トロナリバー
たけ
あの日俺は涙した。
その後の人生の中でも、あの日以上に涙を流した記憶は今のところない。
2006年9月8日、曇天が広がる蒸し暑い昼下がりの授業中、一通のメールが携帯を鳴らした。
「トロナが病気」というものだった。
トロナとは俺が中学1年生の時から4年間乗っている愛馬の呼称だ。牝馬(メスの馬)で気性が荒く、気分屋で乗りこなすことがとても難しい馬だった。体格も大きく、食欲も旺盛で餌をやりに来た乗馬クラブのオーナーに蹴りを入れ、病院送りにしたような経歴を持つ、小学校4年生から馬にのめり込んだ自分が初めて大きな壁にぶち当たった馬である。
トロナが病気?13歳のトロナは乗用馬としてはまだまだ現役の年齢である。様々な不安が交錯しながら午後の授業は上の空で、時計の針が進むことを拒んでいるように、時間の流れが残酷なほどに長く感じた。
15時頃に長い長い授業が終わり、車で15分の場所にある乗馬クラブまで向かうと、そこには獣医さんやスタッフに囲まれたトロナの姿があった。ぐっしょりと全身に汗をかき、屋内馬場でぐったりと横たわるトロナは、今にも泣き出しそうな俺を見つけると力を振り絞り立ち上がった。
息の荒いトロナを撫でながら獣医さんに病状を聞くと、頭が真っ白になった。
「もってあと2時間~3時間だろう」
何らかの原因により腸閉塞を起こしたようだが、開腹手術ができる設備の整った場所まで運ぶには体力が持たないだろうと。昨日まではあんなに元気だったのに。
まだ現実を受け止め切れない俺に、獣医さんからある選択を迫られた。
わずか1~2%の可能性を信じ、このまま回復を待つか、安楽死をするか。
前者を選択した場合、行き場を失った腸の内容物が逆流して気道を塞ぎ、窒息死をするとのことだった。生まれてこの方経験してきた、どんな二択よりも難しい選択を真っ白な頭の中で反芻している俺に、獣医さんが言った言葉は、お前の馬なんだからお前が決めろと。
きっともう動きたくない、横たわっていたいであろうに、私は大丈夫だから。と言わんばかりにトロナは立ち上がり、今も俺の横を離れない。自分が死ぬほど苦しいのに、涙で前が見えない俺に寄り添ってくれるトロナは本当に気高く、強い馬であった。
俺は安楽死を選択した。
トロナが苦しみぬいて、窒息していく姿を隣で見届けることはどうしてもできなかった。
「この薬は眠るように逝くから。」
獣医さんがそう言いながら注射すると、トロナは静かに息を引き取った。
息を引き取っても尚、美しい瞳が俺の滲んだ景色の先に輝いていた。
未だにその選択が正しかったのかどうかはわからない。
トロナは俺の馬で幸せだったのだろうか。
自分にもっと馬術の技量があれば、もっと上手に乗りこなし、この馬の素晴らしさを多くの人に証明できたのではないか。様々な思いを抱えながら、暗くなってもトロナの側で泣き続けた。
こんなにも悲しくて辛い思いをするのであれば、馬に乗ることはもう辞めてしまおうか。涙も枯れ果て、呆然とする俺に、話しかけてくれたのは乗馬クラブのオーナーの奥さんだった。
「トロナから貰ったものを、他の馬に活かしてあげることが、きっと供養になるよ」
馬術の最大の先生は馬である。
馬から様々なことを教わり、人間も成長していく。
トロナは持ち前のその気性の荒さや気難しさ、繊細さにより、多くの成長を俺に遺してくれた。
あれから20年近くが経とうとしているけど、今も尚、手綱を握る俺の腕の中でトロナは生きている。そして、トロナから貰ったものを今は子どもたちにも教えることができている。
トロナ、俺の馬に生まれてきてくれて本当にありがとう。
そして、これからもよろしくな。
トロナリバー たけ @shy_1221
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。トロナリバーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます