6.3 何が、どうなってんだ?
――これが、あの、紗夜ちゃん?
紗夜が蒼一に対し、相当強い想いを寄せている。
ふと、肌にピリッと走った感覚をきっかけに、
あの時だ。
荒城くんを【救済】した、あの時だ――!
闇夜に紛れて鋭い刃を振るった剣士と、暗雲立ち込る夏空の下で黒い衝動に突き動かされつつある少女。二人が
「……あの夜に、魔物を討とうとした子は、あなただったのね」
「今はこっちの質問に答えるのが先でしょ? どっちが正しいの? 蒼一くんからあなたに迫ったの? それともあなたが蒼一くんをたぶらかした?」
「どちらでもないわ。なにもない。蒼くんと私は、あなたが考えてるような関係じゃない」
『じャアナンでソんなモノ買ッテきテるのよ!?』
業を煮やしきった金切り声は、もはや言葉や文章としての体をなしておらず、いい放った本人まで当惑させる。
『どウし、て』
紗夜がどう声を絞り出しても、元の輝きは戻ってこない。口元を覆う左手も、喉元をおさえる右手も、違和感と恐怖に震えだす。
それ以上にグロリアの目を引いたのは、紗夜の目元から溢れる雫だ。墨汁を流したような黒い後を残したそれは、重力のままに地を濡らして散るのではなく、宙に舞い上がり揮発する。
――瘴気だ!
グロリアの心体を、思考よりも早く、使命が突き動かす。放り出した全ての荷物が落ちるよりも速く伸ばされた【鎖】は、
「悪く思わないで」
息子の想い人相手でも、
開け放たれたままの門扉の外、【鎖】に絡め取られたまま道路に転がった少女は、ずっとグロリアを見上げている。瞳には魔法少女の姿はおろか、世界すら映っていない。食いしばった歯の隙間からは、人間とは思えない勢いの息が漏れ出る。痛みを感じるどころか、来たるべき瞬間に備えて力を溜めているのは明らかだ。
直後、紗夜の華奢な体が不自然に蠕動した瞬間、鼓膜を
――迷いを捨てろ!
グロリアは自らの両頬を張り、心の中で芽生えそうになった不安を無理やり押しつぶす。
【救済】した魔物が実は知人だった例なんて、幾度となく経験してきた。今、眼の前にいるのは魔物で、
だが、【鎖】は届かなかった。
手のかけ方を誤っただけで折れそうな細首から叫びがほとばしり、渾身の一振りを明後日の方へ逸らす。その余波で【転調】で常世と現世を切り離す意図をくじいただけでなく、驚愕に目を見開いた魔法少女を紙くずのように吹き飛ばした。
なすすべなく玄関扉に叩きつけられたグロリアは、ポーチに転がったまま動かない。
そんな恋敵を追って、紗夜は再び、花泉家の庭先に足を踏み入れる。我慢の限界に達した空から落ちてくる雨粒に濡れても意に介さず、左右に体を傾がせながら歩く姿は、ぐにゃりと曲がった背中も相まって幽鬼そのものだ。巫女らしい立ち姿も、楚々とした歩みも、もうどこにもない。消え入りそうな危うさと黒い存在感がせめぎ合った、極めて不安定な何かが、そこにいる。
その眼の前で、錠前が上がり、ドアハンドルが回った。
強まる一方の雨脚と、
「……何だよ、これ」
ゆっくりと開く玄関扉から現れたのは、長袖のシャツにハーフパンツというラフな部屋着のまま、熱でぼんやりした頭を抱える想い人だった。
足元で伏したまま動かない母親に、身を叩く雨の中で立ち尽くす少女。
熱が見せる幻覚を疑って頭を振っても、壊れた鐘が鳴り響いたような痛みが、蒼一に現実を頑として突きつけてくる。
「紗夜……? 何が、どうなってんだ?」
横たわった母のそばにひざまづきいた蒼一は、困惑と怯えを隠せぬまま、壊れたレコードのように力がない問いを漏らす。
「教えてくれよ……? これ、あんたがやったんじゃ、ないよな……? 違うっていってくれよ……」
庭先に
「なあ、あんた」
ささやかだが、あまりにも巫女らしくない無遠慮な振る舞いは、少年の心に疑念を植え付けるには十分にすぎた。
「あんた、本当に、紗夜か?」
頬はこわばったままだし、声もかすれているけれど、そこには明確な意思がある。
蒼一の疑問は、紗夜の足を止め、自らの姿を顧みらせた。
白く細い指先から、黒が、薄紙に染み渡る墨汁のように広がり始めている。
慌てて拭おうとしても叶わず、みるみるうちに指が、手のひらが、手首が、染まってゆく。
窓ガラスに映る姿は、彼女がヒトではない何かに羽化しつつある過程を忠実に描き出していた。
天に引かれる涙も、頬を縦横に走る
「なあ、答えろよ」
紗夜が背を向けて蒼一を拒絶した途端、死に瀕した枯れ木の枝を思わせる禍々しい翼が小さな背を突き破った。根本から先端、果ては滴る血に至るまでつや消しの黒に煮染められたそれを目の当たりにしては、蒼一ですらすべてが遅きに失した事実を認めざるを得ない。
紗夜は魔物に堕ち、魔法少女を圧倒して、ここにいる。
グロリアが敵わなかった相手に、自分ができることなんてあるか――?
蒼一が逡巡したときにはもう、紗夜はそこにはいない。翼をはためかせる前兆も、地を蹴る足音も残さず、雨風が暴れ狂う夏の空に舞う旅人と化している。彼女が自嘲するように笑みを浮かべた瞬間なんて、もちろん見えはしなかった。
残されたのは、雨の向こうに小さくなる少女を呆然と見つめたままの少年と、その足元でいまだ伏したままの魔法少女ばかりである。
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