第31話 クモイの提案

「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ。どうなさったのですか?」


 リシュールとクモイがそれぞれ挨拶をすると、客は被っていた洒落しゃれた帽子を軽く上げる。


「やあ、どうも。昨日の靴を彼に見せたら、『その靴磨き屋を教えてくれ』というもんだから、連れてきたんだよ」

「それはありがとうございます」


 客は最初からクモイに話をしていた。これではリシュールが対応するのは難しいだろう。


「クモイ、ごめん。お願いするよ……」


 リシュールは小さな声でクモイに謝る。謝られたほうは「大丈夫ですよ」と言って、昨日と同じように丁寧に対応してしまう。


 客にとっては腕のいい人に靴を磨いてもらえていいのだろうが、リシュールは今日もクモイの傍にいて、簡単な手伝いをするだけで終わってしまうのだった。


*****


「リシュ、引っ越しをしませんか?」


 クモイがそう口にしたのは、この日の仕事が終わってからだった。あまりに唐突な話しで、リシュールは目を点にする。


「え、と……それはどういうこと……?」

「おかみさんに家賃を元に戻されるかもしれないとおっしゃっていたではありませんか。でしたらいっそのこと、別のところに住むのはいかがでしょう。あのお部屋では、私とまともに会話ができませんし……」

「話ができないのは、そうだけど……」


 クモイの言うことはもっともだった。

 昨夜のことがあってから、小声で話をしているがどうも不自由である。リシュールもそれはどうにかしたいと考えていた。


「それに、万が一下宿屋のおかみさんに、私が住んでいることを知られてしまえば、家賃の値上げどころか追い出される可能性もあります」

「で、でも、それは見つからないようにしてくれるって――」


 クモイは「もちろんです。ですが――」と言ったあと、彼はにこにこと笑って「これは建前たてまえです」と言った。


「た、たてまえ?」


「そうです」といって、クモイはうなずく。


「私は、あるじさまであるリシュが、快適に過ごすことを望みます。それにリシュは毎朝調理場の掃除もなさっているではありませんか」

「それは家賃を半分にするための条件なんだよ」

「条件とはいえ働いているのです。その分が、家賃に補填ほてんされていてもおかしくないでしょう」


 リシュールは苦笑した。


「クモイの気持ちはありがたいよ。でも、僕はお金がないからあそこに住んでいるんだ。それに子どもだから、部屋を契約することも難しいんだよ。あの屋根裏部屋だって孤児院の先生が書いてくれた書類を見せて、事情を話して、何度も頭も下げて何とか住まわせてもらったんだ」


 孤児院から出て、一人で生活をする子どもたちが少なからずいるというのに、社会にそういう子たちを受け入れられる体制ができていない。そのため、路地をはじめとする野外で生活せざるを得ない子どもたちも少なくない。


 それを分かっているからこそ、リシュールは「自分はマシなほうだ」と思うし、屋根裏部屋にしがみつかなければならないのだ。


「クモイはお金があるんでしょう? それなら僕には構わずにちゃんとした部屋を借りなよ。僕の絵が欲しいならそこに持って行くからさ」


 だがクモイは首を横に振る。


「いいえ。私はリシュにお仕えする身ですから、一緒が良いのです。お金と契約のことは私にお任せください」


 はっきりと言いきる彼に、リシュールは困った顔に笑みを浮かべる。気持ちは嬉しいが、それを受け入れたらまた何もせずにいい思いをしてしまう。

 借りを返そうと思ったからこそクモイのお願いを聞こうと思ったのに、これでは何も変わっていない。


「そんなの悪いよ……」

「お気になさらず。従者として当然のことをしているまででございます」

「そうは言ってもなぁ……」


 主人がお金を持っていて従者を雇うなら分かるが、従者のほうが金を持っているというあべこべな状況である。リシュールがどうしたものかと思っていると、クモイが次のようなことを提案した。


「では、こう考えるのはいかがでしょう。私はリシュに絵を描いていただく代わりに、先に報酬をお渡しするのです。それは家賃の支払いだけでなく、私が行う家事労働なども含みます。さらにそれとは別に報酬も上乗せいたしましょう」

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