第2話 逮捕
稲田朋子が特高警察に逮捕されたのは、その夜のことだ。
朋子は19歳、帝都女子大国文学科の1年生で、ゆくゆくは国民学校の教師を務めることを望む才女だ。
端正な顔立ちに知性と意志の強さが垣間見え、透き通るような瞳が印象的だ。
日中の暑さも和らいだ縁側で、浴衣姿でたたずむ姿はまさしく準和風の美女そのものだった。
とはいえ、夕涼みを愉しんでいるわけではなかった。
その夜、予定されているオルグに参加し、不当逮捕されている仲間の解放計画を立てる手筈となっていた。
彼女が籍を置く活動組織を、『貝の衆』と呼ぶ。
利発かつ、筋の通った活動家として、仲間内でも朋子の存在感は高いものだ。
女ながら、準リーダー的な位置づけで反体制グループのメンバーを密かに取り仕切りつつある立ち位置だ。
男女平等思想、不平等な社会の是正など、女ながらに主義思想を確立した社会活動家でもあったためだ。
ここ数日姿を見せない、一道の来訪を待っていた朋子は玄関の物音に気づき、出迎えた。
だが、そこにいたのは想い人ではなく、背広を着た4人の男だった。
「警察だ! 稲田朋子だな?」
険悪な目つきの男が、念を押すように訊ねた。
「さようでございます」
朋子は凛とした口調で答えた。
「稲田一道のことで聞きたいことがある。やつはどこだ?」
朋子にはなぜこの男たちが、自分を連れに来たか、すぐにわかった。
一道は共産主義思想を持ち、党員として活動していたのだ。
治安維持法の下、多くの活動家たちが特高の手中に堕ちていたことを理解していた朋子は、ついに恋人にもその魔手が迫っていることを察した。
「生憎、存じませぬ」
朋子は気丈に切り返した。しかし、刑事は冷酷な顔つきで非常な言葉を投げつける。
「残念だが、稲田朋子。お前さんにも逮捕状が出ている。治安維持法違反だ…」
罪状を記した書面を取り出す。
「ええッ?…」
朋子の理知的な顔に狼狽の色がにじみ出る。
朋子自身、共産主義的な思想を持ち得ていたのは当然だったが、党員として活動はしていなかった。
(卑劣だわ…)
聡明な朋子は即座に特高の罠だと察した。
身を隠した一道を誘き出すためにも、婚約者である自分を捕えようというのだ。
しかし、朋子に抗う術はない。
「わかりました 身支度も御座いますのでしばらくお待ちくださいまし…」
朋子は玄関口に正座したまま、折り目正しく頭を下げた。
「いやあ、そのままで結構。どのみち、身ぃ、一つになっていろいろ喋ってもらうわけだし」
恰幅のいい刑事がいやらしさ丸出しで、残忍な笑みを浮かべた。
特高警察の恐ろしさ残忍さは、朋子自身、聞かされていたので頭の中では理解していた。
しかし、この後、朋子は権力を持った男たちの屈辱的な責め苦の恐ろしさを骨の髄まで教え込まされることとなる。
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