6
あれから数分後。僕と先生は、宿の宴会場に連れ戻されていた。大人数に囲い込まれ、為す術もなかった。
宴会場は、夕食時には並んでいた宴会用の長い卓は全て片付けられていた。代わりに、大量の赤い札が貼られた祭壇が置かれ、部屋の四隅には竹の燭台の上で松明が焚かれている。
祭壇には、赤い着物を着た女の人が座っている。やや波打った癖毛の、茶髪の女だ。その目には、生気がない。
村の人たちは、先生を祭壇の前に連れて行った。
「先生! 先生!」
僕は必死に叫んだが、村人は僕らを容赦なく引き離す。僕はガタイのいい村人ふたりがかりで両腕を掴まれ、自由に動けない。
僕は部屋の端へ、先生は祭壇の前で跪かされた。
「ウツワ様。ウツワ様。移ろいの儀の前にご報告なり。新たなる魂のウツワはここに」
村人のひとりのよく通る声が、宴会場に響く。他の村人たちは、おおお、と歓声のような呻きのような声を上げ、一斉に膝をついた。
僕も、左右に立つ村人に押さえつけられて、床に伏せられた。
床から顔だけ擡げて、祭壇の上のウツワ様を見上げた。この儀式のために、祠から出されたのだ。
肩までの茶髪には、ゆるく巻かれた跡がある。時代にそぐわない着物を着せられているが、女性自体は至って現代的な、大学生くらい普通の女の子に見える。ぱさついた髪と乾いた肌、それはとても作り物とは思えない。
作り物だったとしてもだ。ふらふらになっている先生を無理に引きずって、僕を強引に押さえつけている時点で、「演出だ」なんて通用しない。
先生はウツワ様の前で正座している。走ったり引きずられたりしたせいで、浴衣がかなり着崩れている。乱れた髪の隙間から、うなじが覗いている。
あの気風のいい先生が、不自然なくらい、全く抵抗しない。僕は場の空気をぶっ壊すつもりで、ひたすら叫んだ。
「先生、先生え……逃げて!」
ふいに、僕の傍にいた男が、顔を覗き込んできた。
「邪魔するでなか。あの姉ちゃんはウツワ様の儀式に呼ばれたきに。これは名誉なことじゃべ」
縁側にやってきて、僕に酒を飲ませようとした男だ。
「あの人はこれから、新たなウツワ様になるがじゃ」
ウツワ様の情報は、子供を産んでいない者。そして、村の男六人以上とまぐわった者。
この男……僕が先生とどういう関係か、僕がどれほど先生を大切に思っているか、わざわざサシ飲みに誘って聞き出そうとした上で、僕の目の前でこんなことをするのか。
僕は男を睨んだ。今すぐここで暴れて、先生を連れて宿を飛び出したい。それなのに筋肉質な男ふたりに捕まえられているせいで、身動きひとつ取れない。
仮にこの腕を解かれたとしても、逃げきれるとは思えない。ここは相手のフィールドだし、相手のほうが人数が多い。先生を連れ出せたとして、すぐに捕まる。そして次は抵抗できないよう、一層厳しい処遇を受ける。
村人の仕打ちへの怒りはもちろん、僕はそれ以上に、己の僕は無力さに絶望した。先生のアシスタントなのに、なにもできない。
打ち震える僕に、男が言う。
「お前さんも、この村の一員になるがじゃ。そうすれば村の男の勘定に入るき、あの女をウツワ様にする儀の仲間入りじゃ」
ブチッと、僕の中でなにかが切れた。
気がついたら、僕は隣の男の腹に蹴りを入れていた。
男が吹き飛ぶ。体をくの字に曲げて、床に倒れる。周囲がざわついた。
僕ははあ、と息を吐いた。
「ふざけるな。許さない」
嘘でも頷けば、仲間として扱われて解放されたのかもしれない。だが、そんな嘘をつける余裕はないし、嘘でもこいつらに迎合したくない。
それより、考えるより先に体が動いた。相手に容赦せず、みぞおちに鉄拳を喰らわす――先生の教えどおりに。
倒れた男が畳に唾液を吐く。唖然としていた他の村人たちが、男と僕とを見比べる。
「こいつは酒を飲んどらん。動ける」
「儀式の邪魔をするなら、外へ連れ出せ」
「いや……」
ざわめきが僕の耳を襲う。
「彼ももうひとりの、新たなウツワ様じゃ。丁重に扱え」
「……は?」
僕は座り込んだ姿勢で、固まった。
僕がウツワ様? 候補は先生じゃなかったのか?
僕を見下ろす村人らの視線が刺さる。にやにやと笑う彼らに、背すじが凍る。
もしかしてウツワ様は、「子を産んでない」なら男女は問わないのか。
床に倒れていた男が、体を起こした。起き上がった顔は、ニタリとにやけている。
「ウツワ様は、ひとりでなくてもええ。なんしょ女は、子を産んだ可能性を捨てきれん」
声が、僕の額に汗を滲ませる。
そうなる?
予想だにしていなかった。いやしかし、先生が犠牲になるよりは僕が人柱になったほうがマシか。一瞬そんな考えもよぎったが、「ウツワ様は、ひとりでなくてもええ」という言葉を鑑みるに、僕が先生の代わりになるのではなく、ふたりして同じ道を歩むだけだ。
「嫌だ」
言っても無駄なのは分かっているのに、僕はそう声に出した。
怖い。この恐怖は心霊的な恐怖ではなくて、緊張感を楽しむエンタメでもなくて。生物としての、死にたくないという、脳から出る危険信号だ。
「嫌だ……!」
そのときだった。
「ほう。ここで『候補はふたり』展開か」
宴会場に、凛とした声が響く。
「なるほど、面白い。軸がブレてインパクトが弱まる気もするが、意表を突くには悪くない」
先生だ。先生が、こちらを振り向く。
「帰るぞ、小鳩くん。そろそろ資料は充分だ」
「せ、先生……」
なんてマイペースな人だ。帰らせてもらえるわけがないのに。ここから帰る方法なんて、僕には思いつかないのに。
案の定、村人らはケタケタと笑った。
「帰る? ここが帰る場所だべ。ウツワ様はこの地のもんじゃべなあ」
「まあまあ。あの酒を飲んだけえ、じきに動けなくなるべ」
パチッと、松明の火が揺れる。ウツワ様は、祭壇から僕らを見下ろしている。
村人たちの視線の中、先生は立ち上がった。酒のせいなのか、少しふらついている。当然、横に立っていた村人が彼女の腕を引っ掴んだ。
「儀式を中断させるわけにゃいかん。大人しくすんべ。抵抗するなら、手と脚の骨を折るべ」
その村人の腕を、先生はがしっと握った。
「なんだと?」
そして腕を引きつけ、懐に入る。次の瞬間、村人の体は宙に浮き、祭壇へと叩きつけられた。
ガシャンッと音を立て、祭壇の骨組みが崩れる。祀り上げられていた女の剥製も、落下してきて畳に倒れる。
突然の背負投に全員が、僕までもが、呆然とする。
先生の前髪が、彼女の顔に影を落とす。
「手の骨を折られるのは困るな。小説を描くのに不便だろうが」
瞳にぎらぎらと、松明の光が揺れた。
「う……」
村人の中から、声が上がった。
「ウツワ様が! ウツワ様がー!」
「この女! ウツワ様に無礼を働いた!」
横たわる女の剥製に、村人が駆け寄っていく。その様を見下ろす先生に、僕を押さえていた男が怒鳴った。
「なんで、なんで動ける! あれだけ酒を飲んだのに!」
その声を先生は、はっと鼻で笑った。
「普段どれだけ飲んでると思ってんだ。どんな酒だろうが、私のアルコール耐性なら潰れてやらねえよ」
あの酒――この村の酒の匂いを思い出す。もしやあれは、本来なら立っていられなくなるほどの強い酒だったのではないか。
村人が次々に、先生を取り押さえようと駆け出す。
「ウツワ様への無礼じゃ!」
「ウツワ様候補はもうひとりいる。無礼者は祟りの前に殺せ!」
一斉に向かっていく彼らを、先生は燃える瞳で威嚇した。
「死ぬわけにはいかない。私が死んだら、あいつは二回死ぬ」
長い黒髪が光る。着崩れた浴衣から、傷を携えた肌を覗かせ、彼女は叫ぶ。
「あんたを殺すわけにはいかない。初音!」
初音――。
その名前が響いたとき、空気がドッと重くなった気がした。
先生は飛びかかってきた男を躱し、蹴飛ばす。男はよろめいて、燭台に衝突した。燭台が倒れ、松明が畳に落ちる。炎がパチパチと、燃え広がっていく。
僕はその光を目に映しながら、声を漏らした。
「初音……?」
その名前は、たしか。
どんっと、僕は床に突き飛ばされた。僕を押さえていた男たちも、先生へとまっしぐらに走っていく。
「まずい。火が広がる」
彼らの声で我に返って、僕はわたわたと周りを見回した。松明から燃え広がった炎が、畳を徐々に侵食していく。
「火事……! 先生、先生!」
今すぐ逃げないとまずい。すでに呼吸が苦しくなってきた。これ以上煙を吸う前に、外へと逃げなくてはならない。しかし先生は、村人たちに囲まれてしまった。
木造の壁に炎が這い上がり、崩れ落ちている祭壇にも火が移る。赤い札は次々と燃え、炎は飛び、女の剥製にも燃え移った。
「わああ! ウツワ様が、ウツワ様が!」
人が剥製に向かって団子になっていくのを横目に、先生がこちらへ踏み出してくる。彼女の背後で、燃える柱が倒れた。
パニックに陥った人々の声が、混沌と入り交じる。
「ウツワ様が!」
「逃げろ!」
「裏切り者!」
中には、煙にやられて苦しそうに噎せている人もいる。人と人に押しつぶされて動けなくなっている人も、倒れている人もいる。
僕はその場に立ち尽くして、足が動かなくなった。上手く呼吸ができない。逃げなくちゃと思っているのに、体が動かない。
そんな僕の腕を、パシッと、誰かが掴んだ。
「なにをしている。行くぞ、小鳩くん」
僕の手を引くのは、先生だった。長い黒髪に赤い炎が反射して、夜空色の瞳も、燃えるように煌めいている。
先生に引っ張られて、ようやく足が動いた。僕らは宴会場を飛び出し、廊下を駆けた。背後から火の手が迫ってくる。炎から逃げる村人たちも、ドタバタと繋がってくる。
建物がバキバキバキと音を立てて、全体が炎に呑み込まれていく。僕はもう、ひゅ、ひゅと吸うだけの呼吸を繰り返して、一心不乱に先生の背中に続いた。
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