鯉の池

@rabbit090

第1話

 私は誰かのことをいつも、壁を隔てた一枚向こうの存在だと感じている。

 どうやら、それが相手にも伝わってしまうのか、関わっていくうちに次第に、距離ができてしまう。

 必然的に関わらざるを得ない場合には、その相手の困惑とした顔に、随分と苦しい気持ちになっていた。

 それを繰り返したから、そもそも人と関わるような職業はやめようと思い立ち、私はいくつかの退路を築いた。

 そのおかげで誰かの命令の元で仕事をする、というお互い不幸にしかなり得ない状況を、避けることに成功した。

 「みおちゃん。こっち向いてよ。」

 「ごめんなさい、今日は無理なの。」

 ああ、また始まった。

 「それより、この前の話の続きを聞かせてよ。私、聞くから。」

 「そうだった、それでね。」

 私は、その退路の一つとして、こういう仕事を行っている。組織に属している感覚は無い、私は、芸能事務所に所属している個人契約のタレントのような存在でいられた。

 でも、今日は疲れているから、さっさと帰りたい。

 そう強く思っても、

 「で、いいよね?」

 「ああ…はい!」

 逃れることはできない。

 流れ着く先がこんなところって、ある?

 でも、私は普通に大学を卒業して、普通に企業に就職できなくて、それでいろいろさまよって、でも、でもだから、

 「ちょっと準備してくるね。」

 まだ相対的に、ここは天国でしかなかった。

 

 私には、お金を稼がなくてはいけない理由がある。

 それは、

 「連絡来てる。」

 もうそろそろだった。お金は、随分とたまっていた。私は女で、だからいい男でも捕まえれば、永久就職できるんじゃないの、なんて嫌なおじさんには言われるけれど、私はそういうものには期待をしていない。

 自分に力で、お金を稼いで家を買うのだ。

 それで、私は、生きていける。

 東京にいえさえ買えば、生きていける。

 計算してあと数十年、大丈夫。

 その頃には私も年金をもらって、人並みの生活をしていける。

 私は、そのためにお金を、稼いでいる。

 「つまんない。澪、可愛いのになんで?」

 同じところで稼いでいるゆうは、奨学金が払えなくてこの仕事をしているらしい。

 新入社員で入った会社で、苛烈な目に遭って、それでそのまま親にも勘当されてここに流れ着いたって、言っている。

 ここには、でも本当のことを言っている人間は多くない。誰も、率先して聞かないし、聞かなくても大丈夫だった。

 のに、

 「つまんないって、可愛くないし。私お金だけあればいいから。」

 「馬鹿ね。間違ってるよ。澪、絶対にできることを増やしていって、小さなことでもいいの、したいことをしていって。」

 「ええ…?」

 優は、私より少し年上で、なぜか私にこう言う小言をよく行ってくる。

 何で?って聞いたら、澪を見ているともどかしい、と言われた。

 でも、私にリタイアは後少しだし、もう少し、もう少し。

 私はいつも、心の中で手を合わせている。

 もう少しで、大丈夫になるんだって。


 眠る瞬間に訪れる絶望が、いつも私を揺らしている。

 この仕事を始めてから一番よくなかったのは、眠れなくなったことだった。

 強烈な羞恥が、この瞬間に一気に訪れる。

 私は、それに引き込まれないように、心を鎮めている。

 助けて、と一言だけ呟いて、私はまた意識を失った。

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