第76話 呼び声

「……」


 規則正しい寝息を立てているクモイの寝姿を、リシュールはじっと見た。


 初めて見るクモイの寝顔は、思ったよりもあどけない。

 リシュールはクモイの寝姿が、どこか孤児院にいたときの年下の子たちのような微笑ほほえましさがあって、何だかおかしな心地がした。


 このことをクモイに言ったら、きっと少しだけ不機嫌になるに違いない。見た目は二十代後半くらいだが、実際二〇〇歳くらい生きているのだから。


「……」


 リシュールは、クモイが思ったよりも深い眠りにいていると判断すると、気づかれないことをいいことに、よくよくその顔を観察し始めた。

「ウーファイア」を描くのに、彼の顔を見るのが参考になると思ったからだ。


 つややかな亜麻色あまいろの髪は、さらさらとしていて、上質な糸が合わさっているかのようである。


 肌は白くなめらかで、リシュールのように日に焼けていない。きれいだなと思っていると、目の下だけくすんでいるのが見えた。「くま」である。


「……」


 リシュールはクモイの顔から視線をはずすと、くるりと後ろを振り向く。すると調理場の突き当たりに、やわらかな光を放つ暖炉があり、そばには火にべるためのまきが用意されていた。クモイが買いしておいてくれたのだろう。


 また、床を見てみればきれいにかれているし、調理場もいつも清潔だ。洗濯物もやってくれていて、寝室にあるベッドには、角がきっちりそろえられた服が置かれている。


 全ての家事をこなし、それでいて日中はどこかへ仕事へ行っているのだから疲れて当然だ。


 リシュールは、もう一度クモイの寝顔に視線を向け、彼がよく眠っているのを確認すると立ち上がった。クモイの顔を観察するのはまた別の機会にして、今日はゆっくり休ませてあげようと思ったからである。


 それに、もし、じっと見ているときに思いがけずクモイが起きてしまったら気まずいだろうし、クモイも「従者」として寝ているところを見られたくないだろう。


「……」


 リシュールはそっとクモイから離れると、調理場に移動する。そしてテーブルに置いた紙袋と、椅子に置いた帽子などを手に取って、自室に戻ろうとしたときだった。

 クモイがわずかに声を出した。

 

「うっ……」


 最初リシュールは、その声は寝言だと思った。

 だが、様子がおかしい。


「う……くっ、うう……」

「クモイ……?」


 リシュールは振り向いて、居間にいるクモイの様子をもう一度見ると、まゆを寄せ苦しんでいる。


「クモイ!」


 名を呼んでけ寄ると、彼はまだ眠っていた。リシュールはクモイの肩をたたいて再度呼んだ。


「クモイ、クモイ!」

「……くっ、駄目だめだ……! うう……」

「クモイ!」

「どうして……そんなこ、と……」

「クモイってば!」

「うっ……」


 だが、リシュールの声は中々届かず、起きてくれない。どうやら悪い夢を見てうなされているらしい。


「どうしたら……」


 クモイの顔は青ざめ、脂汗あぶらあせが浮いてくる。

 もしかすると、一〇〇年以上前の辛い過去を見ているのかもしれない。そう思ったら、彼を早くこちらに引き戻さなくてはならないとリシュールは思った。


「よし……!」


 リシュールは意を決すると、クモイの肩をすり、ほほを軽くたたく。そしてさっきよりも大きい声で彼の名前を呼んだ。


「クモイ! クモイ起きて!」

「う……」

「クモイってば!」

「くっ……、う……」

「クモイ!! 起きろってば!!」


 その瞬間だった。クモイが飛び起きるようにして、目を覚ました。


「……はっ!」


 クモイは荒い息を繰り返し、自分がどこにいるのか分からないといった様子で固まっていた。


「クモイ、クモイ」


 今度は優しく彼の名を呼び、背をさすると、クモイは灰色の瞳をリシュールのほうに向けて見つめる。最初は焦点しょうてんが合っていなかったが、徐々じょじょに視点が合うようになり、息も落ち着いてくる。


「リシュ……?」


 クモイが戸惑いつつ尋ねると、リシュールはほっとしたように笑った。


「そうだよ。悪い夢を見てうなされていたみたいだから、起こしたんだ」


 するとクモイは、主人に迷惑をかけたと思い項垂うなだれた。


「……お手数をおかけして、申し訳、ありません」


 その様子にクモイらしいなと思いつつも、リシュールは悲しさのようなさびしさを感じ、彼に気負わせないようつとめて笑った。


「謝る必要なんかないのに。……そうだ。お水と、汗をくものを持ってくるね」

「いえ、それは私が……」

「いいから、クモイは座っていて」


 リシュールはそう言うと、自室へ行って箪笥たんすにしまってある輪奈地わなじ(=タオル生地きじのこと)の布を手に取り、続いて調理場でカップに蛇口から水をそそぐと、クモイに持っていく。


「はい、どうぞ」


 クモイは少し躊躇ためらいつつ手に取ると、布で顔を拭き、そして水をゆっくりと口に含んだ。そしてそれを全て飲み切ると、ようやく落ち着いた顔をした。

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