第37話 心の小さな動き

 クモイがリシュールのために選んだ三つの部屋は、どれも好ましいところだった。当然屋根裏部屋と比べたらどこだってそう思うに決まっている。


 だが、三つともきれいで清潔さがあり、きちんとした造りになっているだけではなく、つつましさがあった。それがリシュールにとって好感が持てた。


「どうしようか?」


 三つの部屋を見て、最初に入った部屋に戻ってくると、クモイがリシュールにそう問いかける。

 彼の話し方がいつもと違うせいか、くすぐったいような、照れくさいみたいなものを感じながら、リシュールは「ここがいい」と言った。


 対面式の調理場と小さな居間、そしてクモイとリシュがそれぞれ使える部屋が一つずつ。そしてベッドが二つ入った寝室がこの部屋にはあるのだが、これはリシュールが特にクモイにお願いした点だ。


 屋根裏部屋にはベッドが一つしかない。さすがに一緒に同じベッドに入るわけにもいかず、クモイは就寝のたびにマントの中に戻ってもらっている。


 マントの中には人一人生活できる空間が整っているとは言うが、気にはなっていたのだ。

 これで心置きなくリシュールも眠ることができる。


 そして何より良かったのは、窓からの景色だ。


「どこもよかったけど、ここは買い物もしやすそうだし、何より外の景色がきれいだ」


 この建物が、丘の傾斜に沿って立てられているため、高い建物は連なって入るものの、窓からは解放的な空を眺めることができる。

 今まさに闇へと姿を変えようとしている藍色の空には、西に沈む淡い光がまだらに広がる雲を赤く照らしており、幻想的な雰囲気が感じられた。


「町が良く見渡せるね」


 傍に立ったクモイが優しく言った。リシュールは彼の優しげな横顔をちらりと見て「うん」と大きくうなずくと、言葉を続けた。


「空の絵も、窓辺に座りながら描けそう」


 屋根裏部屋にいるときも、窓から空を見上げて絵を描くことはあるが、建物が隣接しているので、空が建物の壁や屋根で切れてしまうのだ。建物がある状態で描くときもあるが、リシュールはさえぎるものがない状態の空を描くほうが好きなため、想像して開放的な空を描くこともあるくらいだ。


 クモイの名を決めるときに見た絵も、建物に切られた空から想像して、画用紙いっぱいに表現したものである。


「じゃあ、ここにするよ?」

「うん。いいよ、


 そのときだった。クモイの表情がわずかに変化したのである。狼狽ろうばいしているような、思いがけないことに、気持ちが追いついていないといった様子だ。


 だが、それはほんの一瞬のことで、彼はすぐに表情を改めると「分かった」と人の良さそうな笑みを浮かべてうなずいた。


「……」


 クモイが後ろを振り向き、不動産屋の人と契約の話をし始めるのを聞きながら、リシュールは美しい空を見つめて考えていた。


「お兄ちゃん」といって、あんな風にうろたえるのは、きっとか弟か妹がいて、クモイのことを「お兄ちゃん」と呼んでいたからではないだろうか。


「……」


 だが、リシュールは「弟か妹がいたの?」という言葉を飲み込んだ。これで何度目だろうか。「クモイのことを知りたい」という気持ちを、心の奥にしまったのは。


 リシュールはクモイとの日々を過ごしていくうちに、「クモイ」について知りたくなっていた。親しい間柄になり、気も許せるようになってくると、相手のことを知りたくなるのは自然のことだろう。


 だが、どうしてもリシュールはクモイの「過去」について尋ねることができなかった。


 これまでも、クモイは「主人と親しくなりたいから」とリシュールの過去を聞いてくるが、自分のことはあまり話そうとしない。


 もちろん、共に過ごしていくうちに、クモイの人柄は分かってはきている。それにもかかわらず、彼の背景にあるものは得体が知れないままだ。


 知りたければ聞けばいいのだが、クモイに「魔法」のことを聞くたびに曇るような表情と、出会ったときに話してくれた彼のことを思い出すと、とても言い出せない何かがあるのではないかと、リシュールは思うようになっていた。


 クモイは、二〇〇年生きている魔法使いというが、それも自分の意思によるものではなく「呪いのせい」であるという。


「呪い」というからには、何か悪いことでもしたのだろうかとも思うが、どうにも彼が何かをしたとは到底思えなかった。

 クモイは、リシュールのことになると強引なところはあるが、気立てが良く、寄り添うような優しさを持っている。


 そういう温かな心の持ち主であるクモイが、魔法使いの同胞どうほうがいなくなることになったという戦いを見てきたというのであれば、きっと凄絶せいぜつな過去だったのではないか。

 それを聞こうとするならば、その辛い思い出を掘り起こすことになるのではないか。


 リシュールはそう思うたびに、クモイのことを聞けないでいるのだった。

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