隣の旦那様と夢見る乙女2

『……アライン?えと……あの……』


 おそるおそる、といった様子の声に目を見開く。

 綺麗な声だった。鈴のような、美しい音色。幼さを残したままなのは想定内だ。確信とまではいかないが、よりアヤメ子供説が濃厚になる。


『アライン?聞こえているのですか……聞こえて、いないのでしょう、か……』


 後半の声が沈んでいる。申し訳ないことをした。少々考え込みすぎてしまったようだ。すぐさま携帯に向け言葉を返す。


「すみません。アヤメさんの声が綺麗過ぎて聞き惚れてしまいました」

『ぁ……ほ、本当に男の人だったんですね』

「いや、私のこと何だと思っていたんですか……」

『意地悪な人』

「引っ張りますね……まあいいですけど」


 この反応もありがちだ。

 意地悪な人云々はともかく、本当に男だったのね、はよくある。本当によくある。というか、十人中九人は言うレベルで言われる。

 それだけ男性のエロチャットがレアであり、優理が異常だという証拠でもある。


「アヤメさん」

『アヤメ、です』

「え?はい。アヤメさん」

『だ、だからアヤメ、です』

「……それ、呼び捨てにして欲しいという合図ですか」

『はい。私はアヤメなので、アヤメと呼んでください。敬語もいらないです。お話だと……距離を感じます。さっき、好きに呼んでくれると言っていました』

「……まあ構わないけど、アヤメ」

『――――」


 息を呑んだような音が聞こえる。

 色々と聞きたいことがあるので、できればサクサク話は進めたいところなのだが……。


「アヤメ?」

『――アライン』

「はい」

『不思議です。胸の辺りが、どきどきうるさいです』

「……」


 なる、ほど。

 今度は優理が言葉に詰まる番だった。


 スゥ、っと前世の記憶が甦る。どんな記憶か。"無知シチュ"と呼ばれる代物だった。要するに性知識のない少女を相手にエッチなことをしたり教えたりするアレである。

 前世知識の内容が碌でもなさすぎて溜め息を吐きたくなる。通話中なので我慢した。


「アヤメ」

『……はい』

「それはきっと、僕が君の声を聞いてドキドキしたのと同じだよ」


 性別や経験が違うのでなんとも言えないが、大体は一緒だろう。誰かの声に美しさを感じるのと、誰かの声に……いやちょっと違うか。たぶんアヤメの場合、男の人から名前を呼び捨てにされたこと自体が新鮮でドキドキした……というような話のはずだ。この世界、男性が減りすぎて父親のいる家庭の方が珍しくなってしまっている。

 きっと、アヤメも父親という存在を知らずに育ったのだろう。


『アラインも?』

「ごめんちょっと違ったかも」

『……アライン、意地悪です』

「だからごめんって。拗ねないでよ」

『べつに拗ねてないです』

「そっか。ならいいね。アヤメ、君の話を聞かせてくれる?」

『ん……はい。アライン、私とアラインの秘密です。守ってください』

「いいよ。アヤメと僕だけの秘密だ。誰にも言わない。約束する」

『――また、です。胸の真ん中がどきどきします』


 悪いことじゃないから大丈夫とだけ伝え、アヤメの話を聞いていく。

 ここまで前置きをしたのだから、さぞ複雑なものなのだろうと携帯に耳を傾ける。


『アラインは、私の自己紹介文を見ましたね?見たならわかると思いますが、私は三歳です。私には、三年より前の記憶がないのです』


 そんな言葉を皮切りに、たどたどしくもやたらリアリティのあるSFなストーリーが始まった。




 アヤメには、三年より前の記憶がない。というより、そもそもアヤメは一般的な人と同じようには生まれていないので記憶などあるわけがない。


 アヤメは人間でなく、人間を模して作られたヒト型だった。

 およそ三年前に無機質な棺のような装置から目覚めたアヤメは、何の目的も与えられず日々をぼんやりと過ごしていた。肉体は成熟していても、精神はそうもいかない。最低限の常識だけが頭にあり、それ以外は何もなかった。


 装置から出た先の部屋も無機質で、人の気配はなかった。全体を冷たいタイル状のもので覆われ、広々としているが窓はない。ふかふかのベッドと、机と椅子と。それとパソコン。あるのはそれだけだった。

 別の部屋に通じる扉がいくつかあり、それぞれお風呂、トイレ、たくさんの飲食物が置かれた倉庫に繋がっていた。


 やることも考えることもなく、ただただ惰性で生きていたアヤメだが、一年もすると徐々に現状への疑問が湧いてくる。


 自分の存在意義、今目覚めた理由、やるべき目的、生きる上での命題。


 人間と異なるヒト型――人形にんぎょうだという自覚、知識はある。だがそれだけ。それより先がない。誰がアヤメを生み出したのか、誰がアヤメをここに置いたのか。誰が何の目的で…………。


 そんな疑問も、一年経てばどうでもよくなる。

 アヤメは部屋に置かれたパソコン、つまるところのインターネットにハマっていた。


 外の世界の存在、人間という生き物、男性という存在。

 見て聞いて調べて、一年中他にやることのない彼女はひたすらネットサーフィンに勤しんでいた。


 そのほとんどが漫画や小説等の娯楽に費やされたのは、生後一年の子供故仕方ないことなのかもしれない。


 自分がSFに出てくるアンドロイド的存在に近いと知り、ならやっぱり創造主がいるはずで、彼もしくは彼女はどこにいるのだろうと考えた。そうして考えて、思いついたのは自身の眠っていた無機質な棺だった。


 ちょっと怖くて生まれてからずっと近寄らなかったが、意を決して近づいてみる。

 するとそこには、一枚の金属板が置かれていた。板には文字が刻まれており。


【アヤメ、あなたを愛してくれる人を探しなさい。人形ではなく、人としての愛を探しなさい】


 そんな言葉が、誰が書いたのかもわからない短い言葉だけが刻まれていた。

 金属板には創造主のサインか好みか、アイリスの花が描かれていた。けれど書き手は少女をアヤメと呼んだ。だからアヤメは自身をアイリスであり、それでもアヤメであると称していたのだ。


 アヤメには書き手の意図を理解できなかったが、これがきっと、創造主が自分に求めているものなのだと思った。


 小説で読んだのだ。人形は心を持つ。人でなくても、人外でも心は持つものなのだ。

 漫画で見たのだ。心は人との関わりにより成長する。心は世界を美しくする。


 その時ぎゅっと、胸の奥が小さく痛んだ。

 けれどそれは、アヤメ自身にもちゃんと心があるからなのだと、幼い心で自分自身をしっかり見つめ受け止めることができていた。

 アヤメはまだ生まれて一年の子供だけれど、身体は大人で、心だっていろんなことを考え思い、受け止められるくらいには成長していた。


 それから。

 それから、アヤメは自分を愛してくれる誰かを探し始めた。インターネットの漫画では、女の子は誰だってかっこいい男の人を待っていると言っていた。小説でも、女の子は王子様を待っていると書いてあった。どんなお話も最後には男の人が女の人を迎えに来てくれていた。


 つまりそう。そういうことである。

 アヤメは、夢見る乙女になっていた。




『――私はずっと待っていたのです。一年……いいえ、三年です。目覚めてから三年なので、三年待っていました。誰も迎えにきてくれないので、私は少し寂しくなりました。なので、パソコンを立ち上げた時、最初に開かれていたこのページで私の愛を探すことにしました。そうしたら……そうしたら、アラインが来てくれました』

「……なるほど」


 優理は戸惑っていた。というか、どこからが本当でどこからが嘘なのかわからなかった。話を聞いていて、アヤメの語りから嘘は一切感じられなかった。だが本当だとは思えない。もし本当なら、これは転生先が性欲逆転世界から性欲逆転SF世界になってしまう。


「……」


 まあ別にSFでも構わないか。

 よく考えたら優理に不都合はなかったので、そこはどちらでもいいとする。


 重要なのは、通話相手のお子様、アヤメが厄介なお姫様系乙女になっていることだった。


 お姫様系乙女。

 優理が名付けた、一方的に想いを拗らせて対応を失敗するとすごく面倒くさくなる女性全般を指す造語だ。具体的には、ストーカーだったり荒らしだったりヤンデレになったりする。あと泣き喚いたりもする。号泣動画、号泣音声を送りつけてくるのはよくないと思う。


 ただの厄介な相手ならすぐ話を打ち切って終わらせて逃げればいいのだが、今回はそうもいかない。


 相手の精神年齢がお子様なことを考えると、ここで逃げるのは可哀想だ。優理としても既に少々情が湧いている。

 アヤメの話がどこまで本当かはともかく、いったん全部受け入れて話してみようじゃないか。


「アヤメ、ちなみに君の肉体年齢ってどれくらいなの?」

『?どうしてそんなことを聞くのですか?私の身体は最も愛を受け入れやすいよう、人間で言う十八、十九歳頃に調整されていますよ』

「そっかー」


 これはきっと、アヤメの創造主の性癖が反映されているね。

 胸中の呟きは優理の偏見である。


『アラインはどんな身体をしているのですか?』

「いやらしいこと聞いてる?」

『嫌らしいことなのですか?』

「……いや、別にいやらしくないかもね」


 少し調子が狂う。

 アヤメの声は真っ直ぐ過ぎて、自分が汚れているのだと自覚してしまう。それもこれもこの性欲が悪いよ、性欲が。


「僕は男だから、アヤメとはかなり違うかもね」

『そうなのですね。……あ、ふふふ、私、知っていますよ』

「何を?」

『男の人は女の人の裸を見るとどきどきするんです!』

「あー……」


 先ほどの話を全部信じるならば、アヤメの性知識はインターネットの漫画や小説しかないことになる。偏りがひどい。

 前世でもそうだったが、今世のネット情報は輪をかけてひどい。女性のほとんどが男性経験なさ過ぎて、「セックス超絶気持ちいい派」と「少女漫画的プラトニックエッチ以外この世に存在しない派」が日々激論を交わしている。ネットで言い合いをしているのが全員揃って処女という地獄だ。ちなみに優理は童貞なので、立場は対等である。


「いやまあ、ドキドキはするけど……アヤメはどうなの?」

『私ですか?』


 きょとんとした顔が目に浮かぶ。

 顔も体型も、髪型さえわからないが、なんとなくぽやんとした可愛らしい表情が思い浮かんだ。


「うん。アヤメは男の裸……この場合は僕か。僕の裸考えたらどう?ドキドキする?」

『……』


 言葉がない。

 返事に迷っているのか。何を言えばいいのかわからないのだろう。そうなるのも無理はない。さすがに無知娘に通話でこれはまずかったかな、と話を変えようと思うが。


『あの、ア、アライン』

「うん。なに?」

『え、えっと……胸がどきどきして、変です……私、ちょっとお漏らししちゃったみたいなんです……』

「……」


 おっとぉ、これはよくない流れだね!!

 傘宮優理、急展開に絶句し冷や汗を垂らしてしまう。

 "Call"中を示す携帯の画面が、優理の心を表すかのように弱く光っていた。





――Tips――


「お漏らし」

ちびる、漏らす、嬉しょん、等言い方は色々ある。

恐怖を味わった時に膀胱が緩み漏れることもあれば、快感と共に漏れ出すこともある。

液体の種類にも色々ある。深い意味はない。

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