第二章、傘宮優理と同居生活。

アヤメの日常。

 東京の都心より電車で二時間以上かかる郊外。

 緑豊かな自然に囲まれ、近くには広々とした林が茂る。林の先には小高い山があり、ちょっとしたハイキングやウォーキング目的で訪れる者もいる。通路が整備され、ある程度見通しもよくされた人の手を感じる森林だ。


 そんな緑山森林の手前には住宅街も広がり、一軒一軒がある程度の大きさを誇る高級住宅街として知られていた。


 住宅群の中に、森にほど近い一軒の家がある。明るい灰色の外壁に、紺色の屋根をした何の変哲もない一軒家だ。

 周囲を似たような家に囲まれ、それぞれが広い土地を持っているためか多くが互いの家主を知らない状況だった。


 家を建てた人物もあまり周囲との関わりを持ちたくなかったため、繋がりの薄い住宅街は好都合だった。

 周りに違和感なくそれっぽく溶け込める状況をこそ家主は求めていた。


 そうして、手を回し誰にもバレず実在の人物を利用した名義で家を建てた家主は、予定外に、しかし彼女自身の想定通りに命を落とした。


 立派な家に残されたのは、ただ一人。何も知らない、無垢な少女ただ一人。


 家主の祈りが込められた少女の名は、アヤメ、と言った。



 ☆



 アヤメの朝は優理のモーニングコール――勝手に録音した声を編集して設定している――から始まる。


『アヤメー。おはよう。今日も可愛いね。可愛い僕のアヤメ。今日も一日頑張ろうね』

「……んぅ……おはよ、ござ……ます……」

『アヤメー。アーヤーメー。おはようおはよー。アヤメ、大好きだよー』

「――はいっ!私も大好きです!」


 そこには、愛の言葉で元気に目覚める少女がいた。


 ベッドはふかふか真っ白なダブルサイズ。

 暗闇の苦手なアヤメは豆電球を付けたまま寝ており、今も天井に弱く灯っている。

 タイル状の床はひんやりして、部屋全体に空調が行き届いている。

 淡い白で統一された部屋は無機質で、窓がないため朝でも太陽を感じることはない。当然カーテンもなく、豆電球の明かりだけが部屋を照らしていた。


 頭の上の携帯を引っ張り伸ばし、ぺたっとタップして目覚ましを止める。

 アヤメの持つ携帯は黒一色でうにょうにょと容易く伸び縮みする代物だ。技術の粋が詰め込まれており、一般には出回っていない。

 そのことを一切知らない持ち主は雑に使っている。見る者が見れば絶叫することだろう。


 ぱっと勢いよく身体を起こし、うーんと伸びをしてぱちぱち瞬きをする。


「今日も良い一日の始まりです!」


 銀色の睫毛で彩られた藍色の目を細め、にっこり笑ってベッドを降りる。

 アヤメの一日が始まった。



 目を覚ましたアヤメは、まず洗面所に向かう。

 長い髪を留めて前髪をよける。顔を洗い、コップでうがいをしてから喉を潤す。タオルで水気を拭い、倉庫に行って今日の朝食を選ぶ。


「……むー」


 毎日のことだが、ご飯の種類が多すぎて困る。

 迷い考え、今日は五目チャーハン中華あんかけ丼にすることとした。


 五目チャーハンも中華あんかけ丼もレトルトのパックで

あり、水を入れると食べられるようになる便利仕様だった。栄養バランス調整に青汁を付けて、今日の朝食とする。


 レトルトパックに水を入れ机に持っていき、パソコンを付けながら数分待つ。


「あ」


 たたたーっとベッドに走り、携帯を持ってくる。

 画面を付ければ通知が一件。


「えへへー」


 にへらと笑みをこぼし、通知をタップしてSNSを開く。

 彼女にとって唯一の連絡相手、アライン(優理)からだった。


 椅子に座って機嫌よく身体を左右に揺らし、ぽちぽちとメッセージを打っていく。

 アヤメは別に、優理以外の人間と連絡が取れないわけではない。インターネットには繋がっているのだし、携帯もあるのだからSNSで暇潰し相手などいくらでも見つけられる。

 ただちょっと、最初に書き込んだことへの返事がひどかったのでネット上の誰かとこれ以上連絡を取り合いたいとは思えなかった。


 初期の段階で優理という男と知り合えたのは彼女にとってずいぶんな幸運だった。

 高いセキュリティに守られた環境におり、周囲に情報を漏らすこともなく、適度にアヤメと話す時間もあり、さらには極めて稀な男である。

 深層心理に刻まれた生殖欲求の第一段階が満たされている現状、アヤメは素直に今を楽しみ満足していた。


 もちろん優理のことを知りたい、会いたい、もっとお喋りしたいと欲にキリはないが、その際限ない欲をスパッと制御できるのがアヤメだった。

 それは当然、彼女の持つ性欲にも言える。


「いただきます」


 そっと手を合わせ、パソコンで動画を流しながら朝ご飯を食べる。

 優理も似たような状況でよくご飯を食べるので、今の彼女を見たら微妙な顔をすることだろう。


 銀髪藍眼の美少女が超庶民的に朝食を食べている。夢がないね。いやむしろ逆に夢があるか、と頭を悩ませるかもしれない。


 もぐもぐしながら、アヤメは今日のやるべきリストを頭に浮かべる。


 一、なし。

 二、なし。

 三、なし。


 いつも通り特になかったので、携帯をうにょーんと伸ばして宙に固定しメモ帳を広げた。


「そうでしたそうでした」


 AR(拡張現実)のように薄い液晶上のメモ帳を見てふんふん頷く。

 画面には"これからやりたいことリスト!"と書かれてあった。


 1.アラインに会う

 2.アラインのお名前を考える

 3.お外に出る

 4.アラインとお喋りする

 5.お外を調べる

 6.やりたいことを探す


 他いくつか。美味しいご飯を考えるとか、好きな音楽を探してみるとか、好きなご本を見つけてみるとか。少女なりに考えた"やりたいこと"がたくさん並んでいた。


 アヤメは幼い。

 身体は大人だが、その心は未だ三歳。目覚めて一年は意義なく人形のように生きていたことを思えば、実年齢は二歳とも言える。


 刷り込まれた常識はある。考えられる頭もある。行動するための肉体もある。

 けれど、彼女の精神は未熟そのものだった。


 教え導く者はいない――こともないが、そこまで深く考えていない優理だけだ。

 それとなく察してはいるものの、明確に教導役として働いているわけではなかった。


 とはいえ、アヤメ自身にも自分が何もわからない未熟者だという自覚はある。だからこそやりたいことリストを考案したわけだ。まあ優理から"外に出たらやりたいこととか考えてみたら?"と言われたからでもあるが。


「むーん、アラインアラインアラインですかー」


 ランダム再生の動画がゆったりとしたピアノを流す。

 口ずさみ、鈴の音をこぼしながらアラインと名前を呼び続ける。


 くるくると椅子を回し、天井を見上げ、額に両手を重ねながら頭を悩ませる。

 実のところ、アライン――優理の居場所は既にわかっていた。


 アヤメの持つ携帯電話、正式名称「New Era」は最新式のAIが搭載され、開発者によってAI Eraより「エイラ」と呼ばれていた。

 エイラの持つセキュリティシステムのベースは日本の、それも重要機密に関わる最上級のシステムとなっている。つまり、日本の男性が持つ携帯電話と同等、すなわち優理の携帯電話となる。当然既存のものとは別格の体系を構築しているが、それは別の話。


 ぽちぽち携帯を弄っていたアヤメがエイラに気づくのも当然で、自然な流れで質問をしたら普通に答えが返ってきてしまって驚いた。それが優理から名前のヒントをもらった翌日のことである。


 以降、優理の本名や詳しい情報は伏せるよう伝え、エイラには日常的な疑問や悩みのみを尋ねている。


 自分で色々考えること一週間以上。

 ぜんっぜんなんにも思いつかなかった。


「アラインはずるです……」


 ついぼやいてしまうほどにはヒントが少な過ぎた。

 英語とか日本語とか、インターネットで調べてもよくわからなかった。アラインを英語にしようとしたって、そもそも単語を知らない。詳しい情報を知ろうにも、優理との電話は楽しすぎるせいでいつも聞きそびれてしまう。

 通話を終えた後に、また忘れた!となるのが日々のルーティンだ。


 携帯を見て、どうしようかなと思う。

 アライン関連は一度忘れ、あとできることと言えば外に関するものだ。やりたいこと探し自体は毎日のように見つけているため、今さら改めて考えることでもない。ただ、見つけたものはどれも外に出てやりたいことだ。


 美味しいご飯。スイーツ。カフェ。ラーメン。公園。水族館。遊園地。動物園。道路。駅。スカイタワー。東京。コンサート。図書館。お祭り。お花見。デート。神社。森。車。太陽。空。雲。それと、アヤメ――アイリスの花。


 したいこと、見たいこと、触れたいもの、食べたいもの。

 やりたいことなんて本当にたくさんある。数えられないほど、毎日毎日増えていって、同じメモ帳じゃ足りないから別の専用メモ帳を作ったほどだ。


 インターネットで知識を得られる分、本物を見てみたいと強く思う。

 自分以外の人間も見てみたいし、話してみたい。アラインと顔を合わせて、ぎゅーって抱きつきながらお喋りしたい。エッチなことも携帯越しじゃなくて、直接してみたい。


 たくさんたくさん、いくらだってやってみたいことはある。

 だからアヤメは、外に出たかった。


「……」


 そして、外に出る手段もある。


 そろーっと視線を動かし、天井を見つめる。

 PC据え付けのデスクより離れ、アヤメが眠っていた謎の装置の上。コールドスリープのようで、実はナノマシンによる培養及び保管を行う機械のちょうど直上に当たる場所。


 露骨に非常用出口っぽい切れ込みがあり、よく見れば同色でわかりにくいが取っ手もある。以前、アヤメもジャンプして掴んでみた。勢いで開けて上を見たが、暗闇の中に梯子があった。携帯の明かりで照らすと奥の方に天板があったので、たぶん上の階に続いている。上の階があるのかどうかさえ知らないが。


 開いてみて、普通に外に出られてしまいそうだったので怖くてそっと閉じた。


 それから、気にしないようにしながら何度も非常口(仮)を見ている。


「……むー」


 どうして私がこんな悩まなくちゃいけないんですかー、とむくれる。

 ぽちぽち打ち込んでエイラに不満をぶつける。


【私がもやもやさせられるのはおかしいです!】

【疑問。アヤメ様は何に悩まれているのでしょうか】

【お外に出たいけど怖いことですよ!】

【納得。しかしアヤメ様自身の心の問題であるため、エイラから明確な回答をお伝えすることはできません。よろしければ「心の成長」「心の育ち」「もやもや解消術」等のキーワードで検索してください】

【検索しません】


 エイラは優秀だが、定期的にネット検索するよう言ってくる。アヤメにそんなものは必要なかった。

 思いつつ、あんかけ丼を食べながら検索をする。検索結果から適当なサイトを覗くと。


「むぅ、諦められたら苦労しません!」


 頬を膨らませ、余計にもやもやするはめになった。

 幼いアヤメが外に出る勇気を得られるまで、まだもう少し時間がかかりそうだった。





――Tips――


「アライン」

優理が咄嗟に決めた偽名。アヤメと話す時にのみ使っており、アンブレラ(傘)とシュライン(宮)を合わせてアラインにした。

アヤメには名前の推測が難しく、寝る前に考えて疲れて寝るのが習慣になっている。

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