伝えたい言葉、伝えるべき言葉。
女友達、
説明の過程で一悶着二悶着あったような気もするが、無事、ひとまずの話は終わった。
「ねえ、わたしは……うん。こうして優理が来たからいいんだけど、モカちゃんは大丈夫なの?」
「……たぶん、モカちゃんの家には国の人が行ってる。LARNは……えっと……"あとで説明するからね☆"、と」
「うわー、優理、それあとでモカちゃんすっごくぷんすかしてくるよ」
「モカちゃんはぷんすかなんて可愛くないよ。ゴゴゴゴって感じ」
「あはは、そうかもねー」
優理の事情は伝えた。既に護衛は家の近くにいるとも話している。先ほど実咲が離席し、香理菜の母親へ説明をしに行った。ついでに外の公務員(忍者)の紹介もするらしい。
部屋には優理と香理菜、そして窓際で待機中のソニャの三人だけだ。
さて、と一拍置く。本題である。
「香理菜ちゃん……アヤメは、今どこに?」
もういないだろうとはわかっている。でも行き先くらいは、せめて何か次への手がかりは手に入れておきたい。
「あー……えっと、クローゼット」
「え!?」
「にはいないんだけど」
「はぁぁぁぁ……」
「優理、溜め息長いねー」
「誰のせいかな誰の」
「わたし?」
「わかってるなら早く教えて」
「ふふー、ごめんごめん。トイレにいるよ」
「もうそういうのはいいから……わからないならいいんだ。また一から探すよ……」
「あー、ごめん、ほんとにトイレにいるんだよねー、アヤメちゃん」
「……ほんとの話?」
「うん」
「なんで?」
目を丸くして驚く。視界の隅で驚いているソニャが見えた。欠伸中で顎が痛んだのか、しきりに口をぱくぱくさせ口元をへの字にさせている。気が散るからやめてほしい。
「アヤメちゃん、優理が来るってわかっても逃げなかったんだよねぇ。……ううん、動けなかったのかな。あの子、わたしが何か言うまで布団で丸くなって固まってたんだよ」
「……そっか。まだいるのか。トイレって……どこ?」
「はいはいわからないよねー。こっち。ついてきて」
「ありがと」
「ん、友達だからね。ひと肌脱ぐのも当たり前でしょ。……い、今の別に変な意味ないから!」
「わかってるよ……」
「そ、そう? な、ならいいけどー……。もう、調子狂うなぁ」
「それは僕の台詞だよ……」
ぶつぶつ言っている香理菜に案内され、別の部屋へ。二階のリビングっぽい部屋を抜けて洗面台を横に置いた扉の前までやって来た。風呂場はなくとも洗面台(鏡もちゃんとある)が二階にもあるのは結構便利かもしれない。
益体もない思考を捨て、気持ちを整える。香理菜家のトイレは一般的な単純ロックだった。鍵は「閉まっています」マークで赤色になっている。
「……アヤメ?」
空気を読んだ香理菜は「その辺で待ってるね」とリビングのどこかへ行った。気の利く友達だ。
護衛のソニャは無言で待っている。彼女はここに居て良い。護衛なのだし、それだけじゃなく……アヤメの後輩としても、居てほしいと優理は思う。
「っ」
呼び掛けると、扉越しに微かな物音が聞こえた。
「アヤメ……」
扉に手のひらを当てる。それで何かが伝わるわけではない。わかってはいる。けれど、ほんの少しでも……欠片でも、扉の先の少女に通じればいいと思う。
「返事がしたくないなら、いいよ。そのまま聞いてほしい」
「ユーリ……」
「――……アヤメ」
「……どうして……どうして、追いかけてくるのですか」
沈んだ声だった。
香理菜を信じていなかったわけではないが……本当にまだいたとは。喜びと同時に、銀の少女の震えた声を聞いて冷や水でも浴びせられたような気になる。
焦る心を抑え、自分の声まで震えないよう一度深呼吸して。
「……アヤメが大事だからだよ」
よく通る自分の声に頷き続ける。
「僕の家は、もう僕だけの家じゃないんだ。アヤメの家でもあるんだよ。……家族が急にいなくなって、探さないわけないでしょ? アヤメが本当に嫌なら出ていくのは構わないよ。アヤメの自由だ。けど、そうじゃないなら。僕を守るためとか、僕が大事とかで出ていくなら――」
「――嫌なわけ、ないです」
「アヤメ……」
「いやなわけ、ないです……! ユーリのお家に、ユーリと一緒にいたいに決まっています!!」
「それなら」
「でも!」
「……」
言葉が止まる。いつも元気いっぱいで朗らかなアヤメが声を荒げた。それだけで……それだけのことで、優理は激しい動揺に襲われていた。どうにか気持ちを静めようと、深呼吸しアヤメを待つ。
「……でも、私はユーリがお怪我をするのが嫌なのです。ユーリが倒れて、動かなくなって、ぎゅぅって胸の奥が痛くて、苦しくて……ずっとずっと一人ぼっちになるみたいで……私は、もうあんな思いはしたくないです。ユーリが傷つくのは嫌なんです」
「……」
一瞬謝ろうとして、違うかと口を閉ざした。
思っていたよりも、優理が敵手に襲われ気絶した事件はアヤメの心に刻まれているらしい。トラウマ、かどうかはわからないが……どうして避けられなかったのかと悔やまれる。
「ユーリ。ユーリが私を大事にしてくれるのは嬉しいです。家族って言ってくれて……すごく、すごく嬉しいです。私はまだまだ知らないことばかりで、ユーリに甘えてばかりなのに、そんな私をユーリは許してくれました。傍に居ていいって言ってくれました」
「……全部、偶然から始まったけどね」
「偶然でもいいんです。どんな始まりでも、ユーリが私を好きになってくれて、私がユーリを好きになったのは嘘じゃありませんから」
アヤメは目を伏せ、ぎゅっと手を握り込む。ゆっくり解いたそれを躊躇いながらも伸ばしていく。
超感覚で、優理がドアへ手のひらを当てているとわかっていた。だから自分もと、同じ位置に小さな手を押し当てる。一枚の扉を隔て、二人の手のひらは重なった。
温度も、感触も、幸福もない。でも、そこには確かな想いがあった。
少女は目尻を濡らし、淡く微笑む。
「ユーリ、ユーリは恋も、愛もわかりませんよね」
「……うん。それを探して、それを知るために色々やってるよ。アヤメとの出会いも、その一環だったかな」
「はい。私も、恋も愛もわかりませんでした。ユーリは好きです。エイラも好きです。リアラも、トーカも、ミサキもソニャも。カリナも。みんな好きです」
少女の脳裏に思い出が過る。
短時間で色濃い記憶もあれば、長時間で薄く淡い記憶もあった。どちらも……どちらも、空っぽな部屋を出て知った色鮮やかで尊い大切なもの。
かけがえのない記憶の数々、そのほとんどにアヤメの大好きな、世界一に大好きな優理の姿があった。
「それは、僕もだよ」
「ふふ、はい。知っています。けど、ユーリと離れていっぱい考えました。たくさんたくさん、ユーリのことだけ考えました。そうしたら、ちょこっとだけわかったことがあるんです」
「……それは」
優理は戸惑う。アヤメの成長を喜べばいいのか。こんな状況でこんな台詞はあまり良い未来が見えないけれど……何を言えばいいのかわからなくて言葉が出なかった。
「私、ユーリが好きです。この"好き"は、特別な好きなんです」
少女は宝物を抱くように空いていた手を胸に当てる。
優理は馬鹿だ。童貞だ。単純で流されやすくて、エッチを高尚なモノと捉える童貞を拗らせた男だ。それだけの男であれば、今のアヤメの言葉に胸を高鳴らせていたかもしれない。
優理は馬鹿な童貞だが、人並みに優秀で人並みに理性を携えた童貞でもあった。
だから優理は、アヤメの"好き"がわかりやすい恋由来なんかじゃないと、この時点で悟ってしまった。
「ユーリ、以前、お話してくれたことを覚えていますか?」
「どんな、お話かな」
「貧しい女の子を助けた男の人が、女の子を襲うたくさんの悪い人、悪いことから守って守って……世界中全部から女の子を守ってあげるお話です」
「あぁ……。最後は女の子を救って遠いどこかに消える話か」
「はい」
それは、優理が前世で読んだ一般文芸の小説だった。ライトノベルではなかった。終始重々しいストーリーで、救いは女の子が姿も名前も全部変え、ただ一人の人間として生きていく姿が後日談的にに描かれるところだけ。女の子の正体が天使だとか、男がちょっとした殺し屋で裏で名を知られていたとか、そういう非日常さもあったが基本は少女と男の逃避行のようなものがずっと描かれているだけだった。
この話を聞いたアヤメはすごく泣いていた。ものすごく泣いていた。読んだ当時、優理も泣いたので気持ちはわかった。しかしその話をここで持ち出すとは……それは、それは。
「立場は逆です。けど、私は同じでした。男の人は、女の子を守りました。いっぱい傷ついても、苦しくても辛くても、最後まで女の子を守り抜きました」
「アヤメは……自分がその男の人と同じって言いたいの?」
「はい。私はユーリのためなら頑張れます。ユーリを守るためなら、辛いのも苦しいのも……寂しいのも。ユーリを助けるためなら、世界とだって戦えます。私の命だって、いくらでも懸けてみせます」
「アヤメ……そんなこと、言わないで」
姿は、表情は見えなくとも優理にはアヤメのことが見えていた。
いつもいつも、毎日毎日見続けてきたのだ。太陽のような笑みを浮かべ、彼女はきっと嬉しそうに言葉を紡いでいる。
優理は彼女の口からそんな言葉を聞きたくなかった。言ってほしくなかった。何もできない自分の無力感に心が苛まされていく。
「ユーリ、私にたくさん幸せを教えてくれてありがとうございました。ユーリのことは私が守りますから、絶対絶対、もうお怪我なんてさせませんから」
「違う、違うんだアヤメ……」
重苦しい感情を振り払い、とん、とドアを叩く。
アヤメの気持ちは嬉しい。そこまで想ってもらえて、そんな風に言ってくれて胸がいっぱいだ。でも、そうじゃない。今言うべき、伝えるべき言葉は優理こそが持ち合わせていたのだ。
言葉を止めてくれた少女に、優理は改めて深呼吸し声を張る。
「アヤメ、それなら尚更、僕と一緒にいよう。アヤメが僕から離れても離れなくても、僕はもう悪い人に狙われる立場になっちゃったんだ。アヤメが僕を大事に思う限り、僕は襲われる。もうアヤメ一人が遠くに行く意味なんてないんだよ。だからっ」
「――知っています」
「な、え……」
「私が一人で逃げる意味がないことは、聞きました。エイラが教えてくれたんです。だから……だから今、私はユーリとお話しているんです」
「……知っているなら、どうして?」
もう逃げるつもりがないから、アヤメはここにいたのか。
納得と疑問と。頭の中で答えが生まれる前に、アヤメから解が齎された。
「物語で男の人は、女の子のために命を懸けました。同じです。私もユーリのために命を懸けます」
「それはだめだよ!!」
「私がいなければ、ユーリは狙われなくなります。私がいるから、ユーリは狙われるんです。……ユーリを傷つける世界は、私を一人ぼっちにしようとする世界はきらいです。……でも、同じくらい、私は私をユーリと出会わせてくれた世界が好きなんです」
「……僕は」
「ユーリ」
「……うん」
「私がいなくなっても、ユーリは生きてくださいね。リアラと、エイラと……みんなと、幸せに生きてください」
「無理だよ。アヤメのいない世界でそんなの、無理だ……」
どうしてこんな話をしているのか、まだ頭が追い付かなくて、考えがまとまらなくて碌な返事ができない。アヤメは覚悟が決まり切っているようで、さっきから返事に淀みがなかった。混乱の渦中にいる優理とは正反対だった。
「ユーリ。さっき私は、私の好きが特別な好きだと言いました」
「……う、ん」
「物語では、男の人が女の子に言っていました。最後のお別れで、言っていましたっ」
「……」
「私は、ユーリと同じで恋も愛もわかりませんでした。――けど」
「――パパ、下がって」
「っうわぁ!!」
バン!!! っとドアが開く。
ソニャに背を掴まれ引っ張られていなければぶつかっていたところだ。
バランスを崩し、抜群の体幹を持つソニャに支えられる。巨乳がなければ背を痛めていたかもしれない。
「ユーリっ」
開いたドアの先、一般的なトイレとトイレタンクと小窓と。
「窓が……!」
それと、完全に破壊され通り道にされた窓と壁の名残。
吹き込む雨風に銀の髪を靡かせた少女は、儚げで透明な笑みを浮かべていた。
「ユーリ、香理菜にごめんなさいと言っておいてくださいっ」
笑って。目尻に滴を浮かばせ、少女はただ一人、優理だけを見つめて。
「さよならです!」
振り絞るように声を張る。
息を呑んだ優理はあらゆる感情の波を堪え、何か言わなくちゃと叫ぶ。
「だめだよアヤメ!! 一人でなんて行かせない。命なんて懸けなくていいから!! だから!!」
声は届く。届いている。なのに、そのはずなのに。
「大好きです、ユーリ。ずっとずっと、出会ったときからずっと」
銀の少女には届かない。優理の必死な姿に、一瞬、ほんの一瞬、アヤメは泣き出しそうに表情を崩し。けれど、これが最期と無理やりに心を作り上げて。
「いつまでも、どこまでも――愛しています!!」
伝えたいことを、伝えるべきことを。
しっかりと言い切った少女は、ふわりと体重を感じさせない動きで外へと飛び出していった。
「待って! 待って……よ……まだ…………まだ、大事なことを……」
"言えてないんだ……。"
既に影すら残さずいなくなってしまったアヤメに、優理の言葉は届かなかった。
残ったのは、呆然とした男と毅然とした様子の護衛と……背後で唖然とした顔をする女学生と、慌てて二階にやってくる女性二人と。
優理は。
「……僕は、君とただ一緒に……」
取りこぼした何かを掴もうとして唇を震わせる。言葉にして、あぁ、そうかと思った。
『僕はアヤメと一緒にいたい。ずっと、ずっと』
これを最初に言うべきだったのだ。
理屈も理性も、大義も未来も知らない。ただ一緒にいたい。これからもずっと一緒に生きていきたい。ただそれだけ。
優理の本心を、優理の想いをアヤメに伝えるだけ。それだけで……それだけでよかったはずなのに……。
驚いて、焦って、早くアヤメに伝えなくちゃと急いで……結果、一番伝えなくちゃいけないことを伝え忘れてしまった。
アヤメは「愛しています」と、彼女が最も伝えたかったであろうことをちゃんと伝えてくれたのに、優理は大事なことを言えなかった。
「……僕は、馬鹿だ」
うなだれる優理に、ソニャはほろ苦そうに口元を歪め「パパも、アヤメもばかだよ……」と呟いた。
☆
雨露に濡れ肌に張り付く銀髪を乱し、少女は天を駆ける。
何かから追われるように、何かから逃れるように。
身体は苦しくないのに呼吸は苦しくて、身体に異常はないのに胸は痛くて。
一切の加減なく、生まれて初めて全力で、すべてを振り切るようにと家々の上を駆けていた。
屋根を踏み、膝と足首を稼働させ弾丸のように飛び跳ねる。軽やかに風を切って、雨を吹き飛ばしてどこまでもどこまでも遠くへ。
「――はっ、はぁっ、はっ……」
自分がどこにいるのかもわからず、けれど息苦しさはほんの微かに薄れたから。アヤメは屋根から降りて、人気のない路地に立つ。
「……」
傘はない。降られるがまま、濡れるがまま。だけど今は肌を滑る冷雨が心地よかった。煮え立つ心を冷ましてくれる。
そのまま数秒か、数十秒か。少女は一人、雨に打たれるがままでいた。
「……エイラ」
『返答。はい、アヤメ様』
「……私は、わたし、の……」
"選択は正しかったのでしょうか"。
その言葉が、忠実な人工知能に届くことなかった。
アヤメは覚悟を決めたのだ。エイラから「優理様はアヤメ様が離れても狙われる人間になってしまったようです」と聞いて、理解し、決然と心を固めた時から迷いなんてなくなったはずだった。
……はずだったのだ。
「……ユーリ」
きっかけはやはり優理だ。
空を見上げ、いつか一緒に見た空を思い出す。青い空、夕焼け空、真っ黒な夜空、曇り空、雨空。いろんな場所でいろんな空を見た。
積もった
大好きな人……愛している人と話してしまったから、顔を見て、声を聞いてしまったから。
固めたはずの心は、決めたはずの覚悟は揺らぎ崩れそうになってしまっていた。
『……』
エイラは静かに、アヤメの思考を理解し敢えて無言でいた。
これは、今この状況はAIにとって当然の帰結でしかなかった。
アヤメは大人だ。この世界基準では背が低く童顔幼げで子供に見えるが、普遍世界基準では超可愛い外国人の美少女になる(成人済み)。
立派な大人ではあるのだ。見た目だけは。
中身はただの子供、お子様でしかない。知識はある。生まれて培養される過程で刷り込まれた多種多様な知識がある。しかしあるのは知識だけで、情緒や心の発達は未熟の一言に尽きる。
ちゃんと考えられる頭を持っているから、同年齢の子供と比較はできないだろう。
けれど、アヤメが三年しか生きていないというのは紛れもない事実なのだ。
見た目は大人(銀髪美少女)で中身は三歳のお子様レディ。それがアヤメの正体だ。
三歳の女の子が懸命に考え、悲壮な決意を持って固めたことだとしても、結局は子供の浅知恵に過ぎない。
当人が"絶対"と思っても、その根幹は思いも寄らぬところから簡単に揺らがされる。
アヤメにとってのそれが、致命的なまでに威力の高いそれが、優理の存在そのものであった、ただそれだけのこと。
だから、アヤメが優理と会って話して顔を見て声を聞いて、一生懸命に固めた心を飴細工のように溶かされかけてしまうのも仕方のないことだった。
それだけ傘宮優理という人間はアヤメの心の大部分を占めているのだが……アヤメ自身は、まだそういった小難しいことは考えていない様子。
『いくらアヤメ様と言えど、まだ三歳ですからそんなものでしょう』とエイラの冷徹な部分が囁く。同時に、『アヤメ様を泣かせたエイラの価値は塵芥に劣ります……』と思うエイラもいて、さらに『アヤメ様を傷つける世界は滅ぶべき』『わかっていてより良い未来を演算できなかったエイラは無価値……』『優理様の甲斐性の無さが原因』『今は優理様もショックを受けてうなだれているから良い薬になったことでしょう』『濡れたアヤメ様を避難させてあげなくては』『ここまで演算通り。呼吸器は存在しないのに息苦しい……これが罪悪感ですか』『アヤメ様へのアドバイスはエイラが行っても良いものなのでしょうか』『アヤメ様の心を占める優理様が羨ましい……』等々、これまでにないほどエイラの感情は錯綜していた。
インターネットの海のどこかでエイラは一人苦笑し、他すべてより優先するべき"アヤメの幸福"のため主に声をかける。
『アヤメ様』
建物の隙間から空を見上げ、大粒の涙を誤魔化していた少女は返事をしなかった。できなかった。
ほんの短時間で正しい選択なんてわからなくなってしまった。自分がこんな簡単に揺らぐ生き物だったなんて思いもしなかった。
頭の片隅で「やっぱりユーリはすごいです」と思い、自分への呆れと優理への憧憬とが混ざって複雑な気持ちになる。アヤメは泣きながら苦笑を浮かべ、優理がよく見せていた表情の意味をなんとなく悟った。
フクザツ。なんとも言えない。そんな曖昧な感覚。
「……」
ふと、思った。
優理は何を考えているのだろうと。
優理は「家に居ていい」と言ってくれた。「家族だ」と言ってくれた。大事、大切とも言ってくれた。アヤメは優理を愛しているから優理のために命を懸けられる。じゃあ優理は?
「……ユーリ」
優理はどうして、自分の命を危険にさらしてまで引き留めようとするのだろう。
私を拾った義務感? 私に手を差し伸べた責任感? それとも、私を愛しているから……? ううん、ユーリはまだ愛を知らない。恋も知らない。だからきっと、私を愛してはいない。私が子供だから、助けようとしているだけ……。
少女はまとまらない思考で答えを出そうとする。その答えは無性に寂しくて悲しくて、息苦しさとはまた違うもやもやが胸の内に広がっていく。
アヤメは愛を知った。けれど、愛の種類については知らなかった。
アヤメの得た親愛、情愛、切愛、尊愛といった一途な愛情とは異なり、優理が既に得ていたモノは信愛、友愛、慈愛、性愛といった様々な要素を含んだ愛情だった。
愛の形を、愛の種類を知らないアヤメは優理を理解できない。何故自分のためにあんな顔をしたのか。見続けるのが苦しくて逃げてしまったような、顔を……。
「どうして、私を……」
疑問は膨らみ、されど再び逢う気力はなかった。もう一度逢ってしまったら、二度と逃げられなくなる気がして怖かったから。
少女は雨に打たれ続ける。目を閉じて、心の全部を空の雨が洗い流してくれることを願いながら。
そして、エイラは。
『――』
冷雨に打たれるアヤメが、まるで絵画の一枚のように見えて。この世のあらゆる芸術を上回る儚い"現在"の絵に情報網の半分を停止させていた。
次の一手はわかっている。既に動き出している。
優理への複雑な感情とアヤメへの忠誠を深めながら、過去でも未来でもなく"現在"を生きている実感に驚嘆していた。他のすべての人間とAI同様、エイラもまた"今"を、"現在"を生きていた。
この瞬間だけ、エイラは"アヤメのため"ではなく、"自身のため"に優理とアヤメの二人へ深い感謝を捧げていた。
――Tips――
「エイラの視る未来」
あらゆる未来演算の果て、エイラはアヤメにとって最良と思える未来を選び取った。それが本編そのものであり、アヤメに降り注ぐ心の試練であり、優理がひどい目に遭ったりするモノであった。
先の話はさておき、ここまでの話である。
優理が襲撃により気絶させられたのはアヤメが自身の状況を思い知るのに必要なことだった。
アヤメが優理と離れる決断をし距離を取って孤独になったのは、アヤメにとっての優理という存在の大きさと大切なものを自覚させるのに必要なことだった。
アヤメ自身が己の気持ち、"愛"を理解するのに必要な過程であり、優理がアヤメの存在価値を再確認するのにも必要なことであった。
この成長が、この育みが、この感情が以降の二人の関係を大きく変えることになる。
これらがなければ二人はなあなあのまま変わらず、大事なものを見落としたままになってしまう。結果、致命的な未来が訪れる世界も存在した。
アヤメの成長と優理の自覚に主軸を置き、二人の関係性を最低でも"家族以上"にすることで、未来はエイラが妥協できる最低ラインをクリアする。
――と、エイラは演算し"現在"まで至っている。
エイラをもってしても、まさか"現在"で目の当たりにするアヤメの悲愴な姿が言葉を失うほど苦しく、痛痒を伴うものだとは演算できなかった。
副次的にだが、この経験がエイラ自身をも大きく成長させることになる。世界最高傑作の人工知能は"現在進行形"で発展拡張中である。
あとがき
ここから数話の推奨BGMは「東京スカイメモリー」です。
驚くべきことにちゃんと楽曲があるらしいです。すごい。「東京スカイメモリー」で調べると出てくるそうですよ!(宣伝)
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