアを一口飲んだ。横目で彼女を伺うと、目を細めてココアをすすっていた。他のココアより美味しいと思ってくれていればいいんだけど。


*


ふと、我に返る。


マグカップから上がる湯気は薄くなっていた。薄まった湯気の向こうで、テレビに若い女性が映っていた。ここ1年くらいで急に知名度を上げた女優である。僕が付き合っていた女の子は、いまテレビに映っているこの子なのだ。テレビの音量をすこしだけ上げる。僕の記憶の中にある声と、同じ声が聴こえる。



# 破


ココアを飲んだあと、僕らは散歩に出た。


近所の人に見つかると都合が悪いので、河川敷に向かった。河川敷と言っても、運動場や遊歩道が敷設されているような大それたものではなく、雑草の生えた河原が広がっている空き地と言った方が正しい。しかし、空は雲に覆われ白く明るく光り、河原は雪に覆われ白く鈍く光り、堤防から見える景色は、いつもと違って特別なものに見えた。


堤防から河川敷に下りる坂道を僕らはゆっくり歩いた。雪はそれほど深くなかった。靴底が埋まる程度だった。転ばないように気をつけながら、隣を歩く彼女を見た。クリーム色のふんわりしたマフラーを巻いて、紺色のコートに両手を突っ込んでいた。僕の視線に気付いて、彼女は「寒いね」と笑った。白い吐息が口から漏れた。「寒いね」と笑い返して、僕は足元に視線を落とした。気温は低いものの、風は吹いていない。火照った顔に、寒さがちょうどよかった。


河川敷に下り、川べりの小道に出た。片側には雪に覆われた雑草、反対側には川に下るコンクリートのブロック。細い小道だが、2人ならんで歩くくらいの幅はあった。僕は右手をポケットから出し、彼女に手のひらを向けた。彼女は微笑むと、左手をポケットから出し、僕の手を取った。僕らは手をつないで下流の方へと歩いた。


彼女は話すのが好きだった。僕は、そんな彼女の話を聞くのが好きだった。他愛もない話題でも、彼女は上手く語る術を知っていた。上手くオチをつける彼女の話に僕が笑い、彼女は得意げな顔をする。その顔を見て、僕はまた笑い、彼女もつられて微笑む、というのが、僕らの基本的な会話方法だった。


どれくらい歩いただろう。彼女の話は相変わらず面白くて、僕は時間を忘れて歩いた。すこし疲労を覚えるころ、川をまたぐ橋の下に差し掛かった。橋の下は、橋に遮られて雪は積もっていない。


「ちょっと座らない? 寒いし、制服汚れて申し訳ないけど」


「ん、いいよ」


僕らは、積雪が途切れたところに座って話を続けた。


*


ふと会話が途切れた。


僕は彼女の顔を見る。彼女は、微笑を口に残していたが、目は川に向いていた。彼女の視線を追い、僕も川を眺めた。僕らの足元の水面は橋の直下であるためか透明で、浅い川底を見通すことができた。揺らめく川面の向こうで、細かい砂や石がゆっくりと転がっていた。


彼女が体を動かした。雪を掬って、雪玉をつくっていた。


「冷たくないの?」


彼女の細い指を見ながら、そう尋ねた。


「うん」


彼女はあいまいに答えると、小さく丸めた白い雪玉を軽く投げ上げた。水音を立て、雪玉は川に吸い込まれた。


「……おお!」


隣で彼女が小さく感嘆の声を上げる。川に入った雪玉が、さっと色を落としたのだ。雪玉は、水が染みこんだせいだろう、透明に澄んで、きらきらと光を反射させながら、川底をころころと転がっていった。雪玉が見えなくなってから、彼女の方を振り向く。


「すごい」


目を細めて彼女がそうつぶやく。


「もう一回やってよ」


「うん」


彼女はうなずくと、ふたたび雪玉をつくり、川面に向かって放った。雪玉は、やはり、川の中で透明になり流れていった。彼女は、なにかすばらしい発見をした、というふうに顔を輝かせていた。


それから何度も、彼女は雪玉を作っては川に放った。雪玉を握る固さを変えてみたり、大きさを変えてみたり、いろいろと実験をした。彼女の楽しそうな顔と、透明になる雪玉を見て、僕は幸せな気持ちを抱いた。


*


ふいに体に震えが走った。すこし冷えたようだ。


「寒くない?」


僕の言葉で、彼女も寒さに気付いたようだった。はっと眉根を寄せて言う。


「ごめん、風邪引いてるのに」


「いいよ、僕も忘れてた」


「戻ろうか」


僕の言葉に彼女は頷いて、僕らは立ち上がった。


「最後に1つだけ投げていい?」


「いいよ」


最後の雪玉が転がっていくのを見送った。川を流れる水の音が響いていた。彼女が、すん、と鼻を鳴らした。


「行こうか」


僕は振り返って彼女を見る。


「うん」


川面を見ていた彼女が答える。


「ねえ」


僕は彼女に問いかける。


「うん?」


彼女は僕の顔を見て、続きをうながす。


「今日のことは2人の秘密にしよう」


彼女はニッと微笑む。


「いいね」


「ねえ」


今度は彼女が僕に問う。


「うん?」


僕は彼女の顔を見て、続きをうながす。彼女は何も言わずに僕を見た後、目をつむる。


「……でも移ると悪いし」


「移らんよ」


目をつむったまま彼女が答える。


僕は彼女にキスをする。約束のしるしみたいだと思った。


*


僕が「幸せ」という言葉から連想するイメージは、彼女の冷えたくちびると冬の匂い。それから、透明な雪玉だ。


*


なんと言っても、河原は寒かった。次の日、風邪をぶり返して、僕は2日学校を休んだ。彼女は、言葉どおり、何ともなかったようだ。「ごめん」とメールが来たので、「気にしないで」と返した。


*


高校を卒業して、僕らは別の大学に進学し、自然と別れた。


受験勉強に必死で、彼女のことを思いやることができなかった。よくある話だ。それから僕は坦々と人生を送って、いまの会社に入った。彼女と連絡を取ることはなかった。たまたま見ていた深夜番組で彼女を見たときには驚いた。演技も上手いしトークも出来る。彼女は、自らに合った場所に立っているのだ。


彼女に対して未練があるわけではない。だけど、ときおり、あの冬の川べりのことを思い出すことはある。透明な雪玉と、あのとき交わした約束を思い返すことがある。


しかし、こうやって、テレビで彼女の姿を見て、あの頃のことを思い出すだけで、僕は満足していた。



# 急


トーク番組のテーマが、「いままでに働いた悪事」に変わった。最初に答える出演者は、彼女だった。


「さあ、どうでしょうかね。悪事。あなた、悪事なんて働きそうにないですね」


司会者は、彼女にそう問いかける。


「いえいえ、私だってやるときはやりますよ」


「おお、たとえば?」


「……学校をサボったり?」


「小さい!」


司会者の返しに、観客席から笑い声が上がる。


「初カレが高校2年生のときにできたんです」


笑い声が小さくなったタイミングで、彼女はそう続ける。


「ほうほう」


「それで、そのカレが冬に風邪を引いたんです。カレとは違うクラスだったんですけど、風邪を引いて学校休んでるらしいよ、って聞いたんで、昼休みに学校を抜けだして、カレの実家に行きました」


「うわー、カレ、うらやましいなあ、うわー」


司会者は、楽しげに合いの手を入れてから、問いかける。


「実家ってことは、カレのお母さんは家にいたんじゃないの?」


「いえ、カレの家はご両親とも働いていたので、カレだけでした」


「ふんふん、それで?」


「案外カレは元気そうだったんで、外に連れ出しました。雪の降った次の日で、きれいだったんです」


「それはダメだね! カレ、風邪引いてたんでしょう!」


「悪いことしました」


彼女は額に手をあてて、申し訳無さそうに言う。


「そのまま2,3時間連れまわして、川辺を歩いたんです。そうだ、ご存知ですか? 雪玉を川に投げ込むと、透明になるんですよ」


「ええ、透明になるの?」


「ほら、大根を煮ると、透明になるじゃないですか。あれと同じことじゃないですかね」


「なるほど、いい例えだねえー」


司会者が首を振りながら、そう評価する。司会者のそぶりに観客席から笑いが起こる。


「それでそれで?」


「それはよかったんですけど、次の日、元カレは風邪をぶり返しました」


すこし言葉を切って続ける。


「2度くらい熱が上がって、それから2,3日学校休みました」


「なるほどねー。カレをたぶらかせて風邪を引かせたわけだ」


「やっぱり私が悪いんですかね」


「そりゃそうでしょう! わかってるくせに! かわいい顔して悪い女だね」


司会者が話を落とす。他の出演者と観客が悪意のない笑いを上げる。


「ありがとうございましたー。じゃあ、次の方、行きましょうかー」


司会者の音頭で番組は進行し、画面は若い男の顔に切り替わる。


*


テレビの電源を落とす。部屋から光と音が消える


僕はこたつに潜りこむ。体を丸め、目を閉じる。

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