第28話 調理場の掃除

 下宿屋の調理場は、一階にある。

 リシュールは昨日使ったランプを持ち、眠っている住人を起こさぬよう足音に気をつけながら、静かに四階の屋根裏部屋から下の階に下りた。


 一番下の階に着くと、エントランスの前のランプが置いてあるテーブルにそれを置く。

 全部で十個あるランプだが、ここにはリシュールが戻しに来たものを含めて三個しかない。他の住人が返しに来ていないのだろう。現在下宿人は全員で六人なので、複数個持ったままになっている人がいるようだ。


 ランプを返し終わると、今度は玄関とは反対にある調理場へ向かった。


「おはようございます」


 リシュールはそう声を掛けてから、壁が青と白のタイルでおおわれている調理場へ入る。人気ひとけはないが、それでも挨拶をするのは、以前おかみを驚かせてしまったことがあったからだ。


 その日は、強い雨が降っていて、日常の音が雨音にまぎれて聞きにくくなっていた。調理場も何の音も聞こえなかったので、誰もいないと思ったが、おかみが脚の部分が板で覆われていた作業台の下で、黙々と掃除をしていたのである。


 するとリシュールに気づいたおかみびっくりして飛び上がり、作業台の天板に思い切り頭をぶつけてしまったのだ。その後「挨拶してから入りな」と注意されたため、彼女の姿がなくても言うようにしている。


「よし、やるぞ」


 リシュールは腕まくりをすると、気合を入れた。


 最初に行うのは、かまどの周辺にある、下宿人が使った食器類と料理で使われた調理器具の片付けだ。洗うためには水がいるため、外にある井戸のところまでこれらを持って行かなくてはならない。

 リシュールは、壁にってかけてある底が広くて浅いおけを手に取ると、床に置き食器を入れていく。


 一人ひとりが使った枚数はそう多くはないが、白い陶器の皿とスープ用の木製の器、ロフトニーを飲むためのカップを、五人の住人とおかみが使っているため、合わせると二十枚近くある。また、金属の肉刺し(フォークのこと)と木のさじもそれぞれ使っているので、人数分洗わなくてはならない。


 調理器具のうち、刃物はおかみがすぐに片付けるためないが、まな板や鍋は必ずある。特に鍋は、肉や野菜などを焼くために使った底の浅いものと、スープを作った深いものがあり、夕食のたびにそれらが一セットか、二セット使われるのだ。


 だが、これらを一気に井戸端いどばたに持って行くことはできないので、いつも食器を洗った後に、鍋などの調理器具を持って行って洗っている。


「あと、石鹸せっけんと布巾を入れて、と……それと食器布しょっきふ


 リシュールは次に、備え付けの棚に入っている石鹸と清潔な布巾ふきんを取り出す。それと食器を洗うために使っている、食器布(食器を洗うための布で、汚れが落ちやすいように表面が凸凹している)を布などを掛ける簡易的な物干しから取って、汚れた食器と重ならないように桶の中に一緒に入れた。


「よいしょっ……」


 リシュールは必要なものを入れると、おけを持ち上げ、井戸がある下宿屋の裏口へ向かう。


 裏手には井戸だけではなく物干し竿もあるのだが、ここで生活している住人の洗濯物も干して良いことにはなっているので、利用する人もいる。


 リシュールも洗濯はするが、冬場はあまり行わない。裏手が他の建物の壁に囲われた場所のため日が差さず、冬場は特に乾かないためだ。


 乾かなくても問題ないほど衣類を持っていればいいが、リシュールはそうではない。そのため、下着以外は三週間近く洗わずに着ていることが多い。

 孤児院にいたときは、少なくとも一週間に一度洗っていたことを考えると不衛生だと思うが、状況が状況なので仕方ないのだ。


 リシュールは裏口の前に立つと、両手がふさがっているので裏口の取手を右肘を使って押し、扉は体で押して開けた。本当は一度桶を下に置いたほうがいいのだが、面倒なのでいつもこのようにして開けている。


「あっ」


 するとそこには、酥色そしょく(クリーム色のこと)の厚手のセーターに、涅色くりいろ(黒に近い茶色のこと)のスカートをはいたおかみが、つるの付いた桶を手に持って、いつもと変わらぬ不機嫌そうな顔で立っていた。


「あ……、おはようございます」

「おはよう」


 リシュールが挨拶をすると、彼女は特有の低い声で返す。

 飲水を作るための水を運んでいるのだろう。この仕事は必ず毎朝おかみがしている。


「……」


 挨拶の後は常に沈黙が落ちる。

 おかみは必要最低限のことしか話さず、リシュールも何を話したらいいのか分からないのでつい戸惑ってしまう。一応、何か世間話をしたほうがいいだろうかと数秒悩むのだが、おかみの不機嫌そうな顔を見ると余計なことをしないのが一番だと思い、結局何もせず、会釈えしゃくをしてそそくさと井戸の傍に桶を持って行くのだった。


 だが、今日は少しだけ違った。


 リシュールが、さて、食器を洗うかなと思うと、おかみが彼の名を呼んだのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る