灯る日
麗 音
朝
最近までは、季節の移ろいを無視した陽が降り注いでいたが、今日は柔らかい。
吸い込む空気の冷たさが、まだ慣れていない肺を刺激する。そのわずかな痛みさえ心地良い。
もう一度深く息を吐いて、ゆっくり時間をかけて十分すぎるほどに息を吸う。
朝。通勤、通学のピークを過ぎ、人の動きが少し落ち着き始める時間。
まだ朝の匂いが残っている。
説明の仕方も分からない、朝にのみ感じれる外の匂い。本当にただ「朝の匂い」としか言い表せられないこの匂いがとても好きだ。
夏でも、日が昇って間もない早朝に外に出ると感じられたが、やはり急に冷え込んだおかげだろうか、小さな幸せに出会えた。
確かこの匂いにも色々説明できる根拠があったような気がするが、理屈など無しに純粋にこの匂いが好きなんだ。
田舎だからか住宅街でもないのにとにかく静かだ。
人が少ないせいだなんて言いたくないが、明らかに鳥の方が数も声も多い。
今時珍しく音楽一つ聞かずに歩いている耳に、どこで鳴いているのかも分からないカラスの声がくぐもって聞こえてくる。
大通りへ向かうための脇道、後方をしっかり確認して右側へ渡る。
一年近くも同じ道を歩いていれば、目をつむってでも問題なく目的地に着ける。
この先でぶつかる大通りを右折したらその後はひたすらに直進。渡ることになる横断歩道は全部で四つ。内一つは通りを
通い慣れた道であるにもかかわらず、逐一道順を頭で辿る。
そんなことする人がいるだろうか。
歩きながら歩き方を考える人がそう多くいないように、わざわざ無駄な思考を巡らせる必要はない。
なのにも関わらずこの道を歩くときは毎度この手順を踏んでしまっている。
そして毎度同じ様に、こんなことはやる必要がないと言い聞かせる。
同じ工程でも何度も繰り返す。考えるという行為だけを無理やり続けさせる。
内容に変化がなくても、考え続けていること自体に不思議と意味があるように思える。
目の前の信号は赤。
この信号が青だと少しついている気がする。
どちらにしても反対側へ渡らないとならないなら、この一つ目の信号で渡れてしまえた方がテンポよく進めている気がして気分が良い。
もとより渡る気などなかったような顔をして、右に曲がる。
歩く速度は今までと変わらずに進んでいると、ふと違和感を覚える。
背負っているリュックの重さはいつも通り、にもかかわず体が少し軽い。
と思い右手で触れた左手首に何もないことに気付く。
忘れるのはあまり必要がないから。なんて言われるがその通りだと思う。
時間を確認しようと思うと、腕に目を向けるよりも早く、手がポケットに向かう。
意識したせいか、ポケットに入っている板がわずかに震えたような気がした。
でも知っている。
この板は、もう簡単には震えないことを。
一日に一度か、二度見て、並ぶ四角の隅に赤い丸がないか確認するためだけのもの。
機械だ。多くのことを可能にしてくれる機械。
この板一枚で世界中と繋がれるが、繋がろうとする意思がなければ繋がれない。
結局は自分次第。
自分が投げた思いを受け取ってもらえるか。
受け取ってもらえてた。
受け取ってくれる人がいるか。
いつも君がいた。
受け取ってたか。
たくさん受け取ってた。
目線の先、二つ目の信号はタイミングよく下ろしていた手を挙げる。
もう意思なんて関係なく、繋がれない。
受け取ってももらえない。
受け取らせてももらえない。
何もない。
誰もいない。
どこにも君が———。
パァン!!
発進を催促するクラクションが
突然の爆音に体が跳ねてしまったことが分かる。
大きい音は嫌いだ。どうしてもビクッとしてしまう。
それを誰かに見られていたんじゃないかと思うと、歩き方さえぎこちなくなる。
はっ。と意識的に息を一つ吐き出す。
次の信号が変わるタイミングのことを考えながら、歩みを進めていく。
さっきのクラクションの音が左耳に残っている。
右手を板に占領された右ポケットへ入れる。
うまく収まりきらなかった手の甲が感じた空気は、今日感じたどの温度よりも冷たかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます