第5話


 「俺は飛んでいかなければならない」


 「と、言いますと?」


 「…よくはわからないんだ。ただ、無性にそう思える自分がいる。もちろん、引き返せるものなら引き返したい。帰れる場所があるなら、帰りたいさ。でも…」


 「でも?」


 「きっともう、間に合わないんだと思う。引き返せる場所はないんだと思う。地上から飛び立ったあの時に、そう感じた。水平線の向こうに行くしかないと思った」


 「…そうですか」



 亡霊のようなその人は、寂しく頷くように俺の前を歩き、「ついてきてください」と、その一言だった。



 「あなたが向かう先がどこに続いているかは、誰にもわかりません。ですが、これだけは言えます。この霧の向こうに行くための手段は一つだけ。それはあなた自身が、「霧」になることです」


 「…俺自身が、「霧」に?」


 「はい。ここはあらゆる世界の運命が収束している場所です。しかし残念ながら、人が人の運命を変えることはできません。運命とは世界の秩序です。世界が破綻しないための「均衡」なのです。この「霧の世界」は、その均衡が崩れないために存在しています。時計の針が、たった一本しか存在しないように」


 「…理解が、できないんだが…」


 「無理もありませんね。しかしあなたがここに来たということは、あなたにはまだ、やり残したことがあるのではないですか?」


 「やり残した…こと?」


 「この「霧の世界」は、“時間が永遠に経過しない”場所でもあります。そしてそれ故に、人の魂が集う場所でもあります。世界は運命の歯車の内側に動いています。川の水が海へと流れ着くように。雲が風に流されていくように」


 「人の「魂」が…?」


 「ええ。ですから、あなたは試みなければなりません」


 「試みる…?試みるってなにを?」


 「生きること。生き続けようと思うこと。そう思うものだけが、霧の晴れた空に行けます」



 生きる…こと?



 亡霊が言っていることを、すぐには理解できなかった。


 言葉がわからなかったわけではない。


 むしろ、その「言葉」の矛先に向いているものが何かを、どこかでわかっている自分がいる。


 そんな気がした。


 真っ白な、——視界の中で。

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