4.3 いくらなんでも静かすぎねぇか?
一昨年の夏は、リトルリーグの全国大会を控え、早朝から夕刻まで一日中白球を負っていた。
去年は肩と肘にメスを入れて以降、結局報われずに終わるリハビリに明け暮れていた。
今年、失われた剛球のかわりに、彼の手元には白紙のスケジュールがある。よほど羽目を外さず、やるべき
朝食を済ませて早々、蒼一は外出の支度を整えた。洒落っ気とはまるで無縁で、上は長袖のアンダーシャツと普通のTシャツを、下はロングタイツとハーフパンツをそれぞれ重ねている。「これから私、ちょっくら体動かしてまいります」と強く主張する出で立ちだ。
「あら、お出かけ?」
「ちょっと体、鍛えようと思ってさ」
玄関で腰を下ろし、足元をランニングシューズで固めている最中に、案の定
「これからもオフ……グロリアの手伝い続けるんなら、そういうのも必要だろ?」
それっぽい言い訳ではあるが、半分は本音である。魔法少女の随伴を務める彼だが、身を守ることすら危うく、事件の事後処理も務められない。やっていることといえば現場の記録か、グロリアが力を使い切ったときに連れて帰るくらいのもの。自分はお荷物ではないか、という疑念はずっと拭いきれずにいる。
役割と存在意義を見失いつつあるから、自分はここで降りたほうがいいのではないか。大人たちの前でそうほのめかした蒼一だったが、まさか慰留されるとは思っていなかった。想像以上に強く熱のこもった口調で、これまで通り手伝ってほしいと頼みこまれてしまったせいで、つい勢いに負け、断れなかった。
とはいえ、魔法少女統括機構が蒼一に指示を出すのは、有事のときだけだ。日常生活で何をすべきか問うても「怪我と病気に気をつけて、学生らしく過ごしなさい」としか帰ってこない。できないことをやれと命令されるよりはマシだが、調べ物をしろとか、こういう技能を身につけておくようにとか、そういった要求もない。事前にどんな備えをするかは、良くも悪くも個々に一任されている。
体に馴染んだ競技の特性上、指示されることに慣れきった蒼一は途方に暮れるばかりだ。野球をやってた頃は何も考える必要はなかった、とつい、取り戻せない過去のことを思ってしまう。
練習では指示されたメニューを完璧にこなし、試合ではベンチから
ベンチがアホやから野球がでけへん――という先人の言葉を心の奥にしまい込むと、蒼一は夏への扉を開く。
「なんか最近、人を担いだり背負ったりして動くこと多い気がしてさ。足腰ってやっぱ重要なんだな、って思ったわけ」
「蒼くんが前向きに手伝ってくれるのは嬉しいけれど、お勉強の方は大丈夫?」
グロリアは嬉しそうに――本当に嬉しそうに微笑むのだが、母親として当然の心配は忘れない。蒼一は内心で冷や汗を拭いながら取り繕いに奔走する。
「帰ってきたらちゃんとやるって」
「暑いし、あまり無理しちゃだめよ?」
「わかってる」
着替えのシャツ・タオル・貴重品にペットボトルを詰めれば一杯になってしまう小ぶりなバックパックを背負い、仮初めの言い訳で後ろめたさを隠した蒼一は、朝の街へと自転車を走らせる。
グロリアが何を思って魔法少女の任についているのか。
事件を経てなお、荒城とこれまでと変わらぬ接し方ができるのはなぜか。
聞きたかったことはいまだ胸に秘められたままだ。何もかも普段通りの彼女と向き合うことに、まだ抵抗を覚えてしまう。野球をやっていたあの頃の勝負度胸は、プロのスカウトすら注目していた剛球とともに、今や忘却の彼方だ。
体を動かすために家を出る、という建前で、腹を割ってはなすという重要課題を棚上げにした蒼一は、ひたすらペダルを漕ぐ。
学生の懐具合と、どこの部活にも所属していない身の上を勘案すれば、できることはたかが知れている。市民プールで泳ぐ、市の体育館のトレーニングルームを使う、ロードワークに励むくらいか。おまけに彼の体が抱える事情――利き腕が肩より上に挙がらない――もあるので、選択肢は走るという一択に絞られる。
何をするか決めた少年は、街外れの神社に足を運ぶ。この街に引っ越してきたばかりの頃、ブラブラと散策していたときに見つけた場所だ。
街を見下ろす高台のふもと、フットサルくらいならできそうな駐車場の片隅に自転車を停めると、一礼して一の鳥居をくぐる。バリアフリーなんて概念のない時代に作られたと思しき由緒正しい参道は長く急な階段で、来るものを拒むどころか挑みかかるような威圧感を醸しだしている。
軽くストレッチを済ませた蒼一は、お手並み拝見、とばかりに石段を駆け上がった。
足取りは最初こそ軽やかだったが、頂上が近づくにつれ、明らかに回転が鈍る。体力自慢の蒼一であっても、一本走り終えれば肩で息をつくほどの斜度だが、鈍りゆく体と根性を叩き直すにはおあつらえ向きの場所。二の鳥居まで駆け抜ければ鈍った足腰が素直に過重労働を訴えてくるのだが、真夏とは思えない爽やかな風に誘われたように参道の方へ振り向いた少年の顔は満足そうだ。目の前には、ようやく見慣れてきた街並みに、はるか彼方まで続いてゆきそうな青空が広がる。肩さえいうことをきいたなら、どこぞの映画のボクサーのように両手を挙げていたと思うくらいには良い気分だ。
限りなく公共の場であることにちょっとした後ろめたさは残るけれど、彼以外に参拝客の姿も見当たらない。注意されたらそのとき考えるか、とのんきに呼吸を整えていた蒼一だったが、脳に酸素が回るにつれて、違和感と疑問に顔を曇らせる。
――いくらなんでも静かすぎねぇか?
耳を澄ましても、あたりを見回しても、ざわめくのは木々ばかり。思い返せば、駐車場の入り口はチェーンが張られたままだし、車は一台も止まっていなかった。
二の鳥居に守られているのは、想像以上にこじんまりとしながらも、歴史と古さを色濃く漂わせる境内だ。玉砂利や石畳の隙間からは草が伸び、拝殿も風雨にさらされた跡が目立つ。単に古いのではなく、手入れが行き届いていない。例外は手水鉢くらいか。
それ以上に気になるのは、街外れという立地を差し引いても有り余る静寂だ。鎮守の森と鳥居に囲まれているせいか、夏の到来を歌うセミの声すら遠い。社務所と思しき扉の音すら、気持ちいいくらいによく響く。
後ろめたいことなど何もないのだが、とっさに二の鳥居の影に隠れてしまった蒼一の前に、ジャージ姿の少女が姿を現した。夏なのにちょっと野暮ったい学校指定の長袖ジャージと、黒髪を行儀よく結んだ姿には覚えがある、のだけれど。
――藤乃井?
どこか思い詰めたような、不安と胸騒ぎに駆られる表情の紗夜が、本殿の脇を抜けて裏手へと足を向ける。
少年には気づいていないのか一瞥だにしない。手にしたブリキのバケツに収まっているのは掃除道具一揃いと、小振りで地味な色合いの花束。
一体何をする気なのか、彼女の行く先に何があるのか。自然と呼吸を止めていた蒼一は、好奇心に背を押され、くくられてなおつややかな後ろ髪に気取られないように、そっと後をつける。
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