2.6 よろしくね、花泉くん
担任は、予鈴のきっかり十秒前に姿を見せた。
慌てて椅子に腰を落ち着けた生徒一同を見回す厳しい目線、青地に白いラインのジャージを押し広げるずんぐりむっくりな体型は、どことなく熊に似ている。あまり教師らしくない見た目から繰り出されるのは、調子の悪い工作機械を思わせるだみ声だ。
「突然だが、今日からしばらく、留学生がこのクラスで勉強することになった」
寝耳に水もいいところの通達は、驚きの一歩手前のさざなみとしてひろがる。反応らしい反応ををみせたのは蒼一たち四人くらいのものだ。特に荒城は得意満面。後で「俺の言ったとおりだろ!」と鬱陶しい勝利宣言をされるのがみえすいているから、蒼一は早々にげんなりし始めていた。
おおい入ってこおい、と呼ばれた女子生徒は、扉から教壇までの数メートル歩く間に、教室にいる皆から言葉を奪う。
装いはひどくありふれているが、それが返って曲線美を引き立てる。ライトグレーのベストもろともシャツを押し上げる胸元の双丘、一体なにでできているのか首を傾げたくなる柳腰、平均より明らかに高いタータンチェックに秘されたもう一対の双丘が生む苛烈なギャップは、男子生徒の煩悩と妄想をダイレクトに刺激し、女子生徒の羨望と嫉妬を一身に集める。
制服に秘された肢体からは夜のような艶めかしさが匂い立つ一方で、顔つきからは朝の空気に似た清楚な色変が漂う。
ちょうど肩にかかるくらいの長さのプラチナブロンドは、ゆるく波うっているせいか、角度によっては薄紫色にも見える。泣きぼくろがアクセントの目尻に、眉尻が少し下がった優しい笑顔、高過ぎも低過ぎもしないバランスの取れた鼻すじは、総じてみると国籍不明感が拭えないけれど、親しみやすさの醸成には一役買っていた。
ティーン・エイジャーの折り返し地点にいるというのに、淑女と呼ぶに相応しい出で立ち。初夏のカラリとした
「ごきげんよう、みなさん」
スカートの裾が不用意に広がらない絶妙な早さでくるりと振り返った留学生、その桃色の唇から飛び出したのは、皆の想像以上に流暢な日本語だった。
「グロリア・オダギリ・ヴァイオレットです。ロサンゼルスから来ました。私のお母さんが日本人なので、日本の文化に興味があって、いろいろ勉強しました。だから日本語もできます。短い間ですけど、仲良くしてくださいね」
シンプルにもほどがある挨拶が終わってそうそう、一拍の間を挟んで、彼女を歓待する拍手、口笛、
紗夜も日奈も、他のクラスメイトと共に歓迎ムードの中にはいるのだが、先の会話もあって互いに目配せをしている。小さく教壇を指し示した日奈に、紗夜が返したのは肯定の仕草。朝に見かけた見慣れない生徒とは、壇上の留学生で間違いないようだ。
一方、教室に渦巻く喧騒の輪から外れているものも、少数ながらいる。
意外なのは荒城だ。さっきあれだけ紗夜に食い下がったくせに、今はまったく騒ぐ気配がない。お調子者の彼は、盛り上がるタネを目ざとく見つけては手厚く世話を焼き、花を咲かせる加減を間違えてカミナリを落とされるのが常だったはず。それなのに今は、目線を壇上から逸らさぬまま、口を半開きにして呆けている。両腕をだらりと下げたまま、少し猫背のまま座る様は、自分がどんな人間だったかすらもきれいさっぱり忘れてしまったようだ。
だが、今の花泉蒼一に、魂の抜け殻めいた友人にかかずっている余裕はない。
彼も健全な男子高校生、素敵な女子生徒がやって来ただけなら、皆とおなじように喜んでいればよかった。でも、大人びた魅力を全力で振り回すこの留学生の正体を誰よりもよく知っている以上、周りと同じ気持ちのままではいられない。
――なんで
魔法少女としての力を取り戻すため、母は魔力活性を高めた若い肉体を維持して生活している、そこまではよい。若返る原理はともかく、理由は示されている。だが、短期留学という体までとって、息子のいる学校にやってくるなんて説明は一切なかったはずだ。
壇上のグロリアは、息子の困惑なぞどこ吹く風、といった風情。親の心子知らず、逆もまた真なりとも称すべき行き違いに、蒼一は成すすべなくこめかみを押さえるばかりだ。
「おう、お前ら、それくらいにしとけ。オダギリの席はあそこ、窓際の一番後ろだ。色々わからないこともあるだろうから周りの奴らに助けてもらえ。お前らもそのつもりでな」
分厚い手を叩いて場を鎮めると、担任はよりによって蒼一の隣を指差した。主に男子生徒からの羨望と嫉妬を突き立てられた蒼一は、やってられっかとばかりに頭の後ろで手を組んでそっくり返る。
「よろしくね、花泉くん」
そんな
軽はずみにもほどがある、そう思ったときにはもう遅い。皆の視線は――荒城も、紗夜も、日奈も含めて――またたく間に麗しの留学生と蒼一の関係を訝しむものに変質していた。担任がホームルームを力づくで進めていなければ、少年は即座に質問攻めと吊し上げの憂き目にあっていたに違いない。
「鬼瓦の擬人化」「猛獣殺し」などと異名を取る担任に、蒼一もこの時ばかりは内心で感謝したが、問題を先送りしたにすぎない。一度鎌首をもたげた疑問は、その大元を根治しない限り、ずっと皆の心に居座り続ける。不幸中の幸いは、余計なことを喋らないための心構えをし、言い訳を取り繕うだけの時間的
ちらりと窓側に眼をやると、グロリアとばっちり目が合ってしまう。この後に訪れるであろう追求の嵐を乗り切る算段がついているのか、それとも今の状況を単に楽しんでいるだけなのか。
微笑みは余裕の現れか、それとも開き直りか、答えは魔法少女のみぞ知る、といったところだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます