7
裸足で宿を飛び出す。数件の並んだ建物にまで延焼しており、煌々と燃える火柱のせいで、夜なのに明るい。宿に隣接していたウツワ様の祠も、呆気なく炎に包まれて崩れ落ちていく。
宿の炎から逃げ切って、村人の男が追ってくる。胴間声が炎の中に響く。
「殺せー!」
もはやウツワ様候補とか、どうでもよくなったのだろう。現ウツワ様を燃やした先生に、ただただ激昂している。
「殺せ! 殺せー!」
逃げ延びた人たちがばらばらと宿から出てくる。それぞれ燃えた木材やら、竹槍、石斧やらを携えて、目を血走らせて突撃してくる。
暑さと恐怖で汗が噴き出す。足の裏を石が傷つけ、痛みで走れない。でも、止まれないから走る。喉が焼けそうで、息ができない。
「せんせえ……」
声にならない声を絞り出す。先生も、普段の飄々とした表情からは想像できないような険しい顔で、汗を滴らせている。
変な酒のせいで体が痺れているのだろう。先生の脚が、がくがくしてくる。先生が僕の手を引いていたはずが、いつの間にか、僕のほうが先生より前を走っていた。
どれだけ痛くても、苦しくても、立ち止まるわけにはいかない。僕も先生も、夢中で走った。
先生が自身の浴衣の中に手を入れた。そしてニヤリと目を細め、車の鍵を取り出す。
他の荷物を取り上げられても、先生は車の鍵だけは隠し持っていたのだ。彼女ははじめから、折を見て逃げ出す気満々だったのである。
先生はその鍵を、僕に握らせた。
「小鳩くん、頼む」
「なんで……」
「変なもんを飲まされたせいか、体が痺れてきて、目もよく見えないんだ。村のおっさんたちが言ってたとおり、そのうち動けなくなるんだろう」
先生の声は、建物の倒壊する音に掻き消されていた。
僕は喉で絡む声を、必死に絞り出した。
「先生を置いては、逃げられません」
「当たり前だ。私が立ち止まったら、君が迎えにくるんだよ」
先生の声は、消え入りそうなのに力強い。
「私はまだ、死ぬわけにはいかない」
がくっと、先生が膝をついた。握っていた僕の腕から、するりと先生の指が解ける。
「頼んだぞ、私のアシスタント」
先生の虚ろな目が、僕を見上げている。うねる炎の波と、大声で喚く村人の声が、迫ってくる。
僕はぎゅっと、鍵を握りしめた。立ち止まるわけには、いかない。
先生に背を向けて、僕は駐車場へと全力で駆け出した。
車まで辿り着いた。小高い丘から村が一望できる。真っ暗な空の下、村は炎の海だった。消火設備がないから、炎は広がっていく一方なのだ。
僕はその眩い光の渦に愕然としていた。村が、人が、火の中に呑み込まれていく。
顔を背けて、車に向き直る。タイヤが凹んでいる。どうやら村の人に、空気を抜かれたみたいだ。ただ、完全には抜けていない。これなら走れる。
ドアに鍵を突っ込んでいるうちに、村人の男が追いついてきた。
「死ね!」
燃えた木材を振りかざしてくる。僕は咄嗟に屈んで避けて、そのまま男の懐へ潜り込んだ。胸に向かって肘を喰らわせ、突き飛ばす。
体制を崩した男の手から木材が転げ、後ろにいた別の男に火の粉が降りかかる。
「うわあああ!」
人の服に火が燃え移る。追いついてきた他の村人が、騒いで飛び退く。炎を纏って叫び、のたうち回る男の姿に、僕はがくがくと震えた。
それでも僕は先に進まなくてはならない。車のドアを開けて運転席に滑り込み、エンジンをかける。ブロロロロと、車が唸り声を上げた。
同時に窓が割れて、ガラスが降り注いできた。大きな石を持った村人が、助手席側から窓を叩き割ったのである。僕はひっと息を呑み、夢中でアクセルを踏んだ。
車がミシッと、重たく動き出す。僕はハンドルを切って、駐車場の柵に突進した。柵がバキバキと壊れていき、僕のために道を開ける。
車が突っ込んできても、村人たちは果敢に襲いかかってくる。ボンネットに斧を叩きつけられたが、強引に突破すると、斧を持つ人は道の脇に転げ、持っていた斧を落とした。
自らの危険も顧みず襲いかかってくる村人を見ていると、不安が募ってくる。彼らは怒り狂っている。地べたに伏して動けなくなっている先生なんて、抵抗もできずに叩き潰されてしまったかもしれない。
僕は炎が広がる村の狭い道を驀進した。アクセルを踏み抜いて、宿までの道を戻っていく。本来車が通る想定をしていない細い通路を、車が突っ込んでくるのだ。村人たちも、咄嗟に飛び退いていく。
やがて僕は、村人に引きずられる先生を発見した。ブレーキを踏むと、キーッと音を立てて車が急停車した。
「先生!」
もう動けないのだろうか。生気のない目でどろりと地面を見つめ、人形のように運ばれている。生きているのか死んでいるのかも分からない。
僕は転げるように車を降りて、村人を蹴飛ばし、先生を引き寄せた。全体重で倒れ込んでくる先生を、僕は両腕で受け止める。車の後部座席のドアを開け、先生を放り、僕もすぐさま運転席へと滑り込む。
「先生。帰りましょうね。絶対生きててください」
エンジン音が鳴り響く。少しバックして、倒壊している建物を下敷きにUターンし、村の外へ向かって直進する。煙と粉塵で周りが見えない。先生は横たわったまま動かない。
懲りずに追いかけてくる村人をはねそうになる。なんとか避けて突き進み、駐車場まで戻って、細い山道へと逃げる。
しかし村からも、軽トラが追いかけてきた。鬼の形相でアクセルを踏み抜くおじさんが、バックミラーに映っている。よく見れば荷台にも人が乗っている。僕らの車に追突する気で、特攻してくる。
僕はアクセルをベタ踏みした。それでも軽トラは距離を詰めてくる。
ガコガコと、車体が妙な音を立てた。村で車を襲撃されたダメージか、はたまた、見てないうちに細工されたのか。タイヤの空気を抜かれているせいもあってか、今にも止まりそうだ。どうしたらいい。このままではどうしたって追いつかれる。
ちらちらとバックミラーを気にしていて、僕は、はたと息を呑んだ。
先生が倒れている、後部座席。……その、助手席側の端っこ。バックミラーに欠けて映るシートに、なにかいる。
「えっ!?」
サスペンダー付きのズボンを履いた、幼い男の子だ。後部座席の隅っこで体育座りをして、膝の内側に顔をうずめている。折りたたんだ膝から目だけこちらに覗かせて、鏡越しにこちらを見ている。
もしかして村の子供が乗ってきたのか。いや、違う。こんな子はいなかった。
頭の中はしっちゃかめっちゃかなのに、やけに冷静に、かつての先生の発言が脳裏に蘇る。
『呪われた車だって紹介された中古車も……』
あれは、この車に取り憑いてる子供なのか。
そう思った途端、バックミラーに映る子供が、ぐりんと顔を上げた。耳まで裂けた口で、笑っている。
「えっ、え!? わあっ!」
動揺して思わず急ハンドルを切り、狭い道を踏み外す。乗っている子供を振り払えるわけでもないのに、運転が荒くなる。キャハハハッと、子供の甲高い笑い声がした。
そしてぬっと、僕の真正面に、逆さまの子供の顔が降りてきた。
「わああああ!!」
ここまででいちばんの絶叫が出た。子供は白目の部分まで真っ黒な目を三日月型にした。キャハハハッと、乳歯を見せて笑う。
視界を塞ぐ子供、後ろからは暴走軽トラ、壊れかけの自動車。動かない先生。
僕の思考回路はもう焼き切れていた。どこでハンドルを切り間違えたのか、もはや道は走っていない。藪の中を、バキバキと枝を折りながら突っ込んでいく。
気がついたら、ふわっと、車が宙を浮いていた。
「へっ?」
どうも脇目も振らずに走っているうちに、崖に飛び出したようだ。完全に道を失い、車は空中で止まっているように感じた。
落下していくときに、もう悲鳴なんか出なかった。だめだ。もう死ぬだけだ。
全てを諦めた矢先、車は真下から伸びていた木の上に落ち、その枝をバキリと折りながら横転し、その下の道路に投げ出された。
車は運転席側を下にして、横向きになって止まった。エンジンはもう動かない。点きっぱなしのライトがアスファルトの道を照らす。
シートベルトを締めていなかった僕は、車内で振り回された。全身を打ちつけて、今もひっくり返って動けなくなっているが、呼吸はできている。
僕は痛む体で、首だけ捻って後ろを振り向いた。崖から落下したおかげというかなんというか、軽トラは追いついてきていない。いつの間にやら、目の前に張りついていた子供も消えている。
問題は。
「……先生」
連れ戻した時点から、顔を上げてくれない先生だ。暗くてよく見えないが、彼女の体は、僕の荒い運転と今の落下のせいで、シートから落っこちているようだ。
長い髪は乱れ、浴衣もすっかり崩れている。
「せんせ……」
起きてください。そう語りかける、声も出ない。頭の中は真っ白だった。体も、痛くて動かない。今からどうしたらいいのか、分からない。
空っぽになる僕の耳に、微かな声が聞こえた。
「ふふっ」
後部座席からだ。僕はもう一度、そちらに顔を傾けた。窓に打ちつけられている先生の肩が、僅かに震えている。
「ふふふっ……ははは!」
黒髪をかき上げて、先生が起き上がる。傷と痣にまみれた顔で、彼女は高らかに笑っていた。
「最っ高だ! 呪いの村に、土着信仰、発狂する村人、ダイナミックな火事! カーチェイス、そして、崖からの強行突破だなんて! こんな面白い展開を、自分の身をもって体験できるなんてね!」
僕はぽかんとして、固まっていた。先生はひとしきり大笑いしたあと、ふうと息をついた。
「お疲れ様、小鳩くん。楽しかったね」
「全然楽しくないですし……生きてたんですね」
「言っただろう。『死ぬわけにはいかない』って」
先生はもぞっと姿勢を変えると、座席の隙間からこちらに顔を覗かせた。動けない僕を真上から見下ろし、満足げに目を細める。
僕は眉を寄せ、先生のご機嫌な顔を見上げた。
「少しは懲りました?」
「いいや? 全く」
楽しかったなどと言っている時点でそうだろうとは思ったが、やはり彼女は後悔も反省もしていない。
それどころか先生は、体はぼろぼろのくせに目を輝かせている。
「あー、楽し。最高だ。最っ高の“経験”ができた。小鳩くんがいるから、なにもかもが面白くなるんだろうな」
先生の手が、僕の頬を撫でた。どこかでつけられた傷のせいで、ぬるりと血の感触がした。
「君は最高のアシスタントだ」
楽しそうで誇らしげな先生のにんまり顔を、僕は目一杯、不服の目で睨んだ。
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