五章 卵焼きがスライム⁉

 その日の朝、ひいらぎ家はかつてない緊張に包まれていた。

 家族全員がキッチンに集まり、息を呑んでその場を見つめている。

 笑苗えなが、あの笑苗えなが、いままで食べるばかりで料理なんて一度もしたことのないあの笑苗えなが、いま、ついに、生まれてはじめての料理に挑戦しようとしているのだ!

 その異常なる出来事にひいらぎ家は戦々恐々。地震が来るのか、槍が降るのかと怯えている。

 母が、父が、中学生の弟が、コンロを前に立つ笑苗えなの後ろから不安と心配とに包まれながら見守っている。

 なにしろ、そろって料理には縁のない一家。母親もろくに料理なんてしないし、父親も、弟もまったくの未経験。包丁すら握ったことがないという時代遅れの連中。教えてやりたくても教えられない。ハラハラしながら見守っているしかないのだった。

 一方、笑苗えなはコンロを前にひとり、息を吐き、気を落ち着かせていた。

 目の前にあるのは卵が六個、サラダ油、砂糖、塩、醤油、大きめのボウル、そして、菜箸さいばし。卵焼き用の四角いフライパンなどないので、ただひとつあった丸いフライパンを用意してある。

 ――新道しんどうからは超豪華お手製サンドイッチをもらってるのに、お返しが冷凍食品のレンチンばっかりじゃさすがに気が引けるもんね。今日は手料理をふるまって、一気に挽回よ!

 その一念で手を染めることになった人生初の料理。

 挑戦するのはお弁当の定番、卵焼き。

 もちろん、作り方なんて知らないし、料理の本もない。スマホで検索して真っ先に出てきた動画を参考にした。一口に卵焼きと言っても味濃いめのもの、色合いのきれいなものなど種々様々。

 ――食べ盛りの男子だもの。ガッツリ味がいいに決まってるわよね。

 と言うわけで、挑戦するのは砂糖と醤油を多めに入れた味の濃い厚焼き卵。途中で手順がわからなくなったときのために、すぐそばにスマホも置いてある。

 息を吸い、吐き、気を落ち着かせる。

 「いざっ!」

 と、声をあげて、卵を手にとる。コンロの天面に卵を打ちつけヒビを入れる。ボウルの上に移動させる。卵の両端を両手でもってパカッ。卵の殻はきれいに割れて、黄身と白身の中身がボウルのなかへと落下する。

 「おおっー!」

 と、後ろで三人分の感嘆の声がもれる。

 こんなことで感心してしまうぐらい、料理に縁のないひいらぎ家であった。

 ――ふふん、どうよ。あたしにかかればこんなもんよ!

 と、笑苗えなは鼻息荒く胸を張る。

 「いや、卵割ったぐらいで得意になるのやめなさいよ」

 と、料理もこなすみおが見たらそう言うにちがいない得意振り。

 その調子で残り五つの卵もボウルに割り入れ、塩、砂糖、醤油を加えて菜箸さいばしでシャカシャカ。シャカシャカしたのだが……。

 「あ、あれ……? なんか、きれいな色にならないんだけど?」

 黄身と白身が混ざりきらずにまだらになっている。動画のようなきれいな黄色一色の生地にはなってくれない。

 「ま、まあ、焼けばきれいになるのかも知れないし……」

 素人特有の謎の『なんとかなる!』理論でそのまま続行。フライパンを火にかけ、サラダ油を入れ、溶いた卵を投入。フツフツしてきたところで巻こうとする。するのだが……。

 「あ、あれ……? なんか、うまく巻けないんだけど? 生地があちこちちぎれちゃうんだけどおっ⁉」

 慌てふためきシャモジを動かし、きれいに巻こうとするのだが、そうすればするほど形は崩れる。慌てふためくその姿に後ろで見守る家族のハラハラは募る一方。

 そして、出来上がった代物はと言えば……。

 「……それ、卵焼きじゃなくて、スライムじゃね?」

 両親にはとても言えないことを言ってのけた弟の勇気が光る、その一言が表現したとおり。

 表面は丸焦げ、中身は生焼け、形はグチャッと潰れ、しかも、生焼けの中身がデロリとはみ出している。

 これはたしかに食べ物ではない。

 スライムだ。

 自分の方が包まれ、溶かされ、食べられてしまいそう。

 「………!」

 いつもなら弟の暴言など聞き逃さず『教育』する笑苗えなだが、このときばかりはそんな余裕もない。

 ――さすがに、これはないわ。

 笑苗えな本人でもそう思った。

 とは言え、作り直している時間はすでにない。

 「……ま、まあ、女の子の手作りってだけでも男の子は喜ぶよね、多分……うん!」

 と、無理やり納得して容器につめる。

 「やめろおっー!」

 と、みおやあきらが見ていたら顔色をかえて叫ぶにちがいない勇気あふれるその行動(暴挙?)。そのまま勢い任せに学校へ。

 あとに残った弟はポツリと呟いた。

 「姉ちゃん……人死にだけは出すなよ」


 そして、その日の昼休み。

 すでにすっかり定番化している屋上で待ち合わせてのランチタイム。笑苗えなは必死の形相で切り出した。

 「きょ、今日はあたしも手料理もってきたの」

 「へえ? 君も料理したんだ」

 「そ、そう……! はじめて……なんだけど」

 「へえ」

 と、いつきは簡単に答えた。これは、

 1. 自分が料理が出来る。

 2. いままで素人の作った料理を見たことがない。

 以上、二点から来る『料理なんて簡単だし、はじめてだってひどいことにはならないだろう』という思いから来るもの。果たして、このときのいつきに、自分に降りかかる運命を知るすべはあったのだろうか。

 笑苗えなは必死の形相のまま容器を開け、いつきに差し出した。そこに収められていたのは――。

 まさに、スライム。

 そう言うしかない代物だった。

 作ってから時間がたったせいでもともと『グチャッ』だった形がさらに崩れてすでにグチャグチャ。生焼けの中身がもれ出し、広がって、まさに『崩れスライム』状態。丸焦げになった表面から黄色味そのままの生焼けの中身が飛び出している分、丸焦げになった死体から内臓がはみ出しているかのような不気味さが漂っている。

 「………」

 さしものいつきも一目見た途端、押し黙り、じっと卵焼き(だったはずのなにか)を見下ろしている。

 「……や、やっぱり、こんなの、食べられないかな?」

 笑苗えなが引きつった笑みを浮かべた。

 慶吾けいご雅史まさふみいつきの次なる行動を見ていれば、思わず尊敬の念を抱いたにちがいない。いつきはキッパリ、ハッキリ、言ったのだ。

 「いただくよ」

 いつきは容器を受けとった。デロ、グチャッときて箸ではなかなか捕えられない卵焼きをなんとかして口に運ぶ。ハラハラして見守る笑苗えなの前。いつきの言った一言は……。

 「……うん、おいしいよ」

 「本当⁉ よかったあっ!」

 笑苗えなは満面の笑顔になる。

 それではと、自分の分を一口、食べて――。

 笑苗えなの顔面が噴火した。

 そうとしか言いようのないレベルで表情が変化した。顔面偏差値では常にトップクラスに君臨してきた美少女にはあるまじき、お笑い芸人の顔芸並のその変化。もし、動画に撮られていたら一生、ネタにされるにちがいない。そう言うレベルの頑迷崩壊劇だった。

 苦い。

 甘い。

 しょっぱい。

 そして、まずい。

 表面の黒焦げがまず苦い。そして、砂糖と醤油を入れすぎた。

 「食べ盛りの男子なんだからガッツリ味が好きなはず!」

 と、張り切って入れすぎたのだ。

 おかげで悪い意味で味が濃くなりすぎた。とても食べられたものではない。こんなものを食べて、それでも『おいしいよ』と言ってくれたいつきの優しさは身に染みるものの、

 ――さ、さすがに、こんなものを食べさせてしまったのは……。

 身も縮む思い。と言うより、実際に身をちぢ込ませて恥じ入っている。

 交際経験のないいつきとしてはこういう場合、女子に対してどう声をかけていいのかわからず、その場で黙ってパニクってるのみ。

 ふと、笑苗えなの視線がそれに気付いた。

 いつきがいつもサンドイッチを入れてくる容器。それとは別に小型の容器がいつきの脇に置かれている。

 「それは?」

 笑苗えなが尋ねる。

 いつきはあからさまにうろたえた。

 「あ、いや、これは……」

 その容器を隠そうとする。

 そこで閃いたのは女の直感。笑苗えなは素早くその容器をひったくると蓋を開けた。そこにあったものは……。

 卵焼き。

 笑苗えなはまじまじといつきお手製の卵焼きを見つめた。いつきは手で顔を覆っている。

 その卵焼きときたらもう、料理の本にお手本として載っていても良さそうなほど立派なもの。色は全面均一な黄色で、黄色と白のまだらの部分もなければ、焦げた部分もない。それでいて生焼けの部分もなく、芯までしっかり火が通っている。形もしっかりしている。何層にもきれいに巻かれたその姿がなんともおいしそう。

 「……食べていい?」

 「……ああ」

 しっかり焼けていて箸で簡単につまめるその卵焼きを一切れ、口に運ぶ。

 途端に目を丸くする。

 「……おいしい」

 ギュッと詰まった卵の旨味。ほのかな甘味が口のなかいっぱいに広がる。絶妙に加えられた塩と醤油が味を引きしめ、砂糖の甘さを引き立てている。

 いったい、どこをどうしたら同じ卵でこうまで差が出るというのか。

 あまりに高い壁の存在に、さしもの笑苗えなも落ち込んだ。

 いつきはあわてて口にした。

 「い、いや、ほら、おれは前から料理してるから……それに、なにより、卵がちがうから」

 「卵がちがう?」

 「そ、そう。その卵はうちの畑のニワトリが今朝、生んだものなんだ。新鮮さがちがうんだから、そりゃ味もちがうって」

 新鮮さがどうとかいうレベルのちがいではない。

 この現場を見ているものがいれば一〇〇人中二〇〇人がそう言うにちがいないことをいつきは言った。

 「畑のニワトリって……新道しんどうってニワトリも飼ってるの?」

 「ああ。ニワトリは卵を生んでくれるし、畑の雑草や害虫も食べてくれる。糞は良質の肥料になる。小規模農家としてやっていくには欠かせない存在なんだよ」

 「そうなんだ……」

 笑苗えなはじっといつきの卵焼きを見つめた。

 「ねえ」

 「な、なに?」

 「あたしに料理、教えて!」

 「料理⁉」

 「そう。このままじゃくやしくて眠れないもの。なんとしても、きれいな卵焼きを作ってやらなくちゃ」

 笑苗えなの意外なほど真剣な瞳で見つめられ、いつきも思わず真摯しんしな表情になった。

 「……わかった。それじゃ、明日はちょうど土曜日だし、明日の昼にうちの畑で昼食作りするってことで」

 「ありがとう! お願いね、師匠!」

 と、いつきの手を両手でガッシリ握りしめ、自分の胸に押しつける。

 いつきの顔が耳まで赤く染まっていることに――。

 笑苗えなは果たして気付いただろうか?

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